38、とある女の子の記憶

「私の本を何冊も出版してくださっているとか」


 落ち着いた男の声が聞こえたので振り返ると、背の高い肩幅のある男が若かりしナジーンと話していた。

 エシルバは本当に彼女なのかと疑いたくなった。

 なにしろ、今とは比べものにならないほど目が純粋でキラキラしているし、話し方にもまったくとげがないからだ。男の顔は見えなかったが、シブーの中でも随分と地位が高そうな雰囲気が伝わってくる。


「えぇ、あなたの大ファンなんです。ゴドラン|スーは世界の英雄ですから、もっと深いところまで知りたいと願うファンが私以外にも大勢います。今回お会いしたことを本に書いても?」


「いいですよ。次に発売する本のタイトルはなんていうんです?」


 ナジーンはパッとはじけるような笑顔を見せた。ちょうど、待ち構えていたパパラッチが2人の前に来て「お二人とも、ぜひとも一枚」とシャッターを切った。


「まだ決めてません。あなたは慈善事業にも熱心に取り組んでおられますから、今回はそのことをテーマに書きたいと思っています。国民が胸を打たれるような題がいいですね」


 ゴドランは少し考え込んだ。


「では、ドブラコッチへの支援事業を題にも含ませていただきたい。もちろん、今のは一読者のアンケートとして聞いてもらって構いませんよ」


 エシルバは男の顔を見ようとしたが、体が動かなかった。まるでみんな自分の存在に気付いていないようだ。


 ――ゴドラン。信じられないが、この男が自分の父親だというのだ。


 にこやかに会話する二人が遠ざかっていき、今度は薄暗い部屋の中で物書きをする彼女の姿が見えた。壁にはおびただしい量の資料が張り付けられており、社交場で撮ったゴドランとのサイン入り写真が飾られている。時折写真に目をやっては元気をもらって笑みを漏らしていた。


 どうやら出版の締め切りが迫っているらしく、最後のタイトルが思いつかず悩んでいるらしい。ナジーンは頭を抱えたまま部屋の中を行ったり来たりしていた。やがて彼女は椅子に座ると、こう題を打った。


”ゴドランとドブラコッチ革命”


(ここはどこだろう?)


 気付いたら、また違う空間に来ていた。

 今度は妙な胸騒ぎを感じた。


(まさか)


 空を見上げると真っ暗で、ポツポツ雨が降っている。大樹堂の外廊下らしき場所にいて、遠くのフロアからは火を噴いているのが見えた。心臓が危険を警告するように早く脈打ち始め、エシルバは急に具合が悪くなって立っていられなくなった。


 あの日だ。


 エシルバだけでなく、多くの人の運命が狂い始めた一日――大樹堂大反乱。


「やめてよ」エシルバは突っ伏して叫んだ。「こんなの見たくない!」


 ドサッと音がして体が恐怖に反応した。ゆっくりと目を開いて見ると、遠くに人が転がっていた。まさか、あの信じられないくらい高い場所から落ちてきたのだろうか?


 エシルバは駆け寄ってすぐに見覚えのある顔だと知った。


「ナジーン……」


 まだ辛うじて息をしている彼女のそばには、「ゴドランとドブラコッチ革命」がしっかりと抱かれていた。彼女に触れようとした時、自分の腹をすり抜けて不気味な腕が伸びた。振り返ることはできなかったが、この腕が何者なのか理解できた。


「お父――さん」エシルバは驚きながらつぶやき、悲痛に顔をゆがめた。


「もう一度、やり直したいか?」


 誰の声だ? エシルバは父親だと思っていたが、さっきとはまるで違う声だった。

 腕がナジーンの手に触れた途端、彼女の体は湾曲して飛び上がった。やがて手にジリーマークが現れ、徐々に彼女の体をむしばんでいった。あの、はじけるような笑顔のかわいらしい女性が、頭から血を流し、目からは生気を失い、手には不気味な印が刻まれ別人のように変わり果てていく。


 エシルバはショックのあまり口に手を当てて声を押し殺した。父親ではないと思ったが、この声の主こそ、ジリー軍の絶対的君主に君臨する王、ガンフォジリー……


「あぁ!」


 エシルバは叫びながら一瞬意識が飛んだ。いや、実際はどのくらい時間がたったのか分からなかったが、そばにはガンフォジリーも、血まみれで倒れるナジーンもいなかった。時計を見てみると、夜の9時45分だった。


(時計?)


