第2話 透明な飛沫と深紅の雨粒

 読者諸兄には想像の翼を羽ばたかせて戴きたい、深夜とは云えぬ時間帯ではあるが……激しい雨が降る夜、一昔前に設置されたままの水銀灯だけが薄ら白いをチラつかせるだけの光源しかない、古びた閑静な住宅街。


 築年数は三十年以上を超過しているであろう、老朽化した家屋から聞こえる剣呑な罵り声と何かが破損する音……もし私が若く屈強な人間であったとしても、能動的にそのような事案もめごとに関わりたくもないと、それを忌避するために全力を尽くそうとする行動を誰もとがめ立てはしないだろう。


 それに私は若くもなく屈強でもない、仕事の重圧ストレスと家庭の軋轢プレッシャアに擦り潰されかけている、ただの疲れ果てた中年男性に他ならないのだから。


 とうとうと云うべきか、遂にはと述べるべきなのか……そんな私の存在する境界エリアに、物騒かつ騒々しい声音と物音の主が派手に乱入してきたようなのだ。


 危難を恐れる警戒心と災禍トラブルを避ける事勿ことなかれ主義の心、その二つの相反するようでいて実際にはつがいのように繋がり、粘膜の奥深くから混じり合うように離れ難い扇情的ラスィヴィアスな関係性が、私の心拍数を三桁まで跳ね上げさせながら、騒音の根源へと視線を送らせた。


 いささか鋭さが過ぎる不審な視線の先に在ったのは、果たして一小市民であるところの私が想定する範囲の埒外らちがいの存在であった。


 降りしきる雨の中、自宅……とおぼしき玄関扉から、そして外界と自らを隔て守護するべき門扉を開け放ってまろび出たは、長髪の白髪頭を振り乱し、その老齢に似つかわしくない真紅の上衣をまとった老婆であった。

 

 いや……真紅に染め上げられているのは、上衣だけではなかった。


 その皺深い年輪の刻まれた顔面にも、赫い斑点が散りばめられ……玄関から慌てて裸足で飛び出した脚にも同色の深紅の筋が幾つも垂れ下がっていた。


 そう、歳の頃なら七十絡みであろう……老境に差し掛かった女性が恥も外聞もない様子で、眼を大きく見開き裸足で街路に飛び出した理由は、からであったのだ。


 そして彼女は……鬼気迫る表情で血に塗れた老婆は、一介の通行人Aである私の存在に眼を留めると、見開いた眼と喘ぐように開かれた口唇を更にと大きく開放すると、歩道へと飛び出して来た推進力を失ったかのように、蹌踉よろめきながら私の方へと近寄って来たのだった。


 何事にも動じない剛の者であれば、雨降る夜に自身へと迫り来る血塗れの老婆など意に介さず、堂々とした立ち居振る舞いで対応できたのであろうが……私自身は先刻も述べたように、一介の小市民である只の中年男に過ぎない存在であるから、震える脚であ一歩二歩と後退りながら怯えた弱々しい声で「何……何なんだ、アンタは…………」とのたまうのが精一杯の体たらく。


 果たして老婆の方はと云えば「あぁ……あぁぁぁ……」と呂律もまともに廻らぬようで、失血の多さからか眼も虚ろにけぶり……瞳孔も開きかけているかのよう。


 脱兎の如く玄関よりまろび出た様子は微塵も残さず、今や夢遊病者の彷徨さまよい、流離さすらう姿にも似たフラフラともヨタヨタとも形容可能な、意識朦朧の熱中症患者にも見受けられるようで……昏倒寸前で途切れて擦り切れて消失しかけた、正気の糸にしがみ付いてその場にくずおれる恥辱から逃れている逃亡者Deserterにも見えた。


 世のことわりとして、逃亡者Deserterと云う存在の対極に追跡者Falconerと名乗るが在ることは……賢明なる読者諸兄にかかれば、想像に難くない真理であり道理であり、森羅万象に係る原理であることは自明の理であろう。


 今や老いさらばえた肉体と精神を奮い立たせ、死へと向かう行進を弛まずに継続し続ける老婆。


 其の歩みは失血が故かはたまた追跡者Falconerによる切創せっそう……または突創とっそうが致命へと至るきずと成り果てた故にか、驟雨の洗い流す勢いにも負けぬ速度で深紅の染みを拡大し続け、赫い勢力範囲が彼女の世界を蹂躙じゅうりんすればする程、その呼吸音は耳障りにそして小さく「ヒュウヒュウ」と弱々しく無様なへと堕落して行った。


 私にとって極限の非日常である『刃傷沙汰で血塗れとなった老婆との邂逅』などと云う、安物のテレビ・ショウでもついぞ見かけることが少なくなった局面シチュエイションに、私の反応リアクションもまた陳腐かつ類型的ステレオタイプな……『狼狽し呆然と立ち尽くし喉の奥から絞り出すよう途切れ途切れに発声するのみ』と云う、三文小説に登場する脇役モブキャラが如き有様と成り下がって居たのだ。


 しかしてこの異様な情勢シチュエイションも、当初の衝撃から解放され、強制的に場面転換カットアウェイされてしまうのも……物語の常道として致し方ないことではあるのだろう。


 逃亡者Deserterが存在するのであれば、追跡者Falconerもまた世界を構成する要素として存在していなければ、世界の論理として破綻してしまっていることは明白である。


 果たして私自身の予想を覆すことなく、自らの血に塗れた老婆が転がり出て来た家屋より、追跡者Falconerがその姿をあらわにすることとなった。


 室内の薄ら白い照明を背に受けて、闇夜あんや此方こちら側からは表情すらうかがい知れぬ、黒い人影……恐らくは成人男性であったろう……が、この日常を根底からくつがえしそうな狂気を宿した物語へと、文字通り躍り出て来たのだった。


第2話 透明な飛沫と深紅の雨粒【了】

2021.9.11 澤田啓 拝

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蠢疵 〜 Shung Xi 〜 澤田啓 @Kei_Sawada4247

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