第37話 ミスの原因は何だ?

「今回のお悩みはタウ・カッシオペイアェさんからです。『自分はミスが多い人生を送ってきました。自分には人間のミスは当たり前だと思っていました。ですが、絶対にミスをしない友人がいます。自分もミスをしない、とはいかなくても、今よりミスが少ない人間になりたいです』ということです。誰にでもミスはある。あんまりクヨクヨするな」

 ある日の放課後。

 雑談部の部室ではいつものように桔梗が誰かから受けた悩み相談を華薔薇に持ちかける。

「珍しく桔梗の意見に同意ね。誰にでもミスはある。ミスをするなら、自分の得意なことで、ミス以上に挽回すればいい」

 誰にでもミスはある。ならば、ミス以上に貢献して、ミスを笑い飛ばせるくらいの功績を叩き出せばいい。

 要は長所を極限まで伸ばすのだ。短所を伸ばして平均的なステータスより、多様性が求められる現代では能力は尖ってる方が有利に働く。

「短所なんてどうでもいいことは無視して、長所を伸ばしなさい。以上」

「確かに、何か尖っている奴って面白いよな。平凡な奴より話が弾んだり、専門的な知識を教えてもらったり。意外な発見はそういう奴からもたらされるよな」

「私としたことが、悩み相談を解決してしまったわ。ここは雑談部だというのに。反省案件ね」

 ミスは誰にでもある。それこそ、雑談部で毎日活躍する華薔薇だって、たった今雑談部の範疇を越えた雑談をしてしまった。

 たとえ華薔薇がミスをしても問題にならないのは、華薔薇がミス以上に雑談部に貢献しているからだ。

 ミスをしないのが一番だとしても、享受できるメリットがミスを越えれば、誰も文句はない。

「私的には不本意だけど、タウ・カッシオペイアェの悩みは解決ね」

「あっ、そっか。別にミスしてもいいって結論出ちゃったんだ。この後の雑談部、どうするの?」

「もちろん、雑談するのよ」

 こぼれんばかりの笑みを浮かべて華薔薇は雑談を始めるのだった。


「今回の雑談のテーマはどうやったらミスを減らせるか、について」

「あっれぇ!? タウ・カッシオペイアェの悩みは解決したよね? なのにミスを減らす雑談をするの?」

「それはそれ、これはこれよ。タウ・カッシオペイアェの悩みが解決したことと雑談部の活動には毛ほども関係がない」

 悩み相談は華薔薇がうっかり解決したが、雑談部の活動とは切り離して考えないといけない。

「いや、まあ、ミスは多いよりは少ない方が、いいよな。……今回の雑談も無駄になることはないか。よし、さくっと頭を切り替えよう。こっからは雑談部、こっからは雑談部……」

