辺獄を覗いたその日のこと

酸味

第1話

 絵画展へ行く。もともと絵と言うものに食指の動かなかった私には酷く退屈のように思われるのです。幼稚園、それよりも前からの間柄。それも実際に顔を合わせた時間を計算すると父母よりも長くを共にした友人に連れられなければ、進んで絵画展に行くだなんていう心持ちはきっと私には縁遠いものでした。

 私の父は有名な画家です。血のつながった父ではなかったのですが彼は私に良くしてくれました。決して私を邪険に扱うことなく、血が繋がっていない代わりに彼の技巧を私に託そうとしていたのか美術について、毎日彼は教えてくれました。その中で私はなんどもいろいろな美術館に足を運んだことがあるのです。時折、国外の大きな美術館に行くこともありました。けれども結局今も、あまり興味は湧かないのです。

 それでも運命的な事に今日でこういった場所に来るのはちょうど百度目でした。とても長い間を彼とは過ごしているから、なんだか特別なように思えてしまいます。とはいえこの友人が美術を嗜む高尚な気質でないことを知っていました。現代に溢れたゲームと言った少し俗な趣味を持っているような方だと知っていました。だからこそ、余計に美術館へ連れられている今の状況がまるで分からないのです。

 丘の上、連れられた先には中途半端にさびれた、田舎の町とも郊外の町とも言い難い雰囲気の緑が多い町がありました。夏休み中だというのに町中は閑散としており。思わず、こんな場所に美術館があるのですか、と問いかけました。狭い歩道にひび割れたアスファルトの上を歩きながら声をかけました。

 暑い夏の日、そこらに生えたあまり管理のなされた様子のない街路樹に張り付いた蝉たちの慟哭が、私の心を荒んでいたのかもしれません。特に深い意味のない言葉に、彼は少しニガウリでも食べたように顔をしかめておりました。そうしてそのまま私に何か答えることもなく、ずんずんとそのまま進んで行くのです。彼の心が荒んでいたのか、それとも私がほんの少し馬鹿なことを思い出していたのがバレてしまったのか、それまでよりも足早に彼は進んでいってしまいます。なんだか、子守をしているような気分でもありました。それがまた彼に伝わってしまったのか、幾ら言葉を投げても振り返ることも口を開くことも、微塵も反応せずに歩いて行くのです。

 美術館、というには少しこぢんまりとした公共施設らしき建物に着いたのはそれから数十分ほど。途中、スマホを凝視しながら町中を右往左往としているさまに思わず口が滑ってしまったこともありました。少しの驚きと微妙な時間で口元に手をやった私を、悍ましい化物を見るような眼で見ていたのが酷く印象に残りました。これでも女の子なのですよ、と嘯いてみるとついには彼の顔から表情が抜け落ちていて感情が降り切れると表情がなくなると創作物で見たことはあっても、まさか本当に目撃するとは思わず、いつのまにか写真を撮ってしまったのです。

 それから、たどり着いた美術館の窓に映る私の顔に張り付いた、ニンマリとした笑みを見て思わず肩が震えてしまいました。ほんの偶然、たった一瞬、それでも体が震えたのです。ああ、これは異形に違いない。と、ぽつりとこぼした言葉に、無表情を貫いていた彼から小さな舌打ちのようなものが聞こえました。

 この美術館で開かれていたのは地獄展。そこは火を纏い苦しむ男女が溢れていて、青や赤の鬼が彼らを追い立てていました。あるいは血の池や、舌を抜かれる者の姿や、餓鬼が石を崩そうとしている姿がありました。

 すこし大仰なくらいに暗闇の中、おしゃれに照らされてまったくそれが雰囲気にあわず、それ以上に、この場所に連れてきた彼がこれを意図して連れてきたのかと彼の後ろ姿を強く睨みました。これが、人生で初めてのデェトだというのに、彼は私を導くどころか厭味の如く地獄絵図の罪人を指で指しながら、どう思う、とまるで訳の分からないことを問いかけてくるのです。それでも私は彼のエスコートとは思えない行動に、石を崩すことしか許されない鬼たちはさぞ退屈な事でしょう、と答えました。その時の彼の表情と言ったらおかしくておかしくて、仕方がなかったのです。それからもう一度、一体どちらが在任なのでしょうか、と投げかけ可愛らしく小首を傾げてみたのです。彼は悍ましいものでも見たのか、唾をごくりと飲んで口を噤みました。

 ようやく時間をかけて様々な地獄絵図を眺め切ったころ、彼は大きくため息を吐いて、突拍子もなく、なぜわたくしがあなたをここに連れてきたのか分かりますか、と一挙手一投足に演技をしているような違和感のある身振りと共に問いかけました。下手な役者が役に身体を乗っ取られているような、そんな感覚を抱きました。そんな彼を見ていると、偶然にもこの場所がこの美術館のほとんどの地獄絵図に眺められる位置に立っているのだと言う事に気付いたのです。

