第10話 あれもこれとしたいは害悪なので一点集中をオススメします
「今回のお悩みはペンネーム紫陽花さんからです。『私にはたくさんの趣味があります。あれもこれもしたいけど、時間が全然足りません。もしよろしければ時間の使い方を教えて下さい』とのこと。多趣味な人からの丁寧な相談です」
ある日の放課後の雑談部。
性懲りもなく桔梗は雑談部に悩み相談を持ち込む。
「今回は悩み相談の体裁を保っているわね。相談者はかなり礼儀正しいわ。ちゃんと分を弁えているのは好感が持てる」
普段なら桔梗が持ち込んだ悩み相談を一刀両断するが、筋を通した内容に華薔薇も相談に乗り気になっている。あくまで行うのは雑談だ。
「ただ残念なことに時間を有効活用しても根本的な解決にはならないでしょうね」
「というと?」
「一番手っ取り早いのは、やめること」
多趣味を否定するつもりはないが、時間が足らないのなら優先順位を決めて、順位の低いことをやらない。時間を割くのなら、一番楽しくて面白くて幸せになれるものに心血を注ぐべきだ。
一日24時間という絶対的な法則は変えられない。
桔梗も華薔薇も紫陽花も一日を25時間にすることはできない。
「でも、今回の悩み相談からの趣旨とは外れてるから、やめるという選択肢は外しましょう」
紫陽花の相談は何かを切り捨てることではない。全てを上手くこなす方法が知りたいのだ。
「やめるのが無理なら、別にメインディッシュを用意してるのか?」
「用意なんてしてないわよ。今から雑談しながら詰めていくのよ」
華薔薇も所詮は高校生。知識は有限だし、専門家に比べたら薄っぺらい。悩み相談の的確な回答をすぐに用意はできない。雑談しながら必要そうな内容を状況に応じてピックアップしていく。
大元は決まっていても細かい内容は決まっていないので、横道にもそれてしまう。雑談部の活動は雑談なので、悩み相談の解決に重きを置いていない。
究極的に華薔薇は見ず知らずの誰かの悩みが解決しようが未解決のままでも気にしない。興味もなければ関係もない。
華薔薇が桔梗が持ち込む悩み相談を答えてるように見えるのは勘違い。雑談のネタとして有効活用しているに過ぎない。
あくまで華薔薇がしているのは雑談だ。桔梗がどのような解釈をするかは本人の自由だ。
「さて、あれもこれもしたいということだから集中できてないのでしょうね。作業中に気が散っているから満足できていない。もっと時間があればと願ってしまう」
「集中と満足にどんな関係があるんだよ。趣味をやってやりゃ幸せだろ」
「残念なことに集中できてないと、満足度は下がるのよ。桔梗もゲームをしてるときに電話なりSNSの通知がきたら嫌でしょ」
集中している際に余計なことに気をとられると、集中力が途切れてしまう。一度途切れた集中力は簡単には戻らない。
「言いたいことはわかる。いい所で電話が鳴ってクエストクリアできなかったときは、かなり凹んだ。今思い出してもムカつくな」
「そう、その気が散る要因は外部からだけじゃない。自分の心からも沸き上がるのよ」
紫陽花は多趣味らしい。それならひとつの作業をしているときに、別の趣味が気になることもある。すると目の前の作業に集中できなくなる。集中ができないと効率は落ちる。作業時間が延びるか、途中で諦めるとになる。これが時間が足りない正体だ。
「典型的なマルチタスク。これが紫陽花が陥っている愚かさの正体」
「えっ? マルチタスクって複数のことを同時に捌く超絶能力じゃないのか?」
「人類には申し訳ないけどマルチタスクが得意な人はほとんど存在しない。ユタ大学の研究だと全人口の2%だそうよ。だからマルチタスクが得意という人に会ったら十中八九嘘ね」
人間の脳はたくさんのことを同時にできないため、あれをしながらこれもやるというのはできない。あれもこれもしたいけど時間が足りない紫陽花に少なくともマルチタスクの才能はない。
「だから、最適解はひとつのことにとことん集中する、これ意外にない」
「ひとつに、集中?」
「マルチタスクという同時作業は人間には不可能なのよ。実際に脳内では高速で注意を切り替えているだけ。ひとつひとつの切り替え時間は刹那に等しいから、マルチタスクができていると錯覚している」