「うわっ、きもっ。桔梗がいきなりブツブツ言い出した」

 いつものごとく華薔薇は桔梗に対して辛辣である。幸いにして、桔梗は気持ちを切り替えている最中だったので、認識していなかった。

「よし、雑談部モードに切り替え完了。いつでもオッケーだぜ」

「その準備は部室に来る前に終わらせなさい。簡単なことを先延ばしていると成功できないわよ」

「えっ、そうなの!? どうしたら先延ばししなくなる?」

「自分で調べなさい」

「そんなぁ」

 今回の雑談のテーマはミスを減らすこと。残念ながら先延ばし対策については扱わない。

 情けない声を出しても、華薔薇は情けをかけない。

「さて、桔梗はミスの原因は何だと思う?」

「そりゃ、不注意だろ」

「そうね、不注意はあるわね。それじゃあもう一歩踏み込んで、不注意が起こる原因は何だと思う?」

「えっ!? 不注意の原因となると…………確認不足とか」

「当たらずとも遠からず。ミスが起こる原因は脳のエラーよ。脳が正常に働いていないから、ミスが起こる」

 忘れ物、言い間違い、書き間違い、皿を割る、遅刻、破損、汚損、誤字、脱字、その他諸々のミスを追求すると行き着く先は脳になる。

「集中力の低下、ワーキングメモリの低下、脳疲労、脳の老化、この4つがミスが起こる主な原因よ」

「全部頭の中で起こってるじゃん」

 体が起こすミスはほとんど存在しない。手の動かし方を間違った、足運びを間違ったとしても、ミスの原因は体ではなく頭である。

 脳から送られた指令で体は動く。手足は勝手に動かないので、脳から送られた指令がそもそも間違っていたら、手足はどうしようもない。

 手足は脳からの指令を忠実に守るだけである。

「それじゃあ、それぞれの原因について、もう少し詳しく雑談しましょう」

「はーい。原因の根っ子を知るのは大事だよな」

 根本的な原因を知っていれば、トラブルにも対処しやすくなる。表面的な部分だけ本質を理解することはできない。

「ミスしないために確認する、ダブルチェックする、整理整頓する、などの対策はあるけど、集中力が低下している状態だと、確認を忘れるし、チェックもすり抜けちゃう」

「疲れてる時に確認しても、何が間違ってるかなんて分からなんよな」

「一番は集中力が下がっている時は作業を中断して、休憩すること。休憩すると集中力は回復するから」

 集中力を高いまま一日中維持できるなら、休憩しなくても構わない。しかし、人間の集中力は大抵1時間程度しか持たない。遺伝子が優れているか集中力を鍛えている人でも4時間程度が限界である。

 一日の内、必ず集中力が低下する時間は存在する。

「大前提として集中力が下がった時には作業をしないこと。ミスをして、後から修正するのは二度手間。だったら最初から休憩して、一発オッケーで進められるようにしなさい」

 休憩は短ければ5分から10分、長くても30分。対して、後からミスを取り戻そうとすると、進めている作業を中断しないといけないし、修正ヶ所の直しとチェックが必要になる。

 一度途切れた集中力を元に戻すのも大変なので、手戻りが多くなる。休憩以上の時間を消費する。

「集中力が下がったら休憩だな。だったら俺も集中力が下がったら雑談部を休憩していい?」

「はっ!」

「鼻で笑われたっ!」

「集中力が下がる主な原因は頭をよく使うことよ。桔梗が頭を使っているとは思えない。そもそも雑談部は雑談する部活よ。雑談のどこに集中力がいるのよ。集中力を回復させる休憩は不要よ」

