One Apple a Day

悠井すみれ

第1話

 一日の仕事を終えたエドワードが、屋敷に戻るなり口にすることは決まっている。


「リリーは、今日は何を食べた?」


 兄夫婦の忘れ形見の──ということになっている──少女が、今日を無事に過ごせたかどうか。


 祖父である彼の父にも、兄夫婦にも顧みられなかった、身体の弱い哀れな子。スクールを卒業して屋敷に戻った彼が見つけた時には、すぐにも死んでしまうのではないかと疑うような、目を覆うような有り様だった。

 心無い使用人は叩き出して、経験も優しさもある者たちを雇い入れて。彼自身も、仕事以外のすべての時間を注いでの心身の健康を取り戻させようと努めてきた。そうして、真綿で包むように甘やかして大切にして。最近は天使のような微笑みを見せてくれるようになった。それでも、目を離しておくには一日という時間は長すぎる。だから、自身の心配症に呆れながらも、毎日のように尋ねずにはいられなかった。


 大体においては杞憂で終わる質問なのだが──メイドのジェシカの表情は、今日は晴れなかった。


「あの、あまり。ご機嫌を損ねてしまわれたようで……」

「お菓子も?」


 コートを脱いで従僕に預けながら、エドワードは問いを重ねた。


 彼の法律上の姪であるリリー・メイは、食が細いし好き嫌いも多い。ただし、甘いものに関しては話が別で、砂糖も蜂蜜も果物も、焼き菓子も氷菓も、本国のものだけでなく華夏フアシアの豆などを使った不思議な餡も分け隔てなく好む。親代わりとしては、もちろん肉も魚も野菜もパンも、栄養が偏ることなく食べて欲しいとは思う。とはいえ何も食べずに倒れるよりははるかにマシだから、どうしても食が進まないなら菓子で良いから口に入れてくれていれば、と思うのだが。


「ええ……お熱があるということではないようなのですが」

「そうか。困ったな」


 首を振ったジェシカは、期待を込めた目でエドワードを見上げてきた。


がお帰りになれば、ご機嫌を直してくださるかもしれないと思っておりましたが……」

「会ってみよう。着替えたら行くと伝えておくれ。あと、ミルクを温めてあげて」


 幸いに、この租界そかいの空気は煤に塗れた本国のそれよりはずっと綺麗だ。それでも、彼は仕事の都合上、多くの国の多くの人と会わなければならず、悪い病気を知らず知らずのうちに服にまとわせてしまっているかもしれない。健康な成人の男なら問題はなくても、彼女に対してはどんな影響があるか分からないから、慎重にならなければ。

 彼女が住む世界は美しく清らかに保たれていなければならない。エドワードはそう信じているのだ。




 屋敷の上階のリリー・メイの部屋を訪ねると、小柄な身体がソファの影に隠れるように丸まっていた。空腹で身動きする気力がなくなった、というところだろうか。それに、きっと食事に手をつけなかったのは悪いことだと理解してもいる。彼や使用人に対する申し訳なさも、叱られることへの不安も感じているのだろう。彼の宝物は、とても素直で賢いのだ。


「ただいま、お姫様。今日も良い子にしていたかな?」

「お兄様……」


 良い子じゃなかったのは自分でもわかっているのだろう。リリー・メイの黒い目が、少しうるんで彼を見上げている。わざわざ相手の罪悪感を刺激するもの言いをしたことに──勝手なことだが──胸を痛めながら、エドワードは少女の横に腰を下ろした。うかつに触れると壊れてしまうのではないかというくらいに細い肩を、ガラス細工よりもそっと抱き寄せる。


「食事をしないのでは、また具合が悪くなってしまうよ。苦い薬を呑まなければならなくなる」

「お兄様、だって」


 毎日決まった時間に薬を吞ませるのもひと苦労だが、体調を崩した時に処方される薬の味は一段とひどいらしく、リリー・メイを何より恐れさせるのだ。今の彼女の世界を脅かす存在がそのていどであるのはエドワードが誇って良いことだろう。だが、躾の口実に使う卑劣さで帳消しだ。彼がごく穏やかな口調でたしなめただけで、リリーはふるりと身体を震わせてしがみついてくる。それほど無心に無邪気に、この子は彼を信じ切ってくれているというのに。


