第3話 生き残る為

「お父さん遅いわね……」

 すっかり暗くなった森の中。

 懐中電灯の電池は残りが少なく、無駄に使いたくない。

「でも母さん、出歩かない方がいいぜ。……なんか嫌な予感がするんだ」

 ドラガンがいない今、家族を守れるのは次子で長男のヴラダンしかいない。

 適当にその辺に落ちていた金属棒に布を巻き付け、父を探しに行こうとするヴラダンを、弟が引き留めた。

「お兄ちゃん……ねぇ待って……これ頭にかぶろう」

 わざと土で汚した布を差し出すコヴァーチ。2枚あり、コヴァーチ自身、既にその布をかぶっていた。

「おいおい……そんな事したら顔が汚れるぞ?」

 ヴラダンはコヴァーチから汚した布を外そうとした。幼い弟が何故それを用意したのか、その時は知る由もなかった。


Gjuaj撃て!」

 アルバニア語の号令に続き、「タタタタタッ」自動小銃の乾いた軽い音が離れたところから聞こえてくる。

 先ほどの号令を出した男の声が響く。

Serbeセルビア人だVriteni njeriun男は殺せ , Rrëmbyer një grua女は攫え!」


 反射的にイェレナとウルシュラの手を取り、走り出すヴラダン。


 今逃げなければ確実に死ぬ! 殺される! 全員死んでしまう!


「コヴァーチ! 兄ちゃんについてこい!」

 振り返った視線の先には、コヴァーチはいない。あり得ない現実に、ヴラダンの視界が暗く狭まっていく。何故弟はいないのか。いつから傍にいなかったのか。あり得なさすぎる現実に、思考力は消えていく。

「姉ちゃん! コヴァーチどこ行ったんだよ!? なんでついてきてないんだよ!?」

「知らないわよ! ヴラダンこそなんでコヴァーチの手を取らなかったのよ!」

 言い争っている間に、本当の「敵」は近づいてきているのに、まだ年若い二人は、そのことが頭からすっかり外れてしまっている。

「ウルシュラもヴラダンもやめなさい。そんな事してる場合じゃないのよ……コヴァーチを見つけて、逃げることを優先しないと……。お母さんがコヴァーチを探すわ。だからあなた達は二人で逃げてちょうだい、ね? さ、早く。……聞こえるでしょ? アルバニア兵が近づいてきているのよ……お願い、早く逃げて二人とも……」

 イェレナは小さく震えながら、静かに我が子を諭す。そうしている間にも、自分たちの命を奪わんとする者達のときの声が少しずつ接近している。もはや一刻の猶予もない……ヴラダンは顔を上げた。

「だめだ。母さんと姉ちゃんが二人で逃げろ。俺が残ってコヴァーチを探す」




 銃を構え、夜の闇に燃えさかる敵の頭を狙う、コソボ解放軍の兵士。

 先ほど隊長に連れていかれたセルビアの男は、年齢不明だが、おそらく実年齢より若く見える美しい容貌、長く絹の様にしなやかな、見事なプラチナブロンドだった。暗視スコープで見えた、男と全く同じ顔をした15歳ほどの少年も、短いがきっと同じプラチナブロンドだろう。

 もう標的との距離も近い。こちらの思惑通り、自動小銃の音が聞こえた方角の反対に逃げてきている。愚かなセルビア人どもめ。貴様らは我々の罠にまんまとひっかかったのだ。


 兵士の視界に、少年の召使いと思しき中年の女が入る。あの美しい少年は泣きながら中年の女と美しい少女を抱きしめ、惜しみつつも別れの言葉を告げているのだろう。中年の女と美しい少女が走り去ろうとする。

 逃がすわけにはいかないが、銃を使って気づかれるのは都合が悪い。

 戦争に身を置く者は、大声を張り上げながら、名乗りをあげて派手に突入してくる、古い映画に出てくるような痴れ者ばかりではない。あのセルビア人達は、全員カロチャ刺繡(※1)で飾られた上等な服を着て、立ち居振る舞いも優雅だった。きっと裕福な上流階級だろう、戦争なんて泥臭く血腥い事とは無縁の人生を送ってきたに違いない。

 そんな想像が容易くできる、ドラガン一家の品性と出で立ちは、兵士達の恨みをさらに募らせた。




「ヴラダン、コヴァーチをっ……」

「母さんどうしたの?」

 共に逃亡するウルシュラがイェレナを振り返るが、優しい母は言葉を続けなかった。

 ウルシュラの足元に倒れこんでいたイェレナの蟀谷こめかみには、粗末な作りの、脂で曇ったナイフが深く突き刺さり、を、足元に積もった雪の上に、静かに広げていく。

 叫びだしそうになった時、口をふさがれ、何日も風呂に入ってない体臭と血のにおいがこびりついた、粗野で屈強な男たちの手が伸びて、ウルシュラを捕らえる。

 いつの間にか忍び寄って来ていた悪意は、ウルシュラの可憐な衣服を引き裂き、力でウルシュラを征服し、蹂躙する。

 ウルシュラは父や兄弟と同じ瞳ではないが、サファイヤの様な深く青い瞳と、優しい色合いのダークブロンドが、スルタンのカドゥン寵姫を思わせる気品ある顔立ちを一層美しく魅せ、少女ながらに豊かな胸と艶めかしい肢体が、ハーレムの美女バージンを思わせる色香を放つ。女に飢えた兵士たちの理性のたがを外すには、充分な魅力だ。見ているだけで兵士たちの性欲を激しく滾らせる。彼らはもう何か月も、女を抱いてなどいない。そろそろ性欲を堪えるのも限界だ。

