第2話 忍び寄る悪意

 コヴァーチの誕生日から少し遡ること、1998年10月25日。アメリカ駐マケドニア大使のクリストファー・ヒルが、セルビア・アルバニア間でシャトル外交を展開し、和平合意による停戦がとりつけられた日だった。

 これなら妻子を連れて帰っても、きっと大丈夫だろう。可愛いコヴァーチの誕生日を祝って、12月になる直前にベオグラードへ帰省しよう。弟一家にも、お詫びの意味もこめて、たくさん土産を持って行こう。少しずつ物資を用意しよう、楽団に休暇も申請しなければ。考えることとすることは、たくさんあった。


「今年の年末は、ベオグラードへ行こうと思うんだ。停戦したし、私の弟……お前たちの叔父さんだね、戦争で生活に困ってる叔父さんの家を手伝おうと思ってる」

 夕食の時間、家族に提案する。妻と上の子供たちは特に派手な反応もなく「いいよー」と同意。末子のコヴァーチにはまだ難しかったのだろうか、反応がない。

「父さん、本当に?」

 食事の手を止め、じっと父の目をみつめるコヴァーチ。

 本当に? とはどういう意味なのだろうか。

 食事が終わり、就寝前にコヴァーチがドラガンの寝間着を引く。

「父さん、本当に行くつもりなの?」

「どうしたんだいコヴァーチ? 行きたくないのか?」

 コヴァーチは少し黙ってうつむいた。

「なんでもない……おやすみなさい父さん」

 クルテクのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、ベッドに入る。


 1998年11月末。ベオグラードは停戦しているとはいえ、町は破壊され機能は失われており、公共の交通機関で行けるわけではない。ハンガリーとユーゴスラビアの国境までは公共の交通機関で向かい、あとはなんとか車をつかまえて乗りつがせてもらおう。

 持参した土産は、5人で手分けして運ぶことにした。


 1週間以上かけてベオグラードに近づいてきたが、相変わらず乗せてくれるような車はなかなか見つからない。道端に乗り捨てられた車は、破壊されつくし、とても動かせるような代物ではなかった。運よく3度ほど、民兵の車に乗せてもらえたが、目的地が全く違っていた為、長距離移動ができても、危険地帯を迂回するルートが多かったため、主要な手段を徒歩にゆだねていた。


「この辺で降ろしちまうが構わんか? 明るいうちに早く移動することだな。あんたらチェコから来たんだって? 身なりが良く金を持ってそうだし、何しろ親父のあんたが弱そうだしな。銃も持ったことねぇだろ? あんた。アルバニアの連中に見つかったら全員殺されちまうよ。特にお嬢ちゃん! 顔を隠して移動しな。そんだけ美人なら、飢えたアルバニア兵に輪姦された挙句ぶっ殺されるの間違いなしだぜ」


 乗せてくれた民兵は口悪く助言し、走り去っていった。現在地がベオグラードからどのぐらい離れているのかすらわからない。とにかく集落を見つけたら、現在地を訊いて、休ませてもらいたい。全員がそう思うほど、道中は心が休まらなかった。

 それは民兵の車に積んであったラジオから、コソボ解放軍が停戦を破棄し、戦闘が再開された、というニュースが飛び込んできたからだった。5人は顔色を沈ませたまま、荒れ地を力なく歩き始めた。



 だんだんと日が沈んできて、あと少しで森を抜けそうなところで、野宿の準備をしていた時、ドラガンとイェレナの耳に、遠くからかすかに懐かしい曲が聞こえてきた。二人は顔を見合わせ、ドラガンは私が見てくる、と言い残し、4人をその場に待機させた。

 歩みを進めるほど、はっきり聞こえてくる。セルビア語の歌だ。二人が結婚した年に出た、懐かしい歌だ。


 Слушајте песму сад今この歌を聴いてくれ , док пева Београдベオグラードが歌っている

 И свак и човек各個人も и сваки град各都市も

 заједно пева сад今、共に歌っている

 Са југа и севе ра国の南北から , истока東から , запада西から

 Нека се чује 皆に聞かせて, нека се зна広めてほしい колико те волим ја私がどれだけあなたを愛しているか

 Ој Југославијоああユーゴスラビアよ

 Ој Југославијо

 И сваки човек一人一人が и сваки гр ад それぞれの街が

 Слободно пева сад今自由に歌っている

(※1)