注意の矛先を変えることをタスクスイッチングという。切り替える度に集中力は散ってしまうので、タスクスイッチングを繰り返せば繰り返すほどに集中力は落ちていく。そうなれば能率が落ちるのも仕方ない。
だからこそひとつにとことん集中する必要がある。タスクスイッチングを減らせば、集中力が散ることもない。
「華薔薇が言うならマルチタスクがないんだろう。それと紫陽花の相談とどう関係が?」
「人間は目の前のものから注意をそらすことができない。紫陽花の部屋がどうなっているか知らないけど、趣味毎に部屋が別れているなんてお金持ちではないでしょう。つまり部屋にたくさんの趣味のものが並べられている」
日輪高校はお金持ちが令息令嬢が通う学校とは違って、極々庶民が通う学校だ。紫陽花が特別お金持ちの家庭の可能性は低い。なら自宅の部屋は自室くらいしかない。
「人間はね、何かに集中していても、目の前に他のものがあると注意がそれるのよ。この注意がそれるのもマルチタスクの原因、脳内でタスクスイッチングが起こっている」
何もない部屋とごちゃごちゃした部屋では、圧倒的に前者の方が集中しやすい。物があるというだけで人間の集中力は分散されてしまう。
「桔梗だってゲームをしているときに、目の前を裸の美女が横切ってもゲームに集中できる自信はないでしょ」
「そりょもう、ガン見だよ。ゲームと美女の裸体なら、美女に決まってらぁ。考えるまでもない。美女を見逃したら一生の損失だけどよ、ゲームの損失は十分取り返せる。舐めんなよ」
自信満々な返事に華薔薇は別の問いかけににすべきだと反省する。わかりやすいのことは大事だが、鬱陶しいのを回避することはもっと大事だ。
「桔梗が変態なのはともかく、自分の好きなものや大事なものが目の前にあったら欲が出てきて当然」
勉強しようと机に向かっても、机の上にスマホがあれば人は容易く流される。いつの間にか時間が過ぎ、勉強は一切進まない。学生のよくある失敗だ。
「さらりと俺を変態にするのやめてくんない。俺だって傷つくから」
「桔梗が変態な言動をしなければいいのよ。私は事実を元に断定しているの」
桔梗は変態の誤解を解きたいが、桔梗が自滅して話題を提供している場面もある。元は華薔薇の誘導とはいえ、桔梗の迂闊な言動も改める必要がある。話題を提供し続ける限り、華薔薇のいじりはなくならない。
「セクハラ桔梗は横に置いて」
「セクハラちゃうねん。俺はただ、華薔薇に乗っかただけだ。無実を主張する」
桔梗の意見は当然棄却される。
「紫陽花がまず始めにすることは整理。少なくとも趣味に没頭している間に他の趣味の道具なり作品なりを見えなくすること。これでタスクスイッチングが防げる」
「おお、華薔薇がまともに悩み相談に答えてる」
華薔薇は悩み相談をなんだかんだで雑談はするが、悩み相談を主軸に置くことはなかった。初めて悩み相談に真面目に取り組む姿を見て桔梗は感動した。
「はぁ、これもただの雑談よ。悩み相談なんて一回も受けたことないわよ」
「照れ隠し?」
「違うわ。紫陽花が丁寧だったから、いつもとは違う雑談アプローチをしているだけ」
華薔薇に悩みを解決する心算はない。紫陽花の第一印象がよかったから、雑談にも表れている。好きな人は丁寧に、嫌いな人は粗雑に対応するのは特段おかしくない。雑談部は一律の接客を求められるサービス業とは違う。
所詮は部活動。好きな時間に雑談し、好きな相手と雑談し、好きな話し方で雑談する。
華薔薇が丁寧に雑談するのも華薔薇の自由だ。
「相手によって態度を変えるのは普通でしょ」
目上の人には丁寧に話し、同級生や後輩にはため口を使う。当たり前に使い分けていることを華薔薇もやっている。使い分けは誰のものでもない、誰が使おうと咎められはしない。
「うーん、言いたいことはわかる。でも納得できん」
「それこそ知らないわ。桔梗が納得するかしないかは私には路傍の石と同じ」
桔梗の思想が華薔薇に影響を与えることはない。
「さて、話を戻して。目の前の環境を整えたら次にすべきは周囲の環境も整理しないといけない」
「……はぁ、何事もなく話が戻った。……はいはい、周囲の環境ね。ん? 周囲の環境ってどれくらいだ。仮に自分の部屋に居るとして、隣の部屋か家全部か、どこまでが周囲の環境なんだ」
