おまけ終 人生

 小さい頃、運命の人と出会った。

 両者の両親が田舎の農家出ということもあり、気付けばあたし達は長い時間を一緒に過ごすようになった。


 彼との時間は好きだった。

 彼は優しい男だった。いくら悪ふざけをしても怒ることはなかったし、今になれば酷い仕打ちをしても泣くばかりであたしを嫌うことはなかった。時折子供のように我儘を言うこともあったが、多分それはお互い様だったからかあたしもそこまで文句を言う気にはならなかった。


 そんな優しい彼だから、日に日に増大していく思いがあった。

 小さい頃はそんな思いへの許容値が低かったからか、遂には彼に大人になったら結婚しようとさえ宣い、強引に約束を取り付ける始末だった。


 彼との生活は、一時疎遠になった。

 実の兄がしっかり者だった故、あたしもそうなるべきだと思った気持ちと彼があたしを避けるようになったことが起因していた。嫌われた。そう思うと泣きそうだったが、時たま話す時に彼が見せる照れくさそうな顔にどうやら事情が違うらしいと悟ると、それからはいつかやってくるかもしれない彼との再会の日に向けてなあなあな日々を送った。

 彼との再会は、中々訪れることはなかった。

 中学も疎遠のまま、そして高校では遂に別の学校へ進み、大学も。


 そして、病が見つかった。


 地元の医者に告げられた余命宣告を聞きながら、あたしは一人涙も流さず虚ろな気持ちで医者の着る白衣を見ていた。

 真っ白の布はまるであの時の自分の思考回路のようで、どれだけ思考を練ろうとしても出来ない、そんな情けない時間を送ったことは今でも明確に記憶していた。


 それは大人になったことの証である成人式の日の出来事だった。


 あたしは大人になったことを祝われた。

 なのに、大人になったばかりなのにもう死ぬらしい。


 ならあたしは何のために大人になるのだろう。

 

 そんな答えのない自問自答を繰り返して、見つけた答えは燻りかけていた想いを突き動かした。


 振袖を着てめかしこんだあたしを見た時、母は涙を流していた。着付けは大友の母にやってもらった。色々あって予約している暇もなくて、丁度大友の母がかつてそういう店で働いていたことがあったから、お世話になった。


 泣きじゃくる母を見て、大友の母は驚きながら、笑いながら慰めていた。

 事情を知らない彼女からしたら、母の態度は大袈裟に見えて仕方なかっただろう。


 大友の家を出て、母の運転する車で絵里達を拾って成人式会場の県民ホールへ向かった。


「お母さん、お願いがあるの」


 絵里宅へ到着する直前、あたしは母に一つの願いをした。

 それは、彼……宗太の気持ちを知りたいから、一つ嘘をついてくれ、というものだった。


 もうまもなく、あたしが結婚する、と嘘をついてくれ、という願いだった。


 母は最初気乗りしていなかったが……県民ホールの駐車場に到着して、一時絵里達と旧知の友人との再会を楽しんで、車の前に戻った時に、宗太と話し込んでいる姿を見て願いを聞いてくれたんだろうことを悟って仄かに嬉しくなった。


