結局世界は

尾八原ジュージ

結局世界は

 初めてみやびに出会ったときのことを、時雄はまだ覚えている。

 時雄はそのとき、母と一緒に当時住んでいた団地の階段を上っていた。紺色の帽子をかぶって、手に四角い布のカバンを提げていた。通っていた幼稚園の帰りだったのだ。みやびはその階段の途中、踊り場で膝を抱えて座っていた。ぺったんこになった赤いランドセルを背負っていた。ふたりの気配に気づいて顔を上げた彼女の顔は、左頬が赤く腫れていた。

「えっ、ねぇちょっと、だいじょうぶ?」

 母が戸惑ったような声を出すと、みやびは――当時の時雄はまだその名前を知らなかったが――こちらを見てニッと笑った。前歯が二本抜けていた。その顔は思いがけず明るく、子供向け絵本の挿絵みたいに屈託がなかった。茫然としている親子の横を、少女は鼠のように走り抜けた。

 時雄にとって、これが一番古いみやびの記憶である。


 その後まもなく、時雄たち一家は団地を出て、ほど近い住宅地の中の一軒家に転居した。それでも母親たちのネットワークを使って、みやびの近況は度々耳に届いた。

 恵まれた家庭環境の子ではなかった。自分の子供を顔が腫れ上がるまで殴る親がいるということを、時雄はみやびを通して知った。もしも自分が同じような怪我をしたら、母も父も驚いて病院に連れていくことだろう。でも、みやびの両親はそうではないのだ。そのことが時雄には恐ろしかった。みやび本人すらもその恐怖の対象だった。彼女の明るい笑顔は、時雄にとっては理解不能なものだった。

 誰であれ異質なものは恐ろしいと見えて、時を経て時雄が入学した小学校でも、三学年上のみやびは遠巻きにされていた。でこぼこの顔で、歯の抜けた口で、瞼の腫れあがった目でニコニコ笑っているみやびは、教室の中でもやはり異質だったのだ。ひとつ怪我が治るとまた次の怪我を作ってくる。それらを彼女はすべて「転んだ」とか「階段から滑って落ちた」とかいう、どう見ても明らかな嘘で隠そうとした。

 周囲の噂から察する限り、教師が何度も家庭訪問をしていたらしい。時には行政の介入もあったように思われる。それでも彼女の保護には至らず、相変わらずみやびは家族と暮らし、あちこちに怪我をしながらも明るい表情で登校した。

 学校もまた安息の場ではなく、時雄は焼却炉の中から汚れた上履きを取り出すみやびの姿を見たことがある。きっと彼女を恐がっている誰かがやったのだ、と彼は思った。

 それでもみやびは笑っていた。


 時雄が中学一年生の秋、彼を取り囲む環境が一変した。彼にとって、それは青天の霹靂そのものだった。

 平穏そのものだと思っていた生活は、父の不倫相手が時雄の家に押しかけてきた瞬間にそのメッキをいきなり剝がされた。玄関で喚き散らす女の声を聞きながら、時雄は隠されていた汚物が突然臭い汁をまき散らしながら飛び出してきたのを見ているように思った。

 父の不倫相手はみやびの母だった。

 気が付くと時雄は家を飛び出していた。行くあてのない彼の足は、いつしかかつて暮らした団地に向かっていた。

 気味が悪いほど赤い夕焼けが空を染めていた。団地は暮らしていた当時よりも格段に古びて黒ずんでおり、巨大な墓石が並んでいるように見えた。ぼんやりと立ち尽くしていると、通りの向こうから歩いてくる小柄な女の姿が目に入った。

 みやびだった。毛玉だらけの薄いニットに、古臭いチェック柄のスカートを履いていた。気がつくと時雄は、彼女の前に道を塞ぐようにして立っていた。

「きみのこと知ってるよ」

 みやびは思いがけずきれいな、透き通るような高い声をしていた。

「ママが浮気してた人んちの子でしょ。さてはあたしのこと、殴りにきた?」

 そう言ってニッと笑う顔を見た瞬間、時雄は頭がカッと熱くなって、本当に殴ってやろうかとまで思った。でもしなかった。みやびを殴ったところで何にもならないことはわかっている。父と不倫していたのは彼女ではなく、彼女の母親なのだ。上がりかけた拳をぐっと握りしめ、時雄は大きく息を吐いた。

「殴らないの? 仕返しに来たんだと思ったのに」

 みやびは意外そうに首を傾げた。時雄は「違うよ」と返した。

「ふーん。前のときは殴られたんだけどな……」

 そう話すみやびはやっぱり笑みを浮かべていた。時雄の胸に、ひさしぶりに彼女への恐れが蘇ってきた。それに抗うように一歩詰め寄った彼は、「あんた、なんでそんな風に笑ってられるんだよ」と尋ねていた。