「全てよ。集中を妨げる全てが、周囲の環境よ」
「もいぃぃぃっ!?」
壮大なスケールにすっとんきょうな声が出てしまった桔梗。普段からちゃらんぽらんなのに、声まで忌まわしいと美点がひとつもない。
「隣の部屋の話し声、家の前を通る車の騒音、ビルの向こうで打ち上がる花火、体温を上げ下げする太陽、通知を知らせるスマホ。これら全てが集中を妨げる」
「いやいや太陽とかどうやって対処すんの?」
「文明の利器に頼りなさい。騒音は耳栓やノイズキャンセリングのイヤホンで、気温はエアコンで、スマホの通知はオフにする。これだけで集中力の天敵を殺せる」
実際には別の邪魔物がいる。対策をどんどん増やしていけば、いずれは完璧に集中できる空間が創成される。
「邪魔物がいなくなった部屋ならいくらでも集中できる。時間を忘れて趣味に没頭するでしょう」
気を散らさないことが集中において一番大事だ。
「いいこと、三つの作業を同時にこなして2時間かかるなら、ひとつひとつきっちり区切って作業したら1時間もかからずに終えることも可能よ」
「またまたぁ、時間が半分なんて盛りすぎだよ。そんなに早く終わるなら誰も残業する必要なくなるぞ」
世の中のサラリーマンには残業してなんぼという考えの持ち主が一定数いる。華薔薇にはただの無能自慢にしか聞こえない。
作業はサクッと終わらせて、余った時間で別の作業をしたり、余暇を楽しむべきだ。わざわざ作業時間を引き伸ばす意味はない。
「疑っているようだけど、実際終わるのよ。マルチタスクはそれくらい生産性を落とす行為なの。全人類の一日の時間は24時間だけど、シングルタスクの人はマルチタスクの人に比べて2時間3時間以上の余裕がある。人によってはそれ以上にもなりえる」
人の何倍もの作業を平然とこなす人がいる。それは単純に慣れの部分もあるが、大部分は脇目も振らず作業に没頭している結果だ。その人には一日が25時間にも26時間にも感じるだろう。
「そんなに変わるとはやっぱり思えない」
桔梗の疑いの眼差しはまだ晴れない。同じ人間である以上、そこまで大差がつくとは思えない。
「私が口で言っても理解できないなら、自分で試すしかないわよ。少なくとも私は桔梗より、一日を充足して過ごしている。時間が足りなくなる感覚は久しく感じていない」
華薔薇は桔梗より、勉強しているし、運動しているし、雑談部のネタも考えている。趣味の時間も確保していれば、ボーッとする時間もある。毎日充実した生活をしている。
「言えることはひとつだけ、ひとつのことに集中しなさい」
人生変わるわよ、と華薔薇は確信を持って続ける。
「そこまで言われちゃしょうがない。俺だってひとつのことにとことん集中してやる。で、何したらいいの?」
意気込みは立派でも、具体策が浮かんでいないのが桔梗らしい。わからないことをわからないままにせず、素直に聞けるのは素晴らしい。
「それなら、マルチタスクをしていないかのチェックをしないとね。自分がどの程度マルチタスクをしているか基準がないと何を改善すべきかもわからないしね」
「いつでもかかってこい。準備オッケーだ」
ファイティングポーズでの構えで準備万端を意思表示する。気を張りすぎてプツンと切れなければいいのだが。
「紹介されたばかりの人の名前が思い出せないことはない?」
「それはない。名前はちゃんと覚える」
「それは重畳」
きちんと向き合っていれば相手の名前を忘れることはない。他のことに気が向いていたら、ついさっき紹介された人の名前も忘れる。
「グループで会話中にスマホでメッセージを返したりしない?」
「うっ! 時々します」
「ダメね。後に何の話をしてたの、と聞き返すのでしょ。話はちゃんと聞かないとダメよ」
話を聞かない相手に好感は持てない。同じ話を繰り返すのは二度手間になる。時間も好感度も失ってしまう。
「ながらスマホをしたり?」
「やっちゃいます」
「即刻断つべきね」
ながらスマホは典型的なマルチタスクだ。歩きながらのスマホは単純に危険である。
「勉強しようと思っていたのに、つい他のことをしていたり?」
「ぐぬぬ、教科書がテレビ画面に、シャーペンがコントローラーにいつの間にか変わっています」
「はぁ、呆れてものも言えないわ」