 絵里達の元から離れて、車へ向かった。


 母に話しかける体で、宗太と会おうと思った。

 会うのは少し、怖かった。


 宗太がもし、平気な顔をしていたらどうしよう。


 そんな恐怖が履き慣れない草履であることも相まって、あたしの歩調を緩めた。


 だけどもう、立ち止まっている時間もないことを思い出して、後悔しないために一歩一歩進んだ。


「お母さん、じゃああたしそろそろ行くから」


 母にそう呼びかけると、宗太と目が合った。


 中学以降疎遠になり、高校大学へ別の道を進んできた。


 久々に再会する彼は、大人な男になっていた。


 背が伸びて声も低くなっていて、少しだけ着させられているスーツを身に纏っていた。




 だけど、あたしに向けられた情熱的な視線は当時の彼のままだった。




 どうやら。

 どうやら、忘れられていなかったらしい。


 それをわからされただけで、泣きそうだった。

 彼の気持ちがわかって、嬉しかった。


 でも彼は鈍感な男だ。

 多分まだ、自分の気持ちにも気付いていないだろう。


 二十歳にもなって、こんな情熱的な視線を寄越して、まだ何も気付いていないのだろう。


 しょうがない。

 それがあたしが好いた宗太という男だから。

 ゆっくりと時間をかけて惚れさせていくべきなのだろう。


 でも、時間がない。


 あたしは一世一代の大勝負に出る気持ちを固めて、


「久しぶり」


 宗太に、そう言った。




 それからの行いは、誰かに聞かれれば恥ずかしくて顔を熱くさせるような思い出達ばかりだった。

 今となれば成人式の日の帰りの車の中で婚姻届を突き付けたことはやりすぎだと思った。小学校の同窓会では、馴れ初めを聞かれて言葉を濁し、かつてはお目付け役になっていた宗太にフォローされたことを今でも覚えていた。


 しかし、宗太は違った。

 後々病室で婚姻届を突き返してきた宗太は、その日の自分の行いを恥ずかしがる素振りもなく、何ならまるで武勇伝のように誇らしげに当時の彼の行いを茶化すあたしに笑いかけていた。

 宗太が大人になりたいと思っていることは知っていた。


 今でもあたしが嫉妬する大友の影響で、当時から彼は落ち着いた男になることを心の奥底で目指していることを知っていた。


 大人とは辛い生き物だ。

 誰かを守るために覚悟を決めて、責任を取るだなんて誰が好き好んでしたがる。でも、大人になればそれは必ずしなければならないことなのだ。


 だから、誰だって大人になんてなりたがらない。心のどこかで逃げを探す。



 でも、あの婚姻届を突き返した日以降の宗太は……まるで覚悟を決めたかのように、大人だった。

 涙すら見せず、献身的に病魔に苦しむあたしの面倒を見てくれた。


 あたしはこれまで、二度死にかけた。

 二十四歳の年と、四十五歳の年だ。


 二十五歳の年、医師には一命は取り留めたが、いつまたこうなるかはわからないと言われた。だから愛する宗太の困り顔も見たくて、宗太に遺書を手渡していた。

 それから、自分がまさか息子の顔を見れる時がやってきたことは大きな意外だった。


 だけど多分、息子を産んだあたしよりも宗太の方が感慨深い気持ちは大きかったことだろう。


 愛する妻が死にかけて、その妻が愛息子を授けてくれた。


 あたしだったら泣いていた。と言うか、息子が産まれた時には涙を流した。




「ありがとう」




 だけど宗太は……一度も涙を流さなかったそうだ。

 あたしが命からがら生還した時も。

 あたし達が結婚式を挙げた時も。

 あたし達が愛息子を授かった時も。


 涙を流さず、ただ微笑んでいた。


 幸せを噛み締めるように、微笑んでいたそうだ。




 宗太の命は、まるで害虫のような生命力を見せたあたしの命と違い、あっけない幕切れを迎えるのだった。

 五十九歳の誕生日、調子が悪いからと病院に行き、それから一度も家に帰れることなく病院で一生を終えた。


 不思議だった。

 もっと泣くと思っていた。


 愛する旦那の死に、もっと涙を流すと思っていたのだ。


 しかしどういうわけか、あたしは涙を流すことはなかった。


 彼への愛が冷めた試しはなかった。

 何なら、彼への想いがあったからここまで生きてこれた。彼との愛の結晶である愛息子を産めた。


 だけど、泣くことは出来なかった。


 内心で不安だったのかもしれない。


 宗太の人生は、多分華々しい人生ではなかっただろう。

 病魔に苦しむあたしの面倒を見ながら、仕事に追われ、息子が出来てからは役立たずのあたしのせいでその世話にも追われた。


 宗太は一度、四十歳の年に過労で倒れたことがあった。


 ニンニク注射をして翌日にはなんでもないからと復帰したが、多分やせ我慢だったことだろう。彼へかけた心労は計り知れなかったことだろう。


 ただ彼は……一度だって弱音を吐くことはなかった。

 弱音も吐かず、毎日楽しそうに微笑んで暮らしていた。


 彼を慕う人間が多いことは知っていた。

 自慢の旦那だったと、心から思った。


 ただあたしはそんな彼を見て、時たま思っていた。






 あたしは果たして、彼を幸せに出来たのだろうか、と。


   *    *    *


 息子が月一で帰省するようになったのは、宗太の死後、一月後から。息子が産まれたことを契機に地元へ帰り、一人寂しく暮らすあたしの様子が心配だからという理由でだった。

 遺品整理の日、このバカ息子が旦那に過去辛く当たっていたことを知って以降、息子の帰還はあまり嬉しい事ではなかった。ただ息子が二か月に一回連れてくるエミさんとはいつも楽しくお話させてもらっていた。彼女はかつての親友の女性と、よく似ている気がした。勝気な性格とか。