「この娘が死ぬまで、全員で徹底的に辱めつくしてやろう」


 凍てつく空の下、久しぶりに目の前に現れた「極上のご褒美」に、は猛り狂い、一切の容赦なく哀れな少女を絶えず貫き、己が欲望を注ぎ込み続け、その野獣の様な咆哮は、慈悲を求め命乞いする哀れな少女を、地獄へ引きずりおろした。




 兵士たちの雄叫びと姉の悲鳴が混じった、地獄の不協和音がヴラダンの耳に微かに届く頃、ヴラダンの目の前には、古いASh-78(※2)を構えた兵士が5人迫っていた。

 彼らは口々に何かを怒鳴っているが、ベオグラードで生まれ育ちアルバニア語を聴く機会があった両親と違い、プラハで生まれ育ったヴラダンはアルバニア語が全く分からず、動くことも答えることもできなかった。


 兵士の一人が、ヴラダンの顔にライトを当てながら髪を乱暴に掴み、ヴラダンの顔を調べ始め、仲間に何か言っている。

「何するんだ!」

 兵士の手を払いのけようと抵抗すると、鳩尾みぞおちに重い衝撃が加わり、重力のまま、兵士の硬く武骨な拳に突き上げられる形で、力なく倒れこんでしまった。声楽家を目指していたヴラダンの細い体は、鍛えられた兵士にとって背嚢はいのう一つ分にもならなかった。


 抵抗するヴラダンを屈服させ、再び顔の状態を確認する兵士。

 あの男が持っていた珍しく美しい色の瞳は、まるで歴史上のスルタンが代々伝える秘宝の、中央に輝く宝石の様だった。見る角度によって色味が変化する、万華鏡の様な輝き。あの男と同じく、この少年も全く同じ瞳を持っている。

 ただ殺すだけではつまらない。この宝石の様な瞳を持ち帰りたい。

 それなら生きたまま抉り取ろう。思う存分いたぶり、苦しめて殺してやろう。

 同胞の仇、スレブレニツァの復讐を、この少年で果たそう。どんなに美しくとも、この少年は我々の不俱戴天の仇、セルビア人なのだ。

 ヴラダンの顔を調べていた兵士は、ナイフを取り出す。苦しさと痛みに歪んだ顔に恐怖を滲ませるヴラダンを見た兵士達は、それはそれは。取り出された刃に刻まれたJUNGLE KING(※3)のロゴが、ヴラダンが生きて見た最後の文字だった。

 兵士はそうするのが当然かの様に、無感情にヴラダンの下の眼窩にナイフを突き立て、その柄を手前に倒す。




 高く響き空を裂く、野生の鳶の様な声。寒さに震えてじっとしてるコヴァーチには聞き覚えがあった。兄が人の叫び声を歌で表現する練習をしていた時の声と、全く同じだった。兄と一緒に歌を歌って、一緒になっていたずらした兄から歌を教わった。いたずらを優しく諫めてくれた姉からはピアノを、主の教えを説いて導いてくれた父からはバイオリンを、温かく抱きしめて守ってくれた母からは音楽の基礎と学問を……。家族全員から愛され、可愛がられたプラハでのあの日々は、もう帰ってこない。家族の中で誰よりも賢いコヴァーチは、幼いながらも家族との今生の別れを悟ってしまった。

 一人震えながら静かに涙を流すコヴァーチ。

 ちゃんと兄に説明すべきだった。幼く背の低い自分が父や兄についていくのに、暗闇でも輝いて見える、二人のプラチナブロンドを目印にしていた事を。そして当然、一度敵見つかったら、敵も必ずそれを目印にしてたどり着くであろうことを。

 大好きな姉と兄が無惨に殺されていくこの刹那も、泣き叫び出しそうな衝動を理性で抑え込み、姉と兄をじわじわと殺しているが去るのをじっと待っている。



「必ず、皆の仇を取る」

 固く決意した幼い彼の瞳には、何も映っていなかった。その冰の瞳は、生き残る為の術を知り、どんなに時間がかかっても必ず復讐を遂げようと、達を夜の闇から覗き続きている。





 ※1…ハンガリーの特産品。花や植物を色鮮やかに表現した、カロチャ地方の伝統的な刺繍。

 ※2…アルバニア製のAK-47系アサルトライフル。1978年に登場。

 ※3…NATO軍に採用されている戦闘ナイフ。コソボ紛争にはNATO軍の介入があり、スロボダン・ミロシェヴィッチ率いるユーゴスラビア軍と対立していた。実際のコソボ解放軍が当時、JUNGLE KINGを使用していたかどうかは不明だが、入手する機会はあったと思われる。また、本作のミロシェヴィッチ家は、スロボダン・ミロシェヴィッチとは無関係である。

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