瀬戸内人魚

那智 風太郎

第1話 

 私は瀬戸内に生まれた人魚。

 田中洋子。

 二十九歳。

 シングルマザー。

 コンビニのアルバイトで生計を立て、七歳の女の子、めぐみを育てている。


 自分が人魚だと強く認識したのは小学生になって初めて迎えた夏のこと。

 水泳の時間、みんながビート板につかまって盛大な水飛沫を上げる中、私は不意に覚えた衝動により、あろうことかプールの端から端までを潜ったまま往復してしまったのだ。

 しかもこの上なく見事なバサロ泳法で。

 けれど水面から顔を上げた私は担任やクラスメイトが瞳をビー玉のように丸くして言葉もなく私を見つめていることに気がつき、そのしくじりに後悔を覚えた。

 母の言い付けを私はすっかり忘れていた。

 いい、洋子。決して人前で目立ったことをしてはダメよ。

 事後、その意味が身に沁みて分かった。

 興奮した担任は自宅に押しかけて私を地元の名門水泳教室に通わせるように母を説得するし、クラスメイトたちは気味悪がって私を避けた。

 幸いにも夏休みが明けると私がしでかしたことはすっかり忘れ去られて事なきを得たけれど、懲りた私はそれ以降、水泳の授業はすべて休むことにしたのだった。

 ただ人魚とはいっても身体的な違いはあまりない。

 強いて言うなら足の指股に透明な水掻きがあることと、太腿のあたりにいくつか鱗に似たアザが並んでいることぐらいだ。

 だから目立たないように生活をしていれば正体が見破られることはまずない。

 けれどバレれば捕まってどこかの研究所に送られて実験材料になり、ついには殺されてしまうかもしれない。

 物心がつく前から母にずっとそう言い聞かされて育った。

 その母もまたもちろん人魚であり、シングルマザーだった。

 父親のことを尋ねると彼女は決まって不機嫌な顔つきをして押し黙った。

 だから私は父のことをなにひとつ知らないままに育った。

 そして高校を卒業する直前、ある日突然、母は死んでしまった。

 遺品整理をしているとき、箪笥の引き出しに私は一葉の古い写真を見つけた。

 それはきらめく海を背景に若かりし母と真面目そうな青年が寄り添っている写真だった。その青年はなんとも優しげな目元をしていて、それが心なしか自分に似ているような気がした。

 私は人知れず早春の浜に出で、写真を穏やかな波間に浮かべて見送った。

 

 高校を卒業した私は市内にある広告代理店の事務として働いた。

 別に業種に興味があったわけではない。それは言い付けを守って平凡に学生生活を終えた私に与えられた平凡な就職先のひとつだった。

 仕事は単調で特にやりがいも感じなかったが、だからと言って不満はなかった。上司の指示に従い、卒なく仕事をこなしていればありふれた人間として暮らしていられる。私にとってそれは好都合な職場だった。

 そうして数年が過ぎた頃、私は唐突に恋に堕ちた。

 彼の名は高橋一郎。大卒の新入社員だった。

 彼は取り立ててハンサムでも背が高いわけでもなかったけれど、それなのに彼をひと目見た私はその一瞬で惹かれてしまったのだった。ただそれまで異性にあまり興味を持つことのなかった私は不意に絡みつく感情の昂りに戸惑い、持て余した。またその度に小学一年生の夏の失態を思い出さずにはいられなかった。

 水中を自在に泳いでしまったあの時の衝動。

 彼を想う気持ちはどこかそれによく似ていた。

 いけない。きっと悪いことが起きる。

 私はそう自身に警告し、恋心を封印した。

 そしてわざと彼を避けるように振る舞った。

 けれどそれは虚しい徒労だった。

 じつは彼もまた私に特別な好意を抱いていることは明らかだった。

 彼は他の事務員のデスクを素通りして雑用をわざわざ私に頼みに来たり、あるいは外回り先でもらったからとこっそり高価な和菓子をくれたりした。

 私にはそのアプローチに抗う術などなかった。

 微笑むと彼もまた照れ臭そうに笑った。

 自戒などティーカップの底に沈めた角砂糖のようにいつしかほぐれて消えた。

 そしてある夜、食事に誘われ、その帰り道に私たちはキスをした。

 長いキスだった。

 目を開けるとそこにはにかんだ彼の顔が満月のように浮かんでいた。

 その瞬間、大粒の涙が溢れた。

 どうしたの?

 彼が戸惑いながらも訊く。

 なんでもないの。

 私は答えた。

 本当に?

 うん。あのね、水の中を思い切り泳いだ気分がするだけ。

 そう。僕にも分かる気がする。

 頬を伝う私の涙を彼はその無骨な親指で拭った。


 でも……。

 一郎くんは半魚人だった。

 ベッドの上で私は彼の胸に目を遣り、そこに対になった深い筋を見つけた。

「ねえ、これは傷?」

 私が筋を指でなぞると彼は微かに首を横に振り、そしてしばらくしてためらいがちに口を開いた。

「……エラさ」

「エラ?」

「そうだよ。もうほとんど退化しているけど」

 ただの冗談にしてはその声が真剣過ぎて、私はおもわず沈黙した。すると彼は不意に体を横にして私の瞳をマジマジと覗き込んだ。

「ねえ、もしかして知らなかった?」

「え?」

「僕たち半魚人と人魚は出会うと必ず惹かれ合うようになっているんだ」

 そう教えてくれた一郎くんは少し悲しそうに微笑み、それから私を強く抱きしめた。


 ほどなく私は妊娠した。

 一郎くんには打ち明けなかった。

 もちろん何度もそうしようと思った。けれどその度に鼓膜の内側で誰かがそっと囁いた。

 人魚には人魚のおきてがあるの。

 冷淡に響くその声に耳を塞ぎ、目蓋をギュッと閉じると母の姿が浮かんだ。

 父の所在を尋ねたときのあの押し黙った表情がありありと網膜に甦った。

 足鰭や鱗は惨めに退化しても、その理不尽な宿命だけが脈々と受け継がれていることを私は呪い、人知れず何度も泣き叫び、そしてある日ふと悟った。

 とはいえ、やはり私は人魚なんだ、と。

 私は仕事を辞め、誰にも行き先を告げることなく生まれ育ったその地を去った。

 