「どうせ、ご飯を食べてもお薬は呑むじゃない。お菓子をいただいても、そうでしょう? だからお兄様、リリーね、どうせなら何も食べなければ良いんじゃないかと思ったの……!」

「そうだったのか」


 彼の胸にしがみつく細い指の必死な力強さ、肩のあたりに押し付けられる小さな額がこの上なく愛しかった。日中、多くの時間を共に過ごすジェシカにも言わなかった我が儘を、彼には言ってくれるということも。彼が帰れば、とジェシカが漏らしたのは、何も職務を放棄した怠慢ということもない。実際に、リリー・メイはほかの誰より彼に甘えるし、彼の言いつけなら聞いてくれる。


「いつものお薬だって苦いもの。吞まなくて済むなら、お腹が空いても構わないもの」

「でもね、リリー。君の身体のためなんだから。ジェシカたちも心配してしまう」

「ええ……ごめんなさい、分かってはいるの」


 彼の胸に顔を埋めて俯くリリー・メイの髪を、指で梳く。シルクの柔らかさとしなやかさのそれは、エドワードや亡き兄とは似つかない夜の色。黒玉ジェットのような、鴉の羽根のような艶やかな黒。ジェシカたちは華夏人の母親に似たのだと考えているようだが、それは彼女を直接知らないからだ。

 翡蝶フェイディエ。名前の通りに翡翠色の目をした麗人は、華夏と本国の血の両方の特徴をその身に宿していたのだ。彼女と兄の間の娘なら、華夏人そのものの黒髪黒目を帯びて生まれてくるはずがない。あり得ないことがどうして起きたかは──誰にも知られてはならないことだ。


「ダンスも教えると言っただろう? 大きくならないと君の手を取って踊れはしない」

「それは……嫌だわ。お兄様と踊りたいもの。ドレスも作ってくださるって」

「ああ、うちの商会の最高の品で作ってあげる。だから良い子に、ね?」

「ええ……」


 リリー・メイの出自には蓋をして、エドワードは彼女を徹底して本国のレディとして育てている。翡蝶が暮らした華夏風の離れも封印して、母のことを忘れさせるように綺麗なもの美味しいもの楽しいものでリリー・メイの胸を満たして。わずかな小物や菓子以外は、華夏のことには触れさせないで。


 ──華夏はこの子の故郷なんかじゃない。この子の容姿で華夏の習慣に馴染んでしまったら、租界では苦労するだけだ。


 病弱な身内がいると知ると、せっかく華夏にいるのだから伝統ある国の医学を頼るべきでは、としたり顔で助言する者もいる。日常の食を通して健康を維持する、薬膳とかいう思想があるのだそうだ。概ねは善意からの助言なのだろうが、エドワードは決まって首を振ることにしている。子供の敏感な舌は薬草の味を嫌うだろう、そもそも口にしないのでは逆効果だ、と。

 もっともらしい建前の裏にある本音は、誰にも、リリー・メイ本人にも決して言わない──言えないのだが。

 

 リリー・メイがようやく微笑んだところで、柔らかなノックの音が響いた。ジェシカに入室を許すと、甘い香りが漂ってくる。エドワードが言いつけたほかに、厨房の者たちは気を利かせてくれたらしい。 


「ホットミルクに、蜂蜜を入れてあります。それに、リンゴのコンポートを。一日One一個の apple a リンゴはday keeps 医者をthe遠ざけるdoctor away、と言いますでしょう」

「医者いらず、か……」


 温かい湯気に誘われるように、リリー・メイはミルクのカップに手を伸ばしている。火傷を恐れてだろう、小さく唇を尖らせて息を吹きかける姿の愛らしさに胸が苦しくなるのを感じながら、エドワードの頭の片隅に何かが閃いた。

 コンポートを作るのに使ったのがリンゴの一個や二個ということはないだろう。そのほかの材料も、当たり前に厨房に揃っているはず。栄養があって、今の時間でも比較的手軽にできて、リリー・メイが好んで食べそうなものを、思いついたのだ。