 小さな部屋の中にいた。


 ベッドやテーブルといった家具が一式そろい、窓からは沈んだ灰色の曇り空が見えた。


「もうやめて。僕を、元の場所に戻してよ。リフやカヒィがいる世界に……」


 エシルバの訴えを聞く者はいなかった。

 遅れて気付いたのだが、なにやら背後で物書きする音が聞こえる。

 クルリと体をよじって振り返ると、テーブルに向かってお絵かきをする髪の長い女の子が背を向けて椅子に座っていた。


 4歳くらいだろうか、触れるだけで壊れてしまいそうなはかなさを感じる。床には描いた絵が散乱していて、そのどれもが同じ似顔絵で顔のところがグチャグチャにされていた。


「今度は一体なんだっていうんだ」


 エシルバはむしゃくしゃして頭を抱えたが、ふと冷静になる自分がいた。部屋のドアを確かめたが鍵がかかっているし、窓の外は怪しげな森がどこまでも続いている。ここがどこなのか考えるだけ無駄だろう。だってここは、記憶の中に違いないのだから。


「誰を描いたの?」


 エシルバは抜け出すのを諦めて、そっと聞いてみた。女の子は黙々と手を動かし続け、言葉にはちっとも反応しなかった。


「君の名前は?」


 機械のように同じ絵を描き続ける女の子は、まるで感情がないように見えた。それでも瞬きはしていたし、時折顔をむずむずさせているのを見る限り、完全な機械ではないようだ。エシルバは目の前の女の子がなんだか放っておけなくて、さらに呼び掛けた。


「僕はエシルバ。どうやら、道に迷っちゃったみたい。ここは君の家なの? ほかに誰かいる?」


 女の子は紙ばかりに向けていた顔をようやく上げ、エシルバのことを見た。目がパッチリして、愛くるしい顔をした女の子だ。だけど、どこかもの悲しそうな目で、じっとこちらをのぞいている。


「話を聞いてくれてありがとう」


 エシルバが腰を下ろして女の子にほほ笑み掛けると、彼女は真っすぐ壁に掛けられた時計を指さした。どうしたんだろう、と思ってみると急に部屋全体が不穏な空気で満たされた気がした。時計の針が、さっきから1分もすぎていないのである。


「あの時計、壊れてるよ。だって、僕が来た時から1分も進んでいないんだもの」


 エシルバは恐怖心を悟られまいと落ち着いて言った。女の子は伸ばした手を静かに下ろし、こう言った。


「私、死んだの」


 時計の針は、9時45分を示している。女の子は無感情な声で同じ言葉を繰り返し、同じ声のトーンで訴え続けた。


「君は死んでないよ」


 エシルバはじっくり物思いにふけりながら床に座り込んだ。女の子は不思議そうな目でこちらをじっと見詰めたままだ。彼女はあの時間に死んだのだと言ったが、目は一度も時計に向いてはいなかった。


「死んだ」


「一歩間違えればね。でも、君は死ななかった」


 エシルバは真剣な目で女の子を見返した。


「うそ、うそ、うそ!」


 女の子の顔が急にショックでゆがんだ。


「うそはつかない」


 女の子はしばらく黙り込んでから、怯えるように顔を上げた。


「信じない。だって、私を裏切った」


「ゴドランのこと?」


 エシルバの言葉に女の子は人が変わったように両目をカッと見開き、途端にペンを握って描いていた絵をグチャグチャにし始めた。「あぁぁぁああ!」


 乱雑なペンの跡は女の子の強い怒りだ。あまりにも強くペンを握るので、紙がやぶけてテーブルにまで達した。きっと、この女の子は永遠とこんなことを繰り返してきたのだろう。同じ時間の中で、憎しみが増してはペンを握り、終わりなど考えもせず。


 エシルバは女の子の頭を優しくなでた。次第にペンを動かす音、紙が引き裂かれる音、叫び声も聞こえなくなった。気が付いたら女の子が安心した顔でエシルバの膝の上にのっていた。

「ごめんね」エシルバは言った。


「僕のお父さんのせいで、君をこんなふうに傷つけてしまった。もちろん、君以外にも、もっと苦しんでいる人はいる。僕の友達の中にも。この問題が簡単なものじゃないってことは分かっている。でも、僕は必ず呪いを断ち切ってみせる、約束するよ。これ以上、君を苦しめないって」


 女の子の目はかすかに弱々しい光をたたえた。


「私のこと、助けてくれるの?」


「もちろん。君を助けたい。僕が君のためにできることはあるかい?」


 返事の代わりなのか、女の子は泣きながらコクリとうなずいた。


「怖かったんだね」


 エシルバは女の子を抱えて立たせると、自ら時計の針を指で進めて動かした。12時ちょうどのところで針をピタリと止めて、エシルバは笑顔で女の子に振り返った。


「もう、怖くない」


 女の子は恐る恐る時計を見上げ、いつもの場所に針がないことに驚いた。


「針は? ねぇ、針は?」


 少しパニックを起こしたようにも見えたが、エシルバはそれでも優しい笑みを絶やさなかった。彼女が落ち着いたのを見てすっとしゃがみこんだ。

「これからが、君の新しい時間だよ」


 不安げな顔で時計をながめていた女の子はやがて温かい小さな笑顔を浮かべた。彼女はテーブルの引き出しから使いかけの鉛筆を取り出しエシルバに渡した。


「お兄ちゃんにあげる」


「僕に?」


「うん! これはね、大切な人にね、あげる鉛筆なんだよ」


「ありがとう」


 エシルバは受け取った鉛筆を胸ポケットにしまい、部屋のドアを見てからこう言った。

「一緒に帰ろう。僕らの居場所はここじゃない――ナジーン」


 女の子は自然とエシルバの手を握った。



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