 移り住んだのはやはり瀬戸内海に面した都市の片隅にある小さな港町だった。

 一郎くんからは携帯に何度も繰り返し着信があったけれど、しばらくするとそれも途絶えた。

 とうとう彼も宿命を受け入れたのだ。

 爪先から迫り上がるようなその冷えた諦観に私は奥歯を噛み、そして自分でも気づかないうちに深く胸を撫で下ろしていた。

 私は海辺近くにある古いアパートを借りた。

 まだ暑さの残る秋の入り口。

 窓を開けると温い潮風がポンポンと響く小舟のエンジン音を運んできた。

 その陽気さに誘われるように散歩に出ると、近所に住むおばあさんがこの近くの岬に一風変わった社があると教えてくれた。

 訪れてみて、なるほどとうなずいた。

 岬の先端、打ち寄せ波と向かい合うように建つそれはたしかに石造りの鳥居を持ち神社と名は付いていたけれど、粗末な祠にあずまやのような社殿を被せただけのあまりに貧相な社だった。

 その草臥れた木枠に腰をおろして海を望むと晴天の下、凪いだ海に奇妙な形に組み合わされた白い巨岩がそびえていた。さらに見渡すと右手にあたかも子供の遊びのように不自然に積まれた巨石がたたずんでいる。

 ミツイシというのだとおばあさんは教えてくれた。それらは時代も分からないほど太古に造られた遺跡なのだという。

 その巨石群をぼんやりと眺めていた私はふと思った。

 もしかすると自分の祖先はこの海を自由に泳ぎ回り、そしてともすればあの滑らかな岩に身を横たえて屈託もなく笑っていたのではないだろうか。

 なぜだろう。

 すると前触れもなく胸が疼いた。


 次の年、桜が散る頃に私はめぐみを産んだ。

 独り手の育児は苦労も多かったけれど、日々成長していく我が子を胸に抱く生活に私はこの上ない喜びを感じた。

 めぐみが一歳になる頃、私はコンビニでアルバイトを始めた。

 朝、めぐみを保育園に預けて仕事に向かう。

 夕方、めぐみを迎えに行き、帰って晩御飯を作る。

 そんな単調な毎日が私が最も望んでいた生活だった。

 シングルマザーなどいまどきたいして珍しくもない。

 わざわざ素性を勘ぐったりする人もいなかった。

 目立ってはいけない。

 母の教えはいつのまにか自分の口からめぐみへと向けられていた。

 

 そうして迎えた何度目かの夏。

 ある日、仕事中に携帯電話が鳴った。それはめぐみを早退させたいので迎えにきて欲しいという学校からの連絡だった。急いで職員室に駆けつけるとそこに居た娘は私にホッとした顔を向け、けれどすぐにうつむいた。

 事情を訊くと海岸清掃の課外授業中、誤って海に落ち溺れかけた生徒をめぐみが飛び込んで助けたのだという。ただ少々動揺しているようだし、体操服や下着も濡れてしまったので、と担任の女教師は早退の理由を説明すると、それからぎこちない笑顔を浮かべた。

 二人の様子で私はなんとなく状況が飲み込めてしまった。

 きっとめぐみは華麗過ぎる泳ぎでその救出劇を演じたのだろう。

 胸にひとしずく暗い不安が落ち、波紋を立てた。

 帰り道、めぐみがポツリと言った。

「ごめんなさい」

 私もポツリと答えた。

「いいのよ」

 どういうわけか無意識にそう答えていた。

「でも目立つことしちゃいけないって……」

 私は立ち止まり、今にも泣き出しそうなめぐみに微笑みを向けた。

「いいの。大丈夫だから」

 

 その夜、私はめぐみを連れてミツイシに行った。

 そして巨石の陰に服を脱ぎ捨て、二人で海に入った。

 膝を打つ寄せ波は闇夜に物悲しく潮騒を響かせ、そして私のどこかに潜んでいたあの衝動を刺激した。

「行くよ」

 私はめぐみの手を取り、ためらうことなく裸身を波間に投じた。

 すると瞬間、全身を覆っていた分厚いなにかが剥がれ落ちた。

 すぐに理解できた。

 それは過去で未来で田中洋子でシングルマザーでコンビニ店員だった。

 私はその厳めしくも不恰好な皮を置き去りにして、真っ暗な海中をただ本能にまかせ縦横無尽に泳ぎ回った。

 やがて疲れて波あいに仰向けになるとめぐみが寄り添ってきて笑顔を見せた。

 めぐみに伝えようと思っていた言葉があったけれど、それもどこかに消えてしまった。

 だから私も笑った。

 それからふたりして月のない夜空を見上げた。

 すると瞬く星屑が私たち人魚を祝福していた。

 

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瀬戸内人魚 那智 風太郎 @edage1999

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