第20話 邂逅

「……うっ!?」


 扉を開いた時、最初に感じたのは──“臭い”だった。

 酷い腐敗臭のような物が家の内部に充満しており、ブンブンと蠅が飛ぶ音がどこからか聴こえる。

 微弱だった吐き気が何十倍にも増幅され、体内から溢れかける。

 それは喉の寸前のところで止まり、俺は大きく息を呑む──酸っぱい風味が、口内に広がった。


「み、御子……これは……」


 御子の方を見ると、さすがの彼女でも耐えられない臭いなのか、大きく顔を歪ませて、家の中を睨んでいた。

 あのスーパーで嗅いだ臭いはこの残り香だったのか。しかし、何を腐らせたらこんな酷い臭いになるんだ。

 恐らく、俺の嗅覚は一生この臭いを忘れることはないだろう。

 間違いなく、生涯でこれを超える臭いの持ち主は現れることはないと確信出来るほどの悪臭だった。


「……行くよ。蓮くん」


 御子は鼻と口にハンカチを当て、玄関の侵入を開始した。

 お、おいおい──マジか。マジで、行くつもりか。この臭いの中を。

 正気の沙汰とは思えないが、そうこう言っている場合ではないのも確かだ。


 覚悟を──決めるしかない。


「うっ……ク、クソ」


 御子の後を追うように、口元にハンカチを当て、俺も玄関へと足を踏み入れた。

 一歩踏み入れただけで、臭いはより凝縮され、濃い物へと変化する。

 これ、有毒なガスが発生しているんじゃないか。聞いたことあるぞ。死体をそのままに置いておくと、そんなガスが出るって話。

 つまり、この家の中には──ッ。


 したくもない想像をしてしまい、俺の吐き気は限界を超え、耐えられなくなってしまった。


「うっ、お、おえっ」


 ビシャビシャと、口から嘔吐物が零れ落ちる。

 ちょ、朝食を控えたのは正解だった。あれ以上食べていたら、もっと酷い事になっていた。


「……大丈夫? 蓮くん」


「あ、あぁ……行こう」


 口元を拭い、俺は歩みを進める。

 胃酸の味が口中に広がる。臭いも合わさり、最悪な気分だ。


 その時、ゴソリと、足元に何かが当たった。

 なんだ、何か──柔らかい感触がした。

 下を見てみると、スーパーの袋が目に入った。

 蠅が大量に止まっており、どうやらそれが、臭いの元であるということはすぐに察しが付いた。


 興味本位で、俺はその袋を足で少し蹴り、中身を確認する。

 ガサリと、袋は大きく動き、その“中身”が露出した。


「……っ!」


 その正体は──“肉”だった。

 赤黒く変色し、カビがびっしりと生えていたが、間違いなくこれは肉だ。

 見渡すと、同じような袋がいくつも確認出来る。

 これだけの生肉を腐らせたら、悪臭が発生するわけだ。

 ただ、これは──何の肉なのだろうか。スーパーでは鶏肉を大量に買っていたが、果たして、本当に、これは鶏肉なのか。


 一瞬、そんな思考が頭を過ったが、これ以上は考えないことにした。

 止めておこう。もう吐くのは御免だ。


「蓮くん、一階には居ないみたい」


 先に部屋を探索し終えた御子は階段の前で止まっている俺に報告する。


「後は……二階だね」


 そうか。俺は──てっきりあの老婆は今留守にしていると思っていたが、そうではない。

 まだ、この家に潜んでいるかもしれないのだ。

 どこからか襲って来るかもしれない。ここは敵地だ。最大限の警戒をしないと。


 ギシッ


 ギシッ


 階段を上るたびに、木が軋むような音が響く。

 二階に到達すると、御子がピクリと肩を震わせた。


「ど、どうした?」


「──いる」


 ぼそりと、御子は呟いた。

 その一言に、俺も心臓が締め付けられるような感触を味わう。


「あそこに……いる」


 御子は奥の部屋を指差す。

 よく見ると、その部屋は戸が半分開いており──人の声のような音が僅かに漏れていた。

 それを見るや否や、御子は走り出し、一直線にその部屋へと向かった。


 御子は勢い良く引き戸を開いた。

 俺も急いで後を追い、御子の背中から、中を確認する。



 ──いた。



「アァァァァァァッ……」



 あの老婆だ。

 戸が開けられたにも関わらず、背を向き、俺達の方には目もくれていない。

 老婆は──目の前にある神棚に手を合わせていた。

 妙な奇声を発しながら、腕を上下に振り、ただひたすらに祈りの動作をしている。