 集中力が一番高いのは朝、そこから時間が経過するにつれて集中力は下がっていく。

 桔梗が雑談部に来るのは放課後。集中力が落ちている時間帯なのは間違いない。

 だが、雑談部で桔梗が頭を使う要素はない。漫然と雑談する部活で集中力もくそもない。

「少しくらい休憩あってもいいじゃん」

「長い時間部活をするなら必須だけど、雑談部はそこまで長くないから休憩は不要ね。休憩したいなら、開始直後に成果を出すことね。余った時間を休憩にあてがってあげる」

「ぬぬぬっ、無理っす」

 1時間かかる作業を30分で終わらせたら残りの時間は自由にしていい。華薔薇は余った時間を制限する気はない。

 早く終わらせれば、余り時間を何に使おうと構わない。

「……っていうか、雑談部の成果って何?」

「それはもちろん、私を満足させること」

「やっぱ無理だぁ」

 桔梗には華薔薇を満足させる手段が思い浮かばない。休憩の手立ては閉ざされた。

「集中力の低下は慢性的な疲労やストレスでも起こる。毎日ストレスを浴びているなら、ずっと集中力は低下したままよ」

「なるほど。俺は雑談部で華薔薇から毎回ストレスを浴びてる。つまり、俺の集中力が低いのは、華薔薇のせいだった!?」

「なら、明日から桔梗とは私は会わないことになるわね」

 特に残念に思うことなく、華薔薇は淡々と告げる。

「いやいや、それは飛躍しすぎでっせ! 明日からも頼んますぜ」

 桔梗は雑談部でストレスを受けていることは間違いない。だが、それ以上に雑談部を楽しんでいる。

 悩み相談を解決するために渋々通っているのではなく、桔梗の意思で雑談部に毎回足を運んでいる。

「やっぱり桔梗はマゾだった」

「風評被害だぁぁぁ!」

 もてあそばれる運命から逃れられない桔梗である。

「閑話休題。集中力を司っているのは脳の前頭葉、さらに言えば前頭前野。ここで分泌されるノルアドレナリンの量が減ると、集中力も低下するわ」

 額のすぐ後ろにある前頭葉を事故などで損傷すると集中力を司る機能が働かなくなる。そのため注意障害を発症したりする。

「へぇ、集中力がどこと関係しているか分かってるんだ」

「脳科学は目覚ましい発展を遂げているからね。集中力を科学的に向上させる方法はたくさん研究されてる」

 脳の機能を理解しようと日夜研究が行われている。毎日のように新たな発見が論文で報告されている。

「前頭前野を鍛えたかったら、自然に触れる、もしくは運動が一番ね。ノルアドレナリンは呼吸によって最適な量にできる、みたいな報告もあるから。桔梗も運動したり、呼吸を整えることね」

「おぅ、やってみるぜ。すぅー、はぁー」

 呼吸に意識を向けているだけで、集中力のトレーニングになる。暇な時に呼吸に意識を向けていれば、集中力も自然とアップする。

「ミスが起こる原因、その2はワーキングメモリの低下。ワーキングメモリの大きさは決まっているからね、広さ以上のことはできない。ミスが多いと思うなら、ワーキングメモリを見なすのもありね」

 自分のワーキングメモリの容量を知っていれば、限度を超える前に注意できる。

 ミスの原因はワーキングメモリを容量以上に使うこと。逆に言えば、容量を超えないように調整すれば、ミスはしない。

「限界を知って、限界の手前で止まれってことだ。ギリギリまで使い倒すのか、華薔薇は鬼畜だな。…………はっ、それって俺のことじゃないか!」

 華薔薇は桔梗が限界を迎えないギリギリをいつも攻めている。限界を越えれば、使い物にならなくなる。

 一番楽しむには、限界の一歩手前で永遠に酷使すること。倒れなければ、時間一杯を楽しめる。

「さて、次のミスの原因は脳疲労ね。当たり前だけど、脳は使っていると疲れる。適度に休ませてあげないとパフォーマンスは劇的に低下する」

「さらりと流された。……いつものことだけど」

 桔梗の主張を悉く無視して華薔薇は雑談を続ける。

「体の状態は健康か病気かの二択では決して語れない。100%以上の力を発揮できる最高潮から、心身共に安定してる健康な状態、病気ではないけど不調な状態の未病、病に侵されている病気まで、人間の健康はグラデーションになっている」

「そうだよな。体が軽いとゲームのスコアも更新できたりするな。逆に絶不調だと、当たり前にできることもできなくなったりする」

「病気じゃないから大丈夫、という考えは捨てなさい。病気と診断されないが、放置すると病気になりそうな状態を未病と言うの」

 体の状態は脳にも同じことが言える。

 脳機能が絶好調の時もあれば、安定している時もある。脳が疲弊していることもある。疲弊を通り越すと最悪な状態、何をやるにしてもミスを連発し、集中力もやる気も下がった状態になる。

「ミスを連発するようなら未病の可能性が高い。そのまま放置すると鬱病に至ることもある」

「そうなんだ。ミスの始まりは鬱の始まりでもあるんだ」

「ミスが増えてきたら要注意。心身をリフレッシュさせたり、ストレス発散しないといけない」

 ストレスを受けて脳が酷使され、脳疲労が起こる。脳疲労の状態で、さらにストレスを受けると脳が完全にパンクして鬱病になる。

 深刻な状態になる前に自分自身を振り返って、定期的に脳を休ませることが大事だ。

「常に脳をリフレッシュさせて、絶好調の状態に持っていくのが理想ね」

「なるほど。華薔薇が雑談部で生き生きしていのは脳が絶好調だからか」

「そうよ。私は常に脳の状態を観察している。不調になりそうなら休憩したり楽しいことをして、脳疲労が起こらないようにしている。だから、常に100%の実力を発揮できる」

 華薔薇は常に自分と向き合って体調を観察している。不調になったら、原因を特定して、次から不調の原因を回避する。絶好調になるようなら、覚えることで絶好調に持っていきやすくなる。