勉強に集中できていないから、つい他のことに気を取られてしまう。見える場所に誘惑を置くのは厳禁。奥に収納して見えなくするのがベストだ。
「約束の時間や場所を間違えることはある?」
「あるような……ないような……あんまり覚えてないや」
約束した際に気が散っていて正確に覚えてないと約束が守れない。迷惑がかかるので不用意な約束はしてはならない。
「授業中ノートを取る振りをしながら別のことをしてない?」
「げっ!」
「授業に集中しなさい。桔梗には授業が必要でしょ」
たった一言で桔梗が授業に集中していないことがわかる。華薔薇は授業を聞かなくても内容を理解しているので、授業中は別のことをしている。桔梗の場合は授業を理解してないので、後から苦労する羽目になる。授業を真面目に聞いていれば、テスト前に狼狽することもない。テストは授業の復習だ。授業を聞いていれば合格できるようになっている。
「エレベーターで目的地以外の階で降りたことはある?」
「それはないと思う。なんで降りるの?」
「スマホに気を取られて、開いたドアに反応して降りちゃう人がいるのよ」
階数表示をチェックしていれば起こらない。スマホや会話に夢中で表示を見落としてしまううっかりさんも世の中には存在する。
「一度読んだ文章が全然思い出せなくて、読み返したり?」
「…………何度もあります」
「集中して読み込んだら、概ね把握できる。読み返す時間は無駄ね」
ストーリー形式だと人は覚えやすい。無機質な文章でもなければ、一度で流れを覚えるのは造作もない。
「桔梗は私と話しているときに、別のことに注意が向くことはある?」
「それはほとんどない。こんな強烈な奴から目は離せない」
「私は至って一般人よ、失礼ね」
どこが一般人だよ、というツッコミを飲み込む桔梗。藪をつついて蛇を出す趣味はない。
目の前の相手に意識が向いていないなら、気が散っている証拠。そもそも別のことを考えているのは失礼だ。
「食事中にスマホがテーブルの上にあったり、スマホを触ったりする?」
「箸とスマホの二刀流だぜ」
「変な二刀流を覚える前に食事に集中しなさい」
食事とスマホのマルチタスクは食事の満足度を下げてしまう。満足度が下がれば、間食をしやすくなる。肥満に繋がるのでながら食べはせず、食事に集中して向き合う必要がある。
「授業中だろうとメッセージがきたら、すぐに返信しないと相手に悪い気がする?」
「できる限り返信は早い方がいいだろ」
「授業に集中しなさい。送信主が学生なら相手も授業の真っ最中でしょ」
返信が少し遅れたくらいで問題は起こらない。それなら授業を真面目に受けるべきだ。後から授業内容のおさらいをして、時間を無駄にしないように。
「重要なメモを適当な紙に書いて、そのメモが見当たらなくなることはないかしら?」
「ふっふっふっ、俺はメモを取らないから、メモをなくさない!」
「メモ以前の問題っ!」
メモをしたはいいが、整理する前に別のことに気を取られてメモを紛失する。メモを取ったら、清書や保管の必要がある。さっさと作業を終わらせるか、後から見つけやすい場所に仕分けて、メモを探す事態は回避する。
「一日を振り返って満足できなかった、授業がわからなかったと感じることはある?」
「しょっちゅうだよ、そんなもん」
「ひとつひとつの出来事に集中できてないから、満足いかないのよ」
中途半端にやるからモヤモヤする。何事も全身全霊で取り組めば、たとえ失敗しても満足はできる。結果も大事だが、過程も大事だ。
「テレビや新聞の情報が気になることはないかしら?」
「たまに、あるかな」
「どうせ何もできないんだから、気にするだけ無駄よ」
テレビのニュース、新聞の記事、SNSの発信、どれも些末な情報だ。無視しても生活になんら影響は与えない。そもそも気に病む必要がない。最初からシャットアウトすればいい。
もし話についていけないなら、その時に教えてもらえばいい。わざわざ自分から探すこともない。
「桔梗は『集中力がない』や『別のことをしている』と指摘されたりする?」
「いや、あんまりないと思う。少なくとも誰かに言われた記憶はない」
「雑談部は雑談できるようにしてるからね」
雑談部の部室は殺風景だ。教室にあるべきものしか置いていない。違和感がなければ脳も反応せず、慣れ親しんだ空間では気が散ることはない。