「そんなこと聞きにきたの?」

 ニコニコと笑いながら、みやびは答えた。「だってさ、夢で辛いことがあったって、全然平気じゃん?」

「夢?」

「夢だよ。あのね、ママが迷惑かけたから、特別に教えてあげる。ここはあたしが見ている夢の中なの」

「バカ言うなよ」

「ほんとだよ、成沢時雄くん」

 みやびは味わうようにゆっくりと彼の名前を呼んだ。それがおそらく彼女の母親を経て得た情報であることを思うと、時雄は果てしなく不愉快な気持ちになった。それでもみやびは笑っていた。媚びるのでもない、ごまかすのでもない、余裕に満ちた、いっそ彼を憐れむような顔だった。

「この世界は現実じゃない、あたしの夢の中なの。あたしが死んだら全部消えちゃうの。パパもママも、もちろん君もね」

 確信に満ちた声だった。その瞬間、夕焼けに照らされたみやびは、なぜか不思議と神々しく見えた。


 時雄が団地から帰宅するのと時を同じくして、父方の祖父母が慌ただしく時雄の家にやってきた。大人同士で話し合いをするからと言って、時雄は自室に追いやられてしまった。

 幸い今は誰の顔も見たくなかったし、話を聞きたくもなかったので、彼は喜んで部屋に引きこもった。頭の芯がへとへとに疲れていて、夢も見ずに眠ってしまった。

 翌朝、母はいつもと同じように父に朝食を作り、泊まり込んだらしい祖父母に和やかに話しかけていた。まるで和やかないつもの朝そのもの、しかし平穏な暮らしの薄皮を剥ぐとその下に醜いものが隠れているということを、時雄はすでに知っていた。知らないままでいたかった。トーストにマーガリンを塗りながら、彼は心の中で(これは夢なんだ)と唱えた。


 それから時雄はたびたび、みやびの住む団地に通うようになった。もちろん彼女の話を信じたわけではなかったが、その考え自体は彼の心を慰めた。

 時折、時雄はこの世界が本当にみやびの夢だったらと想像した。もしそうならば今彼が苦しんでいることも夢、しかも他人の夢に過ぎない。なにもかも取るに足らないことなのだ。そう思うと心が軽くなった。

 苦しむに値することなど、この世界にはひとつもない。

 時雄にはようやく、みやびがいつも明るい表情を浮かべている理由が理解できた。もう彼女を恐れることはなかった。


 みやびの夢想は完璧だった。自分の身に起こる辛い出来事の何もかもが、現実には起こっていないことなのだと、そう確信しているようにしか見えなかった。

 彼女の話を聞くのが、時雄にとっては何にも勝る逃避だった。住民の減った団地の一角に設けられたベンチで、彼は現実感のない話に相槌を打った。

「本当のあたしはねぇ、まだ小学生くらいの女の子なの」

 このくらい、とみやびは「本当の自分」の身長を手で示した。

「赤い屋根のかわいいおうちに住んでるの。毎日学校から帰ると、お母さんとちっちゃな妹が出迎えてくれるの」

 みやびは自分の母親のことをママと呼び、彼女が「現実」と言い張る世界の母親のことを「お母さん」と呼んだ。その呼び分けはいつも頑なに守られていた。

「お母さんはお菓子を作るのがすごく上手くて、家に帰るといつも甘い匂いがしてるのね。妹はあたしが帰ってくるまで、おやつを食べないで待ってるの。あたしが帰ってから、ふたりでおやつを食べるんだって聞かないんだって。あたしは妹と一緒におやつを食べて、遊んだり宿題したりしながら、お父さんが帰ってくるのを待つの」

 時雄はたまにみやびの話に質問を挟み、彼女がそれに答えることを楽しんだ。そうすることで、みやびの「本当の世界」の輪郭が次第にはっきりしていくのだ。

「妹の名前、なんていうの?」

「あかり」

「お母さんが作るもので一番好きなのは?」

「全部おいしいけど、一番はアップルパイかな」

 みやびは「本当の自分」や「本当の家族」のことを淀みなく話した。時雄の知る限り、それらの情報に矛盾が生じたことは一度もなかった。

「みやびさんは、どうやって『現実』に戻るわけ?」

「こっちで眠っちゃえば戻れるよ。夢の中で眠るってことは、現実には起きるってことだからね」

 みやびの言葉には「そんなの当たり前でしょ」というニュアンスが込められていた。


 時雄が高校二年生になった年、彼の両親が離婚した。

 兆候はあった。元々保育士だった時雄の母は、しばらく前に近くの保育園に再就職していた。家の中から父の持ち物が少なくなっていた。

 その間ふたりは表面上、ごく普通の夫婦のようにふるまっていた。時雄はあえて真実を探ろうとはしなかった。眠れない夜は(この世界はどうせ、みやびさんの夢の世界なんだから)と自分に言い聞かせた。そんな夜も時が経つにつれ、だんだん少なくなっていった。

 いつの間にかみやびとは会わなくなっていた。彼女は団地から出て、どこか別の場所で暮らしているらしかった。職場が近いから姿を見かけることはあるものの、以前のように話す機会は減っていたし、時雄ももうあえてその機会を求めなかった。