 自分のデータをたくさん持っているから、華薔薇はいつどこででも最適な行動が取れる。

 コツコツ積み上げてきた努力は裏切らないのだ。

「とにもかくにも未病の段階で気づけば、大事にはならない。鬱病の治療は半年やら一年かかるけど、未病だと一週間そこらで直るからね」

「早め早めの対策が重要なんだ」

 大雨が降って川が増水しても、川の水は次第に元に戻る。だが、堤防が一度決壊すると川の水は溢れる。堤防の修復には多大な時間と労力が必要になる。

 早めに対策を打てば、大きな被害にならない。手前で踏み留まることができれば、結果は大きく異なる。

 被害を最小限に抑えるためにも、自分の状態を観察して知ることが大事だ。

「ミスの原因その4は脳の老化ね」

「それは仕方ないんじゃないか。年を取ると脳は老化するだろ?」

「そんなことないわよ。脳が老化するのは脳を使わないからよ。脳を使わないと脳の働きがどんどん鈍くなるのは想像に難くない。脳細胞がどんどん死んで、脳が小さくなることを廃用性萎縮、もしくは廃用性症候群と言う」

 使わなければ衰えるのは脳も筋肉も同じである。だが、使えば使うほど脳も筋肉も成長するのも事実。

 年齢や性別に関係なく、鍛えれば鍛えた分だけ成長する。

「ちなみに70代の高齢者と大学生で単語リストの記憶力を計るテストをしたところ、高齢者の20%は大学生と同じスコアだったそうよ」

「すげーな。脳を鍛えていれば、俺たちと同じくらいの物覚えなんだ」

 個人差はあれど、高齢者になっても脳機能が衰えない。大人になると脳は成長せず、脳細胞が死んでいくだけ、というのは完全なる誤解だ。

「脳を使わずに生活していると、脳の大きさが一年で1%小さくなるからね」

「ふーん、1%か」

「あら、1%を侮ったらダメよ。脳の老化は早い人で20代から始まる。人生を100年生きるとしたら、どれだけ脳が小さくなるのかしらね」

 脳の重さは成人男性が1300gから1400g、成人女性は1200gから1300gとされている。

 老化が始まってから毎年1%萎縮していたら、高齢者になった時は脳がスカスカになっているかもしれない。

「うおー、嫌だぁ! 俺は賢いまま年を取りたい」

「賢いまま?」

 まるで現在は賢い物言いに華薔薇は疑問を覚えるのだった。感じ方は人それぞれ、桔梗が自分を賢いと思っていても華薔薇に口出しする権利はない。

 ただ、自分が有能と誤解していたら、いずれボロが出る。自分を正しく認識しないと痛い目に逢う。

「賢いまま年を取りたいなら、努力することね」

「おぅ、頑張るぜ。それで、俺は何をしたらいい?」

 いくら意気込んでも、桔梗は具体的な方法を知らない。やるべきことについてはいつも他力本願である。

「一番いいのはワーキングメモリを鍛えることね。ワーキングメモリは脳の基本よ。鍛えたら何事も上手く運べるようになる」

 ワーキングメモリは脳を使う作業全てに通じる。ワーキングメモリの容量が大きければ、勉強効率が上がるし、スキルの習得も早くなる。物忘れやド忘れもなくなる。

 同じように作業を始めてもワーキングメモリの差が、覚える早さや効率に如実に表れる。

「よし、分かった。ワーキングメモリをバシバシ鍛えるぞ」

「あら、そう。意気込みは結構ね。それじゃ、頑張りなさい。気が向いたら応援してあげる」

「……」

「……」

「続きはっ! 俺はワーキングメモリを鍛える方法なんて微塵も知らないんだぞ。華薔薇が雑談してくれないと、俺は迷子になっちゃうよ」

 やはり桔梗は桔梗である。自分で解決する意思はなく、華薔薇を頼りにしている。

「……たまには自分で解決策を見つける努力をしなさいな。はぁ、仕方ないから、ワーキングメモリの鍛え方を雑談しましょう」

「ありがとうごさいます」

 いつにもまして調子のいい桔梗であった。

「まずは何より睡眠が大事よ。ワーキングメモリの性能を完全に発揮しようとしたら、7時間以上の睡眠は必須。睡眠時間が7時間を下回るようなら、ワーキングメモリの性能は100%は発揮できない」