 昔気質な人なのだろうと思いました。私はそれほど頭が良い訳ではありませんが、しかし地獄絵図を見せられて、なにをしようとしているかは分かったのです。今や世は閻魔の裁きでなく法の裁きを受けるというのに、彼は消え去った地獄世界を見せつけて、私を説き伏せようとしているのですから、それがあまりに古風でおかしく思えるのです。そんな軽薄を胸に抱きながらも、そのくせ私の耳に苦しみ嘆く咎人質の怨嗟が入ってくるように思えて、絵画の中から獄卒たちが私のことを追いかけてくるような気配を抱いてならなかったのです。

 私の様子に呆れかえったような心底軽蔑したような表情で、あまり見たことのない私たちの地元の地方紙を彼はこちらへ投げつけました。こんなところまでこんなものを持ってきたのでしょうか、と彼の苦労を想いながら眺めた新聞にはでかでかと載る女子高生自殺の文字。やはり彼は大時代な人間なのだと確信したのです。

 ――お前が首班となって彼女を虐めていたのを俺は知っている。

 異様な角度に口角は上がり、瑞々しい赤い唇が大きく弧を描いている。その悍ましい表情が展示品を覆う半透明のアクリル板に反射して、やはりそれがとても人間のようには思えなくて不気味さを抱いてしまう。けれど、地獄の姿を映した絵が満ちたこの場所では、それにあまり違和感を抱けないのです。妖怪だとか餓鬼だとか、とかく穏やかな人間世界を生きる生物でなく畜生道や地獄道から這い上がった咎人と呼ぶことが、よほど正しく思える醜悪などという次元でない荒々しい汚さがあったのです。

 私の瞳を突き抜いて脳髄までもを覗き込もうとする彼の視線にはどこまでも静けさがありました。仁義がその顔にはあって、不快気に顰められた眉や瞳には確固たる信念の内に秘められた清貧の美しさが見えていたのです。まるで正反対の彼の様子が、どうにもおかしかったのです。

 ――どうして私はいけないのでしょうか。まだ私が直接手を下したことだってありません。私は言葉を投げ掛けただけ、昔私とあなたが交わしていたような馬鹿馬鹿しい罵り合いをしていただけ。友人と遊びをしていただけ。貴方が一番知っているでしょう、私はまだ悪いことはしてないのです。慎ましくはありません。それでも何か法に触れることをした覚えはありません。脅したことも暴言を投げ掛けたことも、物を盗んだことも、殴ったことも、けがをさせた事だってありません。私を罰してはいけません。十七年と八カ月十二日と六時間近くを生きて、人から恨まれる事なんてしていないのです。彼女の残した手紙だって、私と彼女のじゃれ合いの内ではありませんか。私は悪くありません。何も悪いことなどしていないのですから。

 ぺらぺらと動く口に再び驚かされました。言い訳めいた狂人のような言葉がとめどなく、飛び出して行くうちに彼の顔はどんどんと険しくなって行くのです。それこそちょうど背後におわす閻魔大王の凄まじい形相に追随するほどの気迫がありました。あるいは彼に閻魔が乗り移ったのかもしれないとさえ思いました。すると気色悪く弧を作っていた口が徐々に大きく開き始めたのです。鮮やかな紅色の唇の間からは、激しく流暢に動く舌が見え隠れしていました。吸血鬼とか、口裂け女とか、そういう姿がアクリル板に映っていたのです。頬は赤く染まり、恍惚と陶酔していることに気付きました。

 その口の中に、今にも手に持つ刀を振り上げようとしている小さな獄卒の姿を見たのは幻視であったのか分かりませんでした。ただわかることは、それでも仏僧の如くこちらを容認するような姿勢をとっていた彼が私の言葉を奪ったのです。彼が小さくつぶやいた、快楽狂いか、と言う台詞が私の行動の全てをとどめたのです。

 私は硬直していました。同時に私は酷く納得したのです。

 手足は震え、彼が今からしようとしていることを悟って。妨害しようと足掻く手足や体の全身は、震える状況では真面に妨害することが出来ない。

 ――私は貴方に何もしていないじゃない。どうして私の楽しみを奪うの。

 もう一度口は動いていたのです。


 それからは詳しく覚えていない。気付けば無機質な白い、つまらない狭い薬品の匂いの染みついた懐かしい、父が用意してくれた部屋に押し込められていました。周りにはデッサンの道具が満ち満ちていて、トルソーや酒瓶がガラス棚の中にしまわれておりました。それまで何かこの部屋に酷く怯えていたような気もしましたが、なにかに身体を乗っ取られていたようにも思えましたが、この退屈な部屋がなんだか落ち着きそんな思いも忘れてしまうのです。

 私はまた、快楽と言うものに恐ろしさを抱くようになりました。鏡に写った私の笑みは、よく見知ったとても愛らしいものでした。そうして今日も、絵を描きます。

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