白い満月と荻の海

HiraRen

白い満月と荻の海


 おにぎり二つ。あと、野菜ジュース。

 コンビニで買う昼食は満腹を得るために買うのではなく、昼食と言う儀式のために供えられる供物のようだった。

 溜池公園の長椅子に腰かけて、柵の向こうに浮かぶ淀んだ色の湖面を眺めた。重くて腐ったような匂いが鼻につく。こんなところで誰も昼食を食べない。誰もいないから僕がいる。僕の昼食は儀式だから、匂いに左右なんかされないのだ。

「ひどい顔してるね。まるで出発前みたい」

 長椅子に置いていた僕の供物をサッと手にした女の子に「あっ」と驚きの声を発することが出来れば、どれだけよかったことだろうか。

 長い黒髪の若い娘は、きめの細かい肌に少しだけ心配の影を差して眉を寄せる。一対の澄んだ瞳が、僕をジッと見つめてから。

「あなた、ホンキなの?」

 そう確かめるように聞いてきた。

 僕はなんと答えていいのかわからなかった。

 足元で綺麗に脱いだ革靴。そのなかに傷だらけのスマートフォンを挿している。

「どうして僕に声をかけたの……?」

「月の裏側へ行ってしまおうとしていたから」

「……月の裏側?」

 うん、と娘は頷いて溜池の柵の向こうへ顔を向けた。

 そのとき、冷たく清廉な突風が吹き抜けた。

 溜池と僕らを区切る柵の向こう側には、真っ白い白昼の月が浮かんでいた。それは遠い空の向こうではなく、映画のスクリーンのように眼前に、巨大に、そして明瞭に。

 あれは僕の知っている月ではない。

 でも、嘘も偽りもない正真正銘の白い白昼の満月だ。

 僕は自然とそう思いながら月をぼんやりと眺めた。それは巨大ではあったが、手の届く範囲にあるわけではなく、遥かエデンの彼方に存在しているようだった。

「鼓動がね、月の裏側に行こうとしているヒトの鼓動だったから、声をかけたの」

「キミはそう言う保安員なの? それとも案内人なの?」

「どちらでもない。ただ、最後にちゃんと意志を確認しなくちゃいけないから。パスポートも身分証明書もいらない。あなたの意志で、月の裏側へわたしが案内するし、出発しないという判断もわたしは支持する」

 彼女の言葉に、ふと自分が見知らぬ原野に埋もれて居る事に気づいた。

 溜池公園の長椅子が、ずっと僕の腰の下にあった。目の前に溜池と現世を区切る木の柵も、ある。でも肝心の溜池はどこにもなく、通路のアスファルトも街灯も、頭上を掠めるように走っていた高速道路もない。空を阻害していたビル群も見当たらず、トワイライトブルーの大空に薄い白金色の満月が霧がかったように浮かんでいた。

 ムッとする緑の匂い。

 陽が大地を温め、地面がそれに応える匂い。

 雨上がりのアスファルトとは違う、正午のにわか雨が過ぎ去った草地の匂い。胸の奥へとスッと染み込む優しい匂い……。

 ふと、僕は改めて彼女を見る。

「少し、落ち着いた?」

「あ、うん……。落ち着いた」

 胸の奥につかえていたひどい不純物は美しい世界の匂いによって少しだけ崩れ去ったように思われた。

 再び風が大地を吹き抜ける。

 荻の穂が風に合わせて大きく身を揺らし、美しい銀白色の波が地面一杯に揺れていた。

「荻の葉のそよぐ音こそ秋風の 人に知らるる はじめなりけり……」

 ふと口をついて漏れた詩に、自分自身でも驚いた。

「それ、なんなの?」

「高校生の頃に習わなかった?」

「……わかんないな」

 彼女は女子高校生らしき制服を着ていた。紺色のジャケットとスカートにストライプのリボンをつけている。

 僕は女子高生が目の前に居ること。

 自分が紀貫之の歌を無意識に諳んじた事に驚いた。

「こんな気持ちになったのって、久しぶりだ」

「鼓動が安定して来たよ。落ち着いてきたんだね」

 しずかに頷く。

 遠くに揺れる背の高い木々と林は揺れる荻を受け入れるように風と混ざり合っていた。風にざわめく梢の音が、純白の水音のように耳の中で響き合っているように感じられた。見る限りの平原は、遠い彼方から届けられる清廉な風でひんやりと涼しく、季節の変わり目に与えられた心地よい気温を大地に降ろしている。

 まるで集落の深夜のようにしんしんと無を保ちつつ、それでいて風や荻やちょろちょろという目に見えない水の静かな音だけが足元から聞こえている。

「すごく静かだね、ここは」

「そう、すごく静かなの」

 彼女は僕の隣に改まって腰を降ろして、膝に供物が入ったマイバックを置いた。

「あなた、どうして月の向こう側に行こうと思ったの……?」

「月の向こう側……」

 僕はぽつりと繰り返す。

 その意味を理解できているわけではないが、彼女が言わんとしている事はどことなくわかる。

「街を作ることに憧れてんだ。でも、街を作る事はあんまりいいことばっかりじゃないって気づいたから」

「どうしてそう思うの……?」

「空港を作ろうとしているんだ。でも、その空港が出来る場所はさ、有名な政治家の持ち物で……最初から、その政治家がオイシイ思いが出来るっていう筋書きがあって、僕らが街を『開発』するっていうのは、そういう意味だったんだって……。そういうのがわかってしまうと、街を作っていく事の意義って……」