 医師を対象にした研究によると、睡眠不足の医師は仕事が完了するのに14%長く時間を使い、ミスをする確率が20%も高かった。

 睡眠時間が6時間を切るようなら要注意。認知機能は確実に低下している。

「ふむふむ、たっぷりとした睡眠だな。今日はゲームをいつもより、半分の時間しかやらないぞ」

「やれやれ」

 華薔薇は呆れるしかない。

 『今日は』ということは明日以降は通常に戻る余地あり。

 『半分の時間』と妥協しているようでは、心許ない。

 おそらく桔梗の睡眠時間の確保は長く続かない。今日は意思の力でこなせても、明日以降は誘惑に負けて、睡眠不足の生活に戻るだろう。

「睡眠と来れば、次は決まっているわ。運動よ。脳のパフォーマンスを上げるには有酸素運動がいい」

 脳のパフォーマンスを上げる観点からすれば筋トレのような無酸素運動よりマラソンのような有酸素運動が効果的だ。

 週に2時間以上のマラソンで脳は活性化する。

「いつもの奴だ。睡眠と運動だな。今日の帰りは走って帰るぞ。えいえい、おー」

「……」

 華薔薇は静かに見守る。今日の帰り『は』ではやはり明日以降が続かない。せめて今日『から』にして欲しいと思う。

 今日の帰りは、にしていると今日の目標を達成したら満足してしまう。一度満足したら、キリがよくなる。終わったことになるので、また始めようという気にならない。

 中途半端に終わらせるのも、続けるコツの一つだ。

「運動をするなら自然の中でするのがオススメよ。自然と触れ合うだけでも、脳は活性化する。運動と合わせると効果は倍増。時間も効率よく使えて、一石二鳥ね」

「むむむ、俺の帰り道には自然はないんだよ。ほとんどが幹線道路の隣だよ。とほほ」

「運動もちゃんと効果があるから続けなさい。休日は自然と触れ合うようにすればいいのよ。焦りは禁物」

 一番は毎日自然の中で運動することだ。だが、生活をしている以上、都合よくは進まない。

 平日は運動、休日は自然と、棲み分けて構わない。一度に全て注ぎ込んでは生活が窮屈になる。

 焦りはワーキングメモリの容量を食ってしまう、余裕を持って鍛えていくことが大事だ。

「自然の中にいるだけでいいから、ある意味一番楽ね」

 自然の中で何かをする必要はない。ただ、いるだけでいい。なので、自宅に自然があれば、自動的に毎日自然と触れ合える。

「桔梗がもし、将来成功したら、大きな家を買うより、広い土地を買って自然を作ることね」

「いいな、それ。その目標が叶ったら、華薔薇を招待するぜ」

「それは遠慮する」

 桔梗の提案を食い気味で拒絶する華薔薇だった。

「とほほ」

 落ち込む様子を見せる桔梗だが、実際には落ち込んでいない。華薔薇が辛辣なのはいつものこと、当然慣れている。

 そう簡単にはへこたれないメンタルの強さを桔梗は雑談部で獲得していた。

「読書もワーキングメモリを鍛えられるわ。ただ、桔梗とは縁遠い行為だけど」

「失敬だぞ。俺だって本は読むぞ」

「漫画?」

「ぐぬぬ」

「漫画も悪くないけど、この場合の読書は漫画は含まない。読書をするとワーキングメモリを鍛えられるに留まらず、読解力も鍛えられる」

 読解力は文章全体の趣旨を捉える力なので、読書をすればするだけ、本の内容の理解が捗る。

 本の内容を理解するスピードが早くなれば、当然読書スピードが上がる。すると一冊にかける時間を圧縮できる。本をたくさん読めるようになる。

「読書が使えない桔梗には、記憶力を使う作業をオススメするわ」

「記憶力を使うだって? 何かを覚えればいいのか?」

「その通り。意識的に暗記をすることが、ワーキングメモリの鍛練になる。できれば授業の内容を覚えるのが一番だけど、ワーキングメモリを鍛えるだけなら漫画の内容を意識して覚えるだけでも効果がある」