「ジェシカ。厨房に材料があるか聞いてくれるかな」

「え──ええ、はい。きっと問題ございませんわ」


 エドワードの声を潜めた囁きに、ジェシカは一瞬だけ眉を寄せ──そしてすぐに顔を輝かせた。小さなレディが気に入るに違いないと、彼女のほうでも得心してくれたらしい。


 ジェシカがいったん退室すると、リリー・メイはコンポートの皿を掲げてエドワードを見上げていた。


「お兄様……お帰りになったばかりなのでしょう? 晩餐はどうなさるの……?」


 ホットミルクで空腹を刺激されて、コンポートも食べてしまいたくて仕方ないのだろうに。惜しみつつ躊躇いつつも彼の食事を気遣ってくれているのだ。そのいじらしさにまた息苦しささえ感じながら、エドワードは笑みを纏って姪の頭を撫でた。


「君と一緒に食べるから大丈夫だよ、リリー」

「……でも、リリーは──」

「無理をしなくても良い。今日は食事もお薬も、一緒に済ませてしまおうね」

「お兄様……?」

「少しだけ待っていておくれ」


 謎かけでもされたと思ったのだろう、不思議そうに首を傾げるリリー・メイを宥めて今日の出来事を語って聞かせることしばし──少女の黒い目が、不意に輝いた。厨房から漂う香りを嗅ぎつけて、今宵の晩餐を悟ったのだ。


「……アップルパイね!」

「ああ、リンゴは身体に良いからね。一日くらいは、お薬の代わりになるだろう」


 一日One一個の apple a リンゴday、ジェシカの言葉通りだ。薬を呑みたくないリリー・メイの我が儘を叶えつつ、けれど薬を呑んだことに名案だ。リンゴに加えて、バターたっぷりのパイがあれば、明日の朝食まで持たせられるだろう。そうしょっちゅう許す訳にはいかないが、たまにはこんな日があっても良い。


 苦い薬から逃れられたと確信したからか、リリー・メイの笑顔も一段と輝いて、機嫌もぐんと上向いたようだった。


「明日からはちゃんと良い子にするわ。ご飯も、お薬も、お勉強も」

「少しずつで良いんだ。勉強も──大人になるのだって」


 エドワードが立ち上がって両手を広げると、リリー・メイは迷うことなく飛びついてきた。少女の小さな身体をお姫様のように大事に抱えて、食堂に向かう。十歳という年齢の割には羽根も同然に軽く、けれど最初に抱き締めた時よりは格段に重くなった。


 健やかに育って欲しい。どうか、幼く無邪気なままで──何も知らないままで。


 相反する願いが胸を裂く痛みを無視して、エドワードは腕の中の少女に微笑みかける。この子が美しいレディに育ったところを見たいと思う一方で、その時は悩み苦しむことになるのだろうとも分かってしまう。明らかに異国の血を引いた者が租界で生きるのはいばらの道だ。リリー・メイの母がそれを証明している。


 ──だからといって華夏に返したりするものか……!


 翡蝶はダンスなんてできない足だった。纏足チャンズー──女性を閉じ込めて虐げるこの国の文化は時に残酷で、手放しで肯定することはできない。ましてリリー・メイをその悪習に染めるなど考えられない。ならば──彼が守るしかない。可愛いリリー・メイの平穏な世界を、全力で、生涯を賭けて。


「お兄様、どうしたの? 少し苦しいわ……?」

「ああ、ごめん。リリーがとても可愛いものだから、つい」

「お兄様ったら」


 エドワードの迷いも決意も、その裏にある後ろめたさも。何も知らずにリリー・メイは無邪気に笑う。何も知らないからこその笑顔だとは分かっていても、否、だからこそ彼を救ってくれる。彼の行いは彼女のためであって、間違ったことではないのだと。


 階段を下りるうちに、甘く香ばしい匂いはいよいよ強まった。アップルパイと──遅い時間にお茶は良くないから──ミルクで、午後の茶会のような晩餐もたまには良いだろう。エドワードについては、リリー・メイの笑顔を肴にブランデーでも傾けようか。それだけあれば十分だから。華夏の皇族が食するとかいう珍味よりもずっと貴重でずっと贅沢なじかんだから。


 かりそめに過ぎないのは、エドワード自身がよく知っているのだが。彼を親以上に慕ってくれる少女との時間は、蜜よりも甘く彼を満たし酒よりも強く酔わせてくれる。守られているようで、リリー・メイは彼を何よりも癒してくれる。


 まるで彼女こそが、彼にとってのリンゴであるかのように。

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