 な、なんなんだ。この光景は。

 不気味──としか言いようがない。

 家に漂っている悪臭すらも忘れてしまうような、不気味な光景がそこに広がっていた。



「御子……これ……」


「……ちょっと、そこの婆さん。客が来てるのに、その対応はないでしょ」



 “ドス”を利かせた声で、御子は老婆に話し掛けた。

 彼女の手には──いつの間にか、包丁が握られている。



「アンタが蓮くんに呪いをかけた張本人だってことはとっくに調べがついてんの。びっくりした? まさか、特定されるとは思ってなかったでしょ。相手が悪かったね。今すぐ、蓮くんの呪いを解いて。でないと……分かってるよね」



 御子は老婆に向かって、包丁の刃先を向ける。


「…………」


 その声に反応して、老婆は奇声を発するのを止めた。

 そして──ゆらりと、首と身体をこちらに向けた。



「……ッ!?」


 老婆の顔を見て、氷柱を背中に当てられたような寒気が全身を駆け巡る。

 その顔は人間の形相とは思えない程、醜く、歪んでいた。

 バケモノ──いや──“鬼”だ。


 鬼が、そこにいた。



「…………」



 老婆は御子の問いに答えることはなく、ただこちらを睨んでいた。

 本当に、何がしたいんだ──こいつは。


「少しは何か言ったらどうなの? 追い詰めているのはアンタじゃない。私達の方だってことに、まだ気付かない?」


 御子も苛立ちを感じているようで、更にトーンが下がった声で語り掛ける。



「………カ、カマ…………カミ………」



 その時、老婆が初めて言葉を発した。

 そう、それは──あの『カマカミ』という単語だった。


「……急に、何?」



「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」



 戸惑う俺達を尻目に、老婆は声高らかに笑い出す。

 あまりに突然の行動に、俺は身体を大きく震わせ、途轍もない恐怖を感じてしまった。


「もう始まってるもう始まってるもう始まってるもう始まってるもう始まってるもう始まってるもう始まってるもう始まってる」


「止められない止められない止められない止められない止められない止められない止められない止められない止められない止められない」


 先程の沈黙が嘘かのように、老婆は妙な言葉を喋り始める。

 もう始まってる、止められない。ど、どういう意味だ。それって。


「っ!? 蓮くん! 下がって! こいつ、刃物持ってる!」


 御子のその一声と同時に、老婆の手に銀色の光が見えた。

 あれは──包丁だ。あの老婆も、包丁を持っていた。


 そして、その包丁を──振り上げた。



 ビシュッ



「なっ……!?」


「……は?」



 肉を裂き、鮮血が飛び散る音が部屋に響く。



「アァッ……アッ…………」


 老婆は──包丁で、自らの首を突き刺した。

 首からは蛇口を全開まで開いたかのように血が吹き出し、床や壁を真っ赤に染める。

 突然の奇行に、俺の脳は完全に凍結フリーズする。


 何を、やっているんだ。こいつは。

 この出血量は──致命傷だ。助からない。



「アァァァッ……アァ……」


 老婆は何か呟いていたが、喉に流れた血がゴポゴポと鳴り、聞き取れない。

 まるでB級映画のスプラッタシーンのような光景に、俺はその場で腰が抜け、床にしゃがみこんでしまった。

 ふと、御子のことが気になり、彼女の顔を見上げる。


 御子もその常軌を逸した光景に戸惑っているようで、瞼を僅かに動かしながら、真顔で老婆を眺めていた。


「アッ……アッ……」


 老婆はフラフラと、俺達に背を向き、神棚の前に立つ。

 そして糸が切れたように、その場に倒れた。


 し、死んだのか。

 自殺──した。俺達の前で。


 老婆が倒れ掛かった神棚は衝撃に耐えられず、崩れ去る。

 コロコロと、俺の前に、神棚に飾られていた像のような物が転がって来た。

 血の臭いと腐敗臭が広がる中、なぜか、俺は目の前の老婆の死体よりも──その像に目が行った。



『彁混神』



「カマ……カミ?」


 像に掘られた文字列を見て、俺は本能的に──それがカマカミを指しているものだと感じ取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る