 記憶力を使うということが大事である。内容が関係しないとは言い切れないが、意識して内容を覚えればワーキングメモリを鍛えることができる。

 ただし、漫画の場合は注意が必要だ。人間の脳はストーリーは覚えやすくなっている。授業の内容は思い出せないのに、漫画のストーリーがスラスラ喋れるのはこのためだ。

 だから漫画を覚える場合はストーリー以外の何かを覚えた方がいい。キャラクターのプロフィール、道具の名前、著者の来歴、等。できれば日常で役立つことなら尚よい。

「よっしゃあ! 漫画でいいなら、俺でもできる。今日からできる、なんなら今からできる」

「今は雑談部に集中なさい」

 漫画も使い方次第では娯楽以外にも使える。全ては考え方次第で見る世界が変わる。

「今からできる、というなら暗算もワーキングメモリを鍛えてくれる。問題、46+67=、はいくつ?」

「えっ、えーっと、繰り上げるから……答えは103だ」

「不正解……なんで二桁の足し算を間違えるのよ。正解は113よ。繰り上がりを意識したのはいいけど、ちゃんと覚えてなかったら意味ないわよ。ワーキングメモリは短期記憶よ。一つ前の数字を覚えていられるのはワーキングメモリのおかげ。というか、こんな簡単な問題を解けないようじゃ、桔梗のワーキングメモリは相当酷い状況のようね」

「ぐぐぐ、不甲斐ない。俺だってちゃんと時間をかければ、二桁の暗算もできるから。受験に合格した高校生だから……」

 普段から鍛えていないと脳の老化は進行する。桔梗の老化の進行はほとんど進んでいないと思われるが、ワーキングメモリの容量を他のことに使っていたら、簡単な暗算もできなくなる。

 計算は電卓を使えば一瞬で終わるが、文明の利器に頼りすぎていては脳の老化を進めることになる。

「……ガチで凹む。二桁の暗算、俺だってできるはずなのに。これが末路か。……問題、123+456+789=はいくつだ?」

「ふむ、1368ね」

「即答かよ!?」

 暗算には技術もあるので、ワーキングメモリだけでは語れないが、華薔薇が即答できた原因の一端は普段からワーキングメモリを鍛えているおかげだ。

 桔梗のちょっとした反乱は小火の段階で鎮圧された。桔梗が華薔薇に歯向かうには100年早い。

「暗算がダメでも、ワーキングメモリはボードゲームでも鍛えられるわよ。相手の一手先、二手先、三手先を読むには、頭の中でシミュレーションする必要がある。この行為がワーキングメモリを鍛えてくれる」

「へぇ、そうなんだ。じゃあさ、プロの棋士ってワーキングメモリ凄いの?」

「あいにく、私はプロの棋士がワーキングメモリの容量が高いエビデンスに心当たりはない。でも、先読みは確実にワーキングメモリを鍛えてくれる」

 プロ棋士の棋譜を学習する論文はあれど、華薔薇はプロ棋士のワーキングメモリに着目したデータは知らない。残念ながら華薔薇にも知らないことはある。

 華薔薇は心の中のメモ帳にプロ棋士のワーキングメモリに関する情報がないことを記載する。今後、同じ質問で詰まらないようにするために。

「だから桔梗も、将棋、チェス、囲碁、バックギャモン、リバーシ、等をすることね。先読みはと言えば、ボードゲームじゃないけど、麻雀もありよ」

「ふーん、麻雀か。一度友達に誘われたことがあるから、やってみようかな」

「人脈だけなら右に出るものなしね」

 高校生で麻雀に誘われる経験は相当レアだと思われる。華薔薇は桔梗の人脈に関しては認めている。

「麻雀もいいけど料理もいいわよ。ボードゲームの先読みとは違うアプローチでワーキングメモリを鍛えられる。料理は食材の準備や具材のカット、フライパンを温めたり、調味料を用意したり、複数の行程を同時進行する。この複雑なプロセスをこなすにはワーキングメモリを相当酷使する」

「うわっ、そう聞くと料理が途端に難しい作業に思えてくる」

「最初は一つ一つを順番にやっていくけど、慣れた人は同時進行して無駄がない。ワーキングメモリの容量が大きいと複数の作業をしても、どれがどこまで進んでいるか忘れない」