「すみません! 助けてください!」

 期待を込めてそう叫んだ事を、目に入った旗を見て後悔した。

 赤地に双頭の黒い鷲を下から囲む、黄色い文字。

 Ushtria Çlirimtare e Kosovës ……コソボ解放軍の旗。

 ムジャヒディーンの義勇兵も合わせ、40人ぐらいいる。


 しかし彼らは、ドラガンをチラチラ見た後ヒソヒソと話し始め、銃撃してこない。

 コソボ解放軍の兵士が、無線で何か連絡をしている。

「一体何がどうなっているんだ?」

 逃げようとして後ずさるが、後ろから抑え込まれた。

 彼らは乱暴にドラガンの髪を掴み、顔を上げさせようとする。


「……貴様はセルビア人なのか?」

 30歳過ぎぐらいの隊長らしき男が近づき、セルビア語で問う。

 なのか、という質問は一体どういう意味なのか。

 セルビア語の歌を耳にして、セルビア人がいると思って飛び込んできた者なら、セルビア人ではないのか。

 答えられないまま男を見ていると、男はドラガンの目を凝視する。

「この男を俺のテントまで連れてこい。傷をつけるなよ」

 抑え込む兵士に命令し、隊長らしき男はテントに戻る。


 周囲の兵士たちが声を潜めて

「なんで殺さないんだ?」

「隊長は一体何をお考えなんだ」

 と口々に不満を漏らしている。

 先ほどの男は、テントから人払いをしてドラガンだけを入れる様、部下に命じた。

 またセルビア語で恫喝する。

「何故こんなところをうろついてる? 早く立ち去れ!」

 この男はドラガンに対し、敵意がなさそうにも見える。

「何故、逃がそうとするのですか? あなたは隊長ですよね?」

 まだあまりうまくないアルバニア語で語りかけてみる。

 男は黙ってベレー帽を脱ぎ、額の左生え際を見せる。

「あっ……」

 そこに刻まれていた傷跡には、見覚えがあった。



 ドラガンがまだ大学生の頃、今ほど激しい対立ではなかったが、それでもセルビア人とアルバニア人は、互いにいがみ合っていた。

 ある日の下校途中、11、2歳ぐらいに見えるアルバニア人の少年が、質の悪い連中に絡まれているのに遭遇した。どうやら少年は掏摸すりに失敗した様で、3人の男から詰め寄られ、すぐに容赦ない殴打を浴びせられた。成人男性の力である、11、2歳の子供なんて、ひとたまりもない。壁に打ちつけられた少年は

「ごめんなさい、許して!」

 と泣き叫び懇願するが、男たちは酒が入っているのか、今度はラキヤ(※2)の瓶を投げつけ

「はっはぁー! 異教徒の頭に当たったぜぇ!」

 なんと的当てを始めようとした。少年の額に、激しく投げつけられた瓶の鋭利な破片が刺さり、眉の上まで切れる。

「なら俺は鼻に当てるか! 俺が当てたらラキヤもう一本な!」

「よっしゃぁ、汚物は消毒だぁー!」

 などと下品に笑っている。

「や、やめないか! 異教徒だからと言って、子供にこんな暴力は許されない!」

 ああ、やってしまった……私は争いごとが本当に苦手なのに……。

 しかし思いの外、男たちは下品に笑うのをやめ、神妙な顔でドラガンを見て

「けっ……邪魔しやがって」

「しらけたな。帰ろーぜ」

 不貞腐れながら、その場を後にした。


 少年を背負い、自分の自宅まで連れていくドラガン。

 その道中、少年の話を聞いていた。

「あの……あなたは、セルビア人なんで、すか?」

「ん? そうだね、私はセルビア人だよ。よくベラルーシ人に間違えられるけどね。そんな事より、君はどうしてあんな危険な連中から、財布をすろうとしたんだい? ああいう昼間から酒を飲んでる様な連中、近寄っちゃダメじゃないか」

 少年の手に力が入る。

「だって……あいつら、僕の兄、に、暴力をふるって、お金を持って行った。兄は何も悪い事、してない。あいつら、兄に異教徒は出ていけ、って言って、お金を取った。だから、僕は取り返しました」

 ……ああ、良くないことだ。我々はずっとそんな諍いを続けている。少年に声をかけようとした時

「あなたは、とてもきれいな人。顔もとてもきれいだけど、心と瞳がとてもきれい。ここで異教徒の僕を助けた。きっとアッラーも、あなたを好きになります。インシャラー」



 隊長らしき男は、その時の少年だった。

「なんだ……言ってくれればよかったのに。元気だったかい? 私の家で手当てした後すぐ君は帰ってしまって、あれ以来連絡もとれなかったよ」

 そういいながら懐かし気に近づこうとするドラガンを制止するかの様に、急に立ち上がり机を叩き、叫ぶ。

「さっさとここから去ってくれ! ……あんたは俺の恩人でもあるから、部下には攻撃させなかった。だが俺の上官が提案した、さっきの音楽。あれでセルビア人をおびき出し、まんまと騙されて出てきたセルビア人を皆殺しにする計画になっている。だから……早く去れ!」

 言葉が出ない。私たちは騙されておびき出されたのか?

「もう既に部下たちは周辺を索敵し始めた。もし、あんたの家族がいたなら、お気の毒なことだ。俺もさすがにあんたの家族までは助けられん。だから早く去ってくれ。このまま俺の上官が来たら、あんたも処刑される。ただ……もしうまく気に入られれば、上官の娘婿にはしてもらえるかもしれん。上官は二人いる娘を溺愛しているが、下の娘は気立ては良くとも不器量で、嫁の貰い手がない。あんたほどの美貌があれば、下の娘を特に可愛がっている上官が、娘の婿にあてがうだろう。一人で逃げるか、処刑されるか、上官に取り入って娘婿にしてもらうか。あんたの選択肢は3つだ」


 外にはまだ愛する妻子が私の帰りを待っている。その妻子のそばには、コソボ解放軍の兵士たちが、明確な殺意をもって近づいている。

 どうすればいい? 銃を持ったことすらない私に、何ができる? 恐ろしい現代兵器の前では、神の奇跡など無力だ。愛する妻を捨てて、敵国の女性を娶る? とてもそんな事はできない。しかし万が一、妻子が無事で私が死んだら?


 ……最も皆を守れる選択肢は、1つしかない。




 ※1…「ああユーゴスラビアよ」の最初の部分。YouTubeでタイトル検索すれば、歌詞と日本語訳付きの原曲が聴ける。

 ※2…セルビアやモンテネグロで作られる果物の醸造酒。味の種類が豊富。

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