「電話で話している最中に、他のことをしたりしてない?」
「あー、軽くゲームしたり、ネットを見たりすることはあるかな」
「人の話はひたむきに聞きなさい」
ちょっとくらいなら大丈夫、と思うかもしれないが、そのちょっとは全然ちょっとではない。既にマルチタスクで生産性はガタ落ちしている。
「とまあ、いくらか質問したけど、桔梗も当てはまる項目が多かったようね。かなりのマルチタスクをしていては、シングルタスクの道のりは厳しそう」
「俺にもシングルタスクを教えてくれ。時間も満足ももっと欲しいっ!」
「ひとつひとつ潰していくしかない。全部を一辺に片付けるのは不可能。地道にコツコツできることから、マルチタスクをやめていくしか方法はない」
千里の道も一歩から。
シングルタスクに限らず、スキルの習得の一番の近道は真面目にコツコツだ。特殊な訓練で一足飛びに越えることはできない。できるとするなら、それは生まれつきの天才だけだ。
凡人は真面目にコツコツ積み重ねるしかない。積み重ねていれば、天才を越えることも可能だ。大抵の天才は生まれ持った才能しか活かせない。積み重ねるということを知らないから。
「凡人だから諦める必要はない。天才に勝つ方法は無数に存在するのだから」
「ひゅー、華薔薇は言うことが違うねぇ」
少なくとも華薔薇宴は自身を天才だと思ったことはない。故に小さなことをコツコツ積み重ねることしかできない。いつか本物の天才を越えるために。
「とりあえず、できることから実践する。マルチタスクを続けているとストレスホルモンのコルチゾールが分泌されるから情報の処理能力も落ちちゃうし、今すぐマルチタスクはやめなさい」
「はーい。俺は今、雑談に集中するぜ。……あっ、ちょっといいアイデアが思い付いたんだけと、これってどうしたらいいの?」
言ったそばから桔梗のシングルタスクの道のみは挫折した。一回二回試して身に付くのなら誰も苦労しない。最初は四苦八苦し、試行錯誤の先に没頭が見えてくる。
「作業中に何か思い付いたときはメモするのが一番よ。パーキングロット(駐車場)という考えがあるわ。本題とは関係のないアイデアはメモを残す。あらかじめ決めておくと後から探しやすい」
「なるほどなるほど、さっきのアイデアをメモするからちょっと待ってて」
桔梗はポケットからスマホを取り出してメモを残す。
「……」
「よし、終わった。なんだよ、その目は?」
華薔薇は無感情の視線で桔梗を貫く。
「……ふぅ、減点ね」
「えーっ! なんかよくわからんけど、減点された。理不尽だろ」
特に理由の説明もなく華薔薇は雑談を続ける。
「アイデアをメモに残す程度なら集中が途切れることもない。メモに残せば頭もすっきりするから一石二鳥ね。記憶だと後から思い出すのも苦労するし、正確に思い出せる保証もない」
メモ様様ね、と利点を語る。
メモひとつで集中力が維持できてアイデアも忘れないなら安いものだ。机の端にでも置いておけば作業の邪魔にもならない。
「やるべきとこはひとつ、目の前の作業に集中する、これだけ。勉強してるときは勉強以外に目を向けない。ゲームをしているときはゲームに没頭する。誰かと会話しているなら相手のことしか考えない。リラックスしているときはとことんリラックスする」
ひとつのことに集中する。これがシングルタスクの基本にして原点。
「とは言え、意思だけで実行できるなら、誰も彼もがスーパースターよ。だからこそ環境は整えなくちゃいけない。特に自室ともなれば誘惑の洪水でしょう」
スマホ、テレビ、パソコンのデジタル機器。漫画、ゲームの娯楽。おかし、スイーツの嗜好品。夢の世界へ現実逃避させてくれるベッド。
自室にわざわざ嫌いなものを置く稀有な人はいない。つまり自室というのは誘惑だらけの部屋なのだ。高学歴の人が自室ではなくリビングや図書館で勉強しているのは利に叶っている。誘惑がなければ勉強も弾むだろう。
「いかに誘惑から離れた環境を整えるかが成功の分岐点ね」
「嫌だ、捨てたくない。俺はゲームや漫画に囲まれて過ごすんだ」
誘惑の源がないのが一番だが、妥協として奥に収納してしまうのがいい。一手間かかるだけで、手を伸ばしづらくなる。逆に手間がかからないと簡単に誘惑に負ける。