「なんでエミさん連れてこないのよ」


 本日、電車で東京から地元に帰省してきた息子へ向けて、あたしは開口一番そんな文句を口にした。


「悪かったな」


 息子は、幼少期の拗ねた宗太のように口をすぼめて言ってきた。そんな息子に、あたしは微笑んだ。

 

「馬鹿ね、本気にしなさんな。お帰り、疲れたでしょう」


「いいや、そこまで。電車に揺られているだけだし」


「そう。じゃあ入りなさいな。夕飯どうする?」


「じゃあ、カレー」


 いくつになっても子供舌な息子に微笑みつつ、彼の望んだ夕飯を二人で食べた。

 かつては三人で囲んでいた食卓は、やけに広く感じた。


 夕飯を食べ終えて、酒を飲めるようになった息子の晩酌にしばし付き合ってやることにした。

 あたしは、前々から酒が苦手だった。宗太はそんなあたしに無理に酒を飲ませるようなことは一度もなかった。彼が、あたしが入院した日から禁酒したことは後で知った。


『酒も高いからね』


 そんなことを宗太は言っていたが、多分単純に飲んで落ち着く時間がなかったんだろうと今なら察することが出来た。

 本当に彼に負担を強いたと、心からあたしは思って……遂、息子の前で物憂げなため息を吐いていた。


「どした、珍しい」


「何が」


「感傷的な母さんだよ。いつだって悪戯小僧みたいなことしてるくせに」


 そんな風に実の息子に見られていたのか、と思うと少し腹が立った。しかし怒る気にもならなかった。

 宗太のことを考えている時のあたしは、前からずっと重いのだ。


「お父さんのこと考えてた」


「なんだ、いつものやつか」


 それで済ませる当たり、この息子はキチンとあたしの血を引いている。


「あんたの中にちゃんとお父さんの血が混じっていれば、こんなに非道な行いはしなかったでしょうね」


「え、俺父さんの子供じゃないのか。不貞働いたのか、母さん」


「包丁持ってくる」


「冗談だからっ。本気にするなよ、こええよ!」


 さすがに言って良い冗談と悪い冗談がある。引き金はあたしだが、乗ったのは彼。つまり彼が悪い。


「で、父さんの何を考えてたんだよ」


 自分で引き金に指をかけておいてなんだが、実の息子に話すには中々こっぱずかしい話だった。しかしここまで来たら、もう引き下がるわけにはいかないのだろう。


「あたし、お父さんの妻としてお父さんのこと、キチンと幸せに出来たんだろうかって」


 あたしは意を決して、息子に言った。


 ……息子は、




「聞いて損した。馬鹿らしい」




 呆れたようにビールのロング缶を煽っていた。


「包丁取ってくる」


「ちょっと、殺意を芽生えさせるな」


「こっちが真剣に悩んでいるのに、小馬鹿にするからつい」


「ついで息子を殺すのは酷いだろう。……で、なんだっけ?」


「あたし、お父さんのこと幸せに出来たかなってこと」


 もう一度物憂げに言うと、息子はわざとらしくため息を吐いた。

 また小馬鹿にする気か、と文句を言いそうになった。


 しかし、




「父さんが一番楽しそうにしていたのは、母さんの話をしている時だったよ」




 そういう息子の言葉に、その気も失せた。




 幼少期、小学校低学年の時はほぼ毎日一緒に遊んでいた。

 小学校高学年、中学生で疎遠になり、高校、大学は別の道を進んだ。




 成人式で再会した。




 病室で、プロポーズされた。




 二十八歳の時、結婚式を挙げた。





 御朱印集めの旅に行った。

 車を買いに行こうと都心を回った。

 夜行電車に乗って出雲に行った。

 