 ぎゅっと膝の上で拳を握った。

 涙があふれてくる。

 女子高生が僕の拳の上にそっと掌を置いて。

「また、鼓動が乱れてきたよ。落ち着いて」

 そう言ってくれた。

 でも、僕はしばらく立ち直れなかった。

 仕事ではたくさん叱られて、たくさん否定されて、たくさん人格を傷つけられた。

 開発は大きなお金が動いていく。

 大きなお金が右から左へ……。

 動いている間にどれだけ『おこぼれにありつけるか』という事を考えている。

 そう思い始めてしまったら――。

「毎日がつらいんだ。毎日に……僕はもう耐えられなくって」

 たくさんの罵倒、たくさんの仕事、たくさんの苦痛……。

 生きるために、食べていくために給料をもらっているのに、その給料が欲しくないと思いながら、今日も明日も会社へと行く。

 拳の上に重ねてくれた彼女の掌にぐっと熱がこもった。

「あなたみたいな人がね、たくさんここにやってくる。事情は人それぞれ違うけれど、みんな苦しくて、悩んで、泣いていた」

 そう言って彼女は原野に浮かぶ巨大な月を見上げる。

「あの月の裏側へ行ってしまう人もいれば、元の世界に帰っていく人もいる。わたしはどちらも正しい判断だと思うの」

 原野のうえにぽっかりと浮かぶ白昼の満月を仰ぎ見て、思う。

「かぐや姫みたいだ」

 月の都へ帰っていくのだ。

 穢れの多い地上から、あるべき月の都へと還っていく。その迎えにやってくるのは何者であろうか。

「月の裏側は、ここみたいにきれいなの?」

「それはわからない。あなたが思う『綺麗な世界』が月の裏側にあるとは言い切れないから」

「なら、どうして女子高生のキミが……こんなところで道案内をしているの」

「わたしが女子高生に見えるんだ。ありがとうって言っておかなくちゃ」

 彼女はそう言ってからくすくすと笑って。

「わたしが小人に見える人もいれば、猫に見える人もいるし、孔雀だという人もいる。もちろん、男性だという人も。それぞれで見え方が全部違うの。それに……」

 僕から再び月へと目を向けて、彼女は続ける。

「夜の満月は今よりきれいなんだよ」

「……夜の満月?」

 荻の揺れる原野に浮かぶ巨大な満月は、トワイライトブルーの大空に白くぼやけている。それだけでも美しいのだが、たしかに夜になればもっと異なる黄金色の輝きを放つことは容易に想像できる。

 彼女は続けた。

「あなたは昼間の満月しか見ていない。でも、きっと違う満月も見ることが出来る」

「満月が輝く夜のこと言っているの?」

 ひどく写実的に描かれた水墨画のような原野と月を見上げながら「夜の満月か……」と呻いた。彼女も頷いて。

「必ずしも、夜が不吉な時間であるとは限らない。昼が幸福な時間である確証がないように」

「昼が幸福な時間である確証がないように……」

 僕は彼女の言葉に繰り返す。それから少しの間を置いて、小さく頷き、立ち上がった。

「いま少し、月の都へ行くのは延期する」

「わたしはそれを支持するよ」

「街を作らない日常を、少しだけ歩んでみようと思う。もしかしたら……いまみたいにつらい思いをしなくて済むかもしれないから」

 うん、と彼女は頷いた。

 僕は靴の中に入れていたスマホを拾い……履いた。

「それにしても美しい場所だね。建物がないとこんなにも世界は美しいんだね」

「あなたが生まれて、育った大地は、もともとこうした世界だったのよ」

 彼女の言葉を噛みしめながら、僕は答える。

「なおのこと、僕は街づくりからは距離を置くべきなのかもしれない」

「人生はたったの百年だから。つらい記憶を保持できる時間はもっともっと短い。いろいろなことに耐えきれなくなったら、またあなたと再会することになると思う」

「その時も女子高生の姿でいてくれる?」

「さあ、どうかしら」

 彼女はそこまで言ってからゆっくりと立ち上がり、膝の上に置いていた僕の『昼食』を差し出した。

「あなたの大切な人の姿で、迎えに来るね」

 昼食の入ったマイバックを受け取って「おいおい、僕はそんな――」と言いかけたとき、車の行きかう轟音が頭上から降ってきた。

 覚醒した意識のなかで、自分が長椅子のうえで横たわっていることに気づいた。

 柵の向こうには溜池が広がり、空を覆う建物の群れが遠くから迫っている。高速道路はがなり声をあげ、鉄道はきいきいと啼いていた。

 スマホに上司からの着信を認める。電源を切る。

 空の遠いところにぽつんと浮かぶ、小さな白い月を見上げて……。

「月の都に行くのは、延期なんだ」

 自分にそう言い聞かせながら、久しぶりに古典でも読もうと思った。

 心を圧迫されながら働いた僕には、静かな原野の片隅で古典文学を読みふけることが、必要とされているような気がした。

 この美しい武蔵野台地の片隅で。

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