 料理はあれもこれもと行程が多い。時短レシピで簡単に作るのも結構だが、時には本格的に料理をして、美味しい料理を味わいながらワーキングメモリを鍛える日があっていい。

 さらに調理中にレシピを見ないで、覚えた内容だけで料理をすると、より一層ワーキングメモリのトレーニングになる。

「慣れてきたら、複雑な行程が必要な料理や品数を増やしていけば、どんどんワーキングメモリは鍛えられる。健康のためにもなるし、料理は一石二鳥どころか一石三鳥ね」

「り、料理か。俺、包丁を握ったこと、ないんだよな」

「……………………えっ、嘘!? またまた、ご冗談が上手いこと」

 桔梗も高校生。親の手伝いや調理実習もあるので、平均的な高校生は包丁を握る経験は一度や二度はある。華薔薇は率直に信じられなかった。

「いや、ホントだって。野菜の皮剥きはピーラーを使ったし、調理実習の時は同じ班の人が頑張ってたから、包丁握ったことないんだよ」

「それじゃあ、これからに期待ね。何かを始めるのに遅いことない、と言うしね……」

「……そうだな。いつかは挑戦したいと思うよ」

 予想外の言葉によそよそしい空気が流れる。空気を変えるため、華薔薇は殊更大きく声を出す。

「そうそう! 大抵のミスはインプットの時かアウトプットの時に起こる」

「どゆこと?」

「たとえば名前が似ているものを聞き間違えたり、近江と青梅。もしくは音が同じで意味が違うもの、洋食と養殖。インプットする情報のミスね」

 他にも、15時を勘違いして5時だと錯覚したり。入力する内容が間違っていたら、間違った情報が出力される。

「あるあるだな。BとDを聞き間違えて、集合できなかった経験がある」

 インプットのミスは復唱することで防げる。

 正しければ、首肯が帰。返ってくる

 間違っていれば、訂正が返ってくる。

 言われたことを復唱する癖を身につけていれば、ミスを防げる。

「アウトプットのミスは読み間違いね。メモ帳の字が汚くて、読み返した時に月曜日と日曜日を間違えたり、火曜日と木曜日を間違えたり」

「読み間違いも悲惨だな。でも、最近はスマホにメモするから手書きじゃない。字が汚く理由がない」

「なら、安心ね。手書きの場合は焦らないこと。読めない字を書いていたら、メモの意味がない。不安になったら、やっぱり確認すること。約束をすっぽかされるくらいなら、確認されることは苦じゃない」

 ミスを減らすにはやはり注意することが大切だ。そして、注意力をキープするにはワーキングメモリを鍛えることが大切。

「ミスの原因は脳のエラーがほとんど。集中力の低下、ワーキングメモリの低下、脳疲労、脳の老化ね」

「集中力が下がったら難しいことをしない。疲れたら休憩するんだよな」

「そうよ。集中力が低下するとミスする原因よ。リフレッシュは必須よ。それじゃあ、ミスを防ぐためにワーキングメモリを鍛える方法は何があった?」

「ふふん、ちゃんと覚えてるぞ。睡眠だろ、運動だろ、自然に触れ合う、読書、記憶する、ボードゲーム、最後は料理だ」

「素晴らしい、全問正解と言いたいけれど、一つ抜けていたわ」

 華薔薇が雑談したワーキングメモリを鍛える方法は全部で8個。桔梗が答えたのは7個。一つ足りていない。

「えっ、嘘!? 何を忘れてるんだ。教えてくれ、華薔薇」

「うーん、そうね。自分で考えなさい。これも、記憶力を使う一環よ」

「教えてくれてもいいじゃん、このままだとずっとモヤモヤしたままじゃん」

 何でも華薔薇に頼っていては桔梗が成長しない。華薔薇は心を鬼にして(?)桔梗に答えを教えない。

 決して、教えない方が面白いなんて理由ではない。ちゃんと華薔薇も桔梗の成長を願っている。心の奥の奥の方の隅っこの極々狭い領域では。

「うがー、あと一つが気になるぅ」

「ふふっ。無様ね。でも、そのモヤモヤが記憶に刻んでくれるわ」

 悩める桔梗を高みの見物を決め込む華薔薇。

 モヤモヤする男子生徒とスッキリする女子生徒という構図ができ上がった所で本日の雑談部の活動は終了である。

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