 高校で新しい友人ができ、初めての彼女ができた。時間と変化が少しずつ彼の心を癒しつつあった。


 そんな折、ひさしぶりにばったり顔を合わせたみやびは左頬を腫らしていた。時雄の脳裏に、初めて彼女と出会ったときの光景がフラッシュバックした。

 戸惑っていると、みやびが自分の顔を指して、

「これ? 彼氏に殴られちゃった。追い出されたからひさしぶりにこっちに来たの」

 と笑った。

「大丈夫? 大変だね」

「全然。だってこれ夢だし」

 まだそれ言ってるんだ、と思うと、時雄の胸は少し痛んだ。

「みやびさん、お母さんとか元気?」

 お母さん、と聞くと、みやびの顔は明るくなった。

「元気げんき。ママのことはどうだか知らないけどね。あのひと、男のとこ渡り歩いてるから最近会ってないんだ」

「お母さん、相変わらずお菓子作ってんの」

「作るよぉ。こないだアップルパイ作るの手伝ったの。リンゴのコンポートをね……」

 みやびはとめどなく「現実」の話を続けた。

 みやびに何を言っても無駄だということを時雄は知っていた。殴ってくる彼氏なんか別れた方がいいと言っても、きっとみやびは笑って首を振るだろう。小学生の頃、家庭への他人の介入を頑なに拒んだときのように。何度手を差し伸べられても、それを決してとらなかったときと同じように。

 まして、みやびにとって時雄は何者でもない。家族でも恋人でも親しい友人ですらない。ただこの世界の秘密を分け合っているだけの他人で、彼女の夢に出てくる登場人物のひとりに過ぎない。

 だから時雄は、黙って相槌を打っていた。


 この日を境に、みやびの顔を見かける日が増えた。どうやら同棲していた彼氏と折り合いが悪くなったらしかった。

 働いているはずなのに見るからにみすぼらしい服の彼女は、日に日にやつれていくように見えた。それでも笑顔だけは変わらなかった。何もかも夢の中でのことだと思えば、さして辛くもないらしい。

 時雄はそんなみやびのことを、時々羨ましく思った。でも反面、自分にはもうそれほどの逃避は必要でないということも悟っていた。

 母との二人暮らしは安定しつつあったし、彼女ともうまくいっている。学校の成績も上から数えた方が早いし、仲のいい友人もいる。父のことは彼の人生に暗い影を落としはしたが、それでもまったくの闇に飲まれることはなかった。

 若干の後ろめたさを覚えながら、それでも時雄の中でみやびは、少しずつ遠い存在になっていった。


 ある夜、アルバイトを終えて帰る道すがら、時雄はコインランドリーの看板の下にみやびが座り込んでいるのを見つけた。

 時雄はぎょっとして立ち止まった。みやびが泣いているのを、彼はこのとき初めて見たのだ。

「時雄くんじゃん。おつかれ」

 時雄に気付いたみやびは顔を上げて、目元をぬぐいながら力のない声を出した。

「おつかれ……あの、どうかしたん」

「なんでもない」

 みやびは頼りなげに首を振った。彼女の顔からは笑みが消えていた。時雄はそんな顔をするみやびを、これまで一度も見たことがなかった。

「ちょ、ちょっと待ってて」

 時雄は近くのファーストフード店に走った。やるせなさが胸に満ちていた。紙のパッケージに包まれたアップルパイをテイクアウトすると、彼はコインランドリーの前に走って戻った。

「これ」

 みやびは時雄が差し出したアップルパイを受け取ると、「あったかい」と呟いた。

「お母さんが、悲しいときは甘い物が薬になるのよって言ってた」

 パッケージを剥くと、みやびはまだ湯気のたっているアップルパイにかじりついた。「おいしい」という声が震えていた。

「あのね、あたし彼氏に言われてさ。赤ちゃん堕ろしたの。そしたらおかしいんだけどさ、すごく悲しいのね。夢の中のことなのに」

 パイ生地が崩れて、みやびの膝にぽろぽろと落ちた。


 最後にみやびに会った日のことも、時雄はまだ覚えている。

 団地の近くのバス停で、通りを挟んでたまたますれ違ったみやびは、何か言いたげな顔をしていた。でも時雄が彼女と一緒にいることに気づくと、こちらに向かって道の向こうから手を振った。みやびの顔はまた赤く腫れていて、まだろくでもない男と付き合ってるんだなと時雄は思った。

「さっきの誰?」

 彼女が尋ねた。時雄は「知り合い」とだけ答えた。

「ふーん」

 彼女はどこか渋々といった様子でうなずいた。みやびの姿はとっくに見えなくなっていた。それが最後になるとは、時雄は知るよしもなかった。

 例によって母親が聞きつけてきた話では、みやびの死因はくも膜下出血だったという。そういえば昨夜救急車のサイレンを聞いたような気がする、と時雄は後になって考えた。

 もしも死を永遠の眠りとするならば、みやびはこれからはずっと「本当の家族」の元にいるのかもしれない。無邪気な女の子の姿になって、優しい母親の作ったアップルパイを、小さな妹と食べているのかもしれない。

 時雄は時々そんなことを考える。結局、世界は消えてなくなりはしなかった。

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