 宗太とのたくさんの思い出を、あたしは持っている。

 幸せだったたくさんの思い出を、持っている。




 息子から聞いたその話は。




 あたしの知らない、宗太の思い出だった。

 



『宗太と違って、あたしは宗太のこと大体何でも知ってるんだからね』




 いつかあたしは、宗太に向けてそんなことを言った。

 宗太は当時からそれは正しいみたいに腑に落ちた顔をしていたが、当時からあたしは我ながら適当なことを言い過ぎたと思っていた。

 

 だってあたしは、当時から宗太のことをまったくわかっていなかった。知らなかった。

 そりゃあ、親伝いに知っていたことだって多いにある。


 ……でも。


 宗太が御朱印集めにハマっていること。

 宗太が海が好きなこと。

 宗太が、あそこまで意固地だったこと。

 

 あたしは彼の全てなんて全く知らなかった。何なら、知らないことの方が多かったことだろう。


 今だってあたしは、宗太の最期の気持ちを理解出来ずに少し辛いのだから。

 知らなかった宗太の話を聞けて、年甲斐にもなく嬉しくなっているのだから。


 ……あたしは、宗太のことをこれっぽっちも知らなかったのだろう。




『結婚しよう、渚』




 でも、少しは知っていることだってあったんだ。

 そして少しずつ、もっと深く宗太のことを知って行けていたんだ。少しずつ分かり合えていけてたんだ。


 でも時間が足りなかった。




 人の一生は儚く、短い。




 人の全てを知りたい。愛した人の全てを知りたい。


 いくらそう思っても、時間は無慈悲にも確実に進み、愛した人との残時間を確実に減らしていく。


 いつか、あたし達のように人々は離れ離れになっていく。


 それが、自然の摂理なんだ。


 儚く、短く、悲しい自然の摂理なんだ。






 ……なんて、美しいんだろう。






 悠久の時間がないからこそ、人は全てを知りたがる。時間があればありがたみを失い、人は自堕落な時間を過ごすことだろう。そして、全てへの興味関心がなくなり、後には後悔しかない人生を歩むことだろう。


 宗太はそれを、とっくの昔から知っていたのだろう。


 後悔したくないと彼はしきりに言っていた。


 感傷的に。

 情熱的に。

 嬉しそうに。


 当時様々な感情を抱いていたあたしが、聞き流していた宗太の言葉。




 あたしはようやくその宗太の言葉が腑に落ちたのかもしれない。




 宗太はきっと、後悔していなかったのだろう。

 だから、泣かなかったのだろう。


 いつだって幸せそうに微笑んでいた。……いいや、幸せだったから微笑んでいたんだ。




 宗太は、幸せだったんだ。




 いつだってあたしは、宗太の傍にいた。

 だとしたらあたしは、そんな幸せだった宗太の幸福に一役買えていたのだろう。




 そう思ったら嬉しかった。


 そして……、気付いた。




 宗太の亡骸を見た時。

 宗太を見送った時。


 あたしが涙を流すことはなかった。




 後悔していなかったんだろう。


 どれだけ辛くても生き永らえて。

 ずっと宗太の隣で生きてきて。


 そんなあたしの人生を、あたしは後悔してなかったのだろう。




 宗太のことを愛せて良かった。


 心の底から、そう思ったんだ。




「母さん、いくら父さんに会いたいからって自殺はするなよ」


「しないわよ。お父さんはいつだってあたしが生きることを望んでいたのだから。それは裏切り行為よ」


 だけど、愛した宗太と会えない時間は寂しくもある。


「あんた、早く結婚してよね」


「なんで」


「お父さんに報告してあげるから」



 だから、次宗太に会った時、とびきりの思い出話を用意しておこう。

 たくさんの思い出話を用意してあげよう。




 そして、たくさん話し合って。微笑み合って。


 それからまた、嫉妬深く追いかけ続けよう。


 いつまでも。

 いつまでも……。




 今、気付いた。



 あたしの、人生は。

 


 愛する人と苦楽を共にし、愛する息子と微笑み合い、そうして愛する人のことを懐かしむあたしの人生は。




 ……きっと、幸せだったのだろう。

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成人式の日、幼馴染が婚約したことを知る。 ミソネタ・ドザえもん @dozaemonex2

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