砂漠渡りと長月

尾八原ジュージ

砂漠渡りと長月

 祖父は一人旅が好きだった。もっとも、旅先だからといって何をするわけでもない。休日を二日ほど使って、国内のあちこちの町を歩き回るだけの旅だ。特に観光地というわけでもない、普通の町並みを見るのが好きなのだと言っていた。

 ところが最晩年、自らの死期を悟ったのだろうか。祖父はぼくにある打ち明け話をしてくれた。

「本当はじいちゃん、一人旅なんか別に好きじゃなかったんだ」

 そう言って侘しげに笑ったので、ぼくは驚くどころか、いっそゾッとしてしまった。裏表がない人だと思っていた祖父の、隠された一面を知ってしまうのは、何だかとても怖ろしいことのように思えたのだ。

 固まっているぼくに、祖父は「昭蔵さん」の話を始めた。


 昭蔵さんは祖父の兄、つまりぼくの大伯父にあたる人物だが、十八歳で早世しているため、ぼくは彼のことをほとんど何も知らなかった。親族の誰も彼のことを語らないのは、あまりに若くして亡くなったせいだと思っていたが、それにしても写真の一枚も残っていないのは、少し不自然ではあった。

 その理由を、祖父はこのとき教えてくれた。いわく、大伯父は心中したのだそうだ。それも、近所にあった酒蔵の息子と死んだのである。その酒蔵は当時裕福で、地元でも大きな影響力を持っていた。だから皆、そこの坊ちゃんと、しかも男同士で心中した昭蔵さんのことを、口に出さないようになったのだ。

 ぼくの知る限り、祖父はさっぱりと明るくて、物事を深く考えない性質の人だ。その兄にあたる人物が自らの命を断っていたとは、にわかには信じがたいものがあった。

 昭蔵さんは祖父よりも五つ年上で、ふたりはよく似ていたという。きっと肌が浅黒く、高身長とがっしりとした骨組みとを備えた青年だったのだろう。祖父によれば「おれよりずっと女の子にもてた」そうなので、結構格好よかったのかもしれない。

 昭蔵さんの相手は幼なじみだった。彼の名前を、祖父は「駒ちゃん」としか記憶していない。

「駒ちゃん駒ちゃんって昔はうるさいくらいだったのに、あるときからふっつり言わなくなってね。でもよく会ってはいる様子だったから、単に話をしなくなっただけなんだろうと思っていたんだ」

 駒ちゃんはお金持ちの坊っちゃんらしく色白の、すっきりと整った顔立ちをしていて、何をしていてもどことなく品のある人だったそうだ。幼なじみなので、祖父も小さい頃はよく一緒に遊んだという。

 昭蔵さんと駒ちゃんはある日、両家に手紙を残してふっつりと消息を断った。電車に乗って県境をまたぎ、故郷を離れていく彼らの心境は、ぼくなどには図るすべがない。

 失踪から数日後、当時自殺の名所といわれた断崖絶壁から、ふたりの持ち物が発見されたという。遺体は見つからなかった。死んだのち、別々の墓に入れられるのが嫌だったのだろうと祖父は言った。

 祖父が一人旅をしていたのは、脳裏にいつまでも昭蔵さんと駒ちゃんの姿が残っていたからだという。遺体の見つからないふたりは実は生きていて、どこかの街でひっそりと暮らしているのではないか……そんな思いを捨てきれなかったのだそうだ。見知らぬ土地を旅する祖父は、街ゆく人々の中に昭蔵さんと駒ちゃんを探していたのだ。

「兄ちゃんに謝りたいことがあってなぁ」

 祖父は言う。

 ふたりが失踪する前の晩、祖父が昭蔵さんの部屋の前を通りかかると、ラジオの音が聞こえてきたという。そういえば兄貴に用事があったな、とやにわに襖を開けると、窓辺に座って外を見ている昭蔵さんの姿が目に飛び込んできた。

 ラジオからは『月の沙漠』が流れていた。開け放った窓の外には大きな満月が出ており、九月の秋めいた風が部屋の中に流れ込んでいた。

 驚いたことに、昭蔵さんは泣いていた。頬に涙の筋がいくつも流れていた。

「おお、何だお前」

 昭蔵さんは祖父に気づくと、慌てて手で顔を拭って取り繕った。

 普段はきりっとしている兄が、ラジオの唄を聴きながら月を眺め、まるでかぐや姫みたいに泣いている。それがおかしくて、祖父は大笑いしてしまったそうだ。

「兄ちゃん、なに女の子みたいに泣いてんだよ」

「うるせえな。何か用事じゃなかったのか?」

 昭蔵さんは顔を真っ赤にしていたという。

 ふたりが失踪したのはその翌日だった。

「あの晩、兄貴のことを笑うんじゃなかったと後悔したよ。一緒の家で暮らしていたのに、おれは兄ちゃんのことを何にも知らなかった」

 失踪に至るまでの苦悩も、哀しい決意も、何も気づいていなかった。だから万が一どこかで再会できたら、笑ったことと、何も気付けなかったことを謝ろう。

 そう思って全国を旅していたのだそうだ。


 昭蔵さんがいなくなってから、祖父は何度も同じ夢を見るようになったという。

 夢の中で祖父は広大な砂漠に立っている。白い砂粒が夜空の満月に照らされている。どこまでもどこまでも連なる砂丘の向こうに、駱駝が二頭見えるのだという。

 ペルシャ絨毯を思わせる豪華な鞍にまたがり、駱