たとえゲームが見えていても、鍵付きのショーケースに入っていれば手間がかかる。少しは誘惑から遠ざけられる。
「徐々に減らしていくより、思いきって一気に減らした方が苦痛も少ない。成功したきゃ思いきりのよさも大事よ」
「そう言われたら、やらなくちゃいけないじゃん」
「やりたくないなら、凡人として人生に不満を抱えたまま生きればいいじゃない。ただ成功してお金も地位も権力も家族も手に入れたいなら、頑張ればいいのよ。私が桔梗に強制するとはないのだから」
何も努力せずに成功する人はいる。人類でも一握りの中の一握りの絶滅危惧種並みに珍しい。
世の中で成功している人は大抵何らかの努力を続けた人だ。努力を続けていれば成功する確率が上がる。
「俺だって何か大きなことしたい。だから、やってやるぜ、シングルタスク」
最初から絶対に成功しないと決めつけて努力しない人もいる。どうやら桔梗は諦念を受け入れる人種ではないようだ。
「俺は女の子にモテて、お金も地位もビッグな豪邸も手に入れる。そのためならなんだってやるぞ!」
「とても素晴らしい動機ね」
一見すると不純な動機に思える。しかし人間の欲求の大半は桔梗と似たようなもの。誰かに認められたい。自分の能力を証明したい。お金が欲しい。異性にモテたい。聖人君子でもなければ多かれ少なかれ誰でも所持している。それは華薔薇も同じだ。
下手に隠して聖人ぶるより、よっぽど好感が持てる。
「今日から俺はゲーム中はとことんゲームに集中するぜ」
「ふふっ、桔梗はやっぱり桔梗ね」
人が変われることは疑いようがない。でも少しずつ積み重ねた結果で変化する。桔梗が本当に変化するのはいつになることやら。
「でもゲームをした後はちゃんと勉強するぞ。ホントだよ。オレウソツカナイ」
「説得力のない言葉ね。おまけにひとつアドバイスしましょう」
情けない桔梗を憐れんだのか、華薔薇は当初の予定になかった雑談を追加する。
「楽しい時間や自由時間の後に勉強の予定を入れるのはおすすめしない」
オハイオ州立大学の研究。実験の参加者には1時間の自由時間が与えられる。自由時間の前に半数は1時間後に友達が遊びに来ると伝え、もう半数には1時間後には特に予定はないと伝えた。
実際に1時間過ごしてもらい、1時間がどう感じたか聞き取りしたら、友達が遊びに来ると伝えられた参加者は40分くらいしか時間がなかったと解答した。もう半数は50分くらいだったと解答した。
ほとんどの参加者は主観の時間を短く見積もる傾向があり、さらに予定があるとその時間は余計短くなる。
実際には1時間でも主観では40分なら、40分の満足しか得られない。20分を損しているのと同じだ。
別の実験もしており、1時間後に予定があるグループと予定のないグループにわけて、30分で2.5ドルもらえる雑用と45分で5ドルもらえる雑用のどちらかを選ぶように指示した。
結果、予定のあるグループは30分で2.5ドルの雑用を選ぶ傾向にあった。損得で考えると45分で5ドルの方がお得なのに、実際に選ぶ人は少なかった。
予定があるだけで合理的な判断が下せなくなった。
また、別な研究では予定があると生産性が低くなることが確認されている。
「後に予定があるだけで、時間の余裕がなくなり、合理的な判断ができず、処理能力も落ちてしまう。つまり、やることはさっさとやりなさい」
「うぅ、嫌だけど。先に勉強します」
「ゲームをご褒美だと思えば、勉強も苦じゃないでしょ」
ご褒美があればドーパミンが分泌されので、やる気は上がり、先延ばしが減り、喜びが増え、記憶力が上がる。やる気ホルモンと呼ばれるのは伊達ではない。
「桔梗が勉強する気になったところで今日の雑談部は終わりよ」
「あえーっ! もっと雑談しようよ」
雑誌をして勉強を少しでも送らせようとする。
「すぐに帰って1分1秒でも長く勉強しなさい」
桔梗の幼稚な試みは容易く打ち砕かれる。
「とほほ、だぜ。仕方ないから今日は帰るよ。紫陽花にはまた明日話すよ。バイバイ華薔薇」
「さようなら、桔梗」
本日も無事に雑談部の活動は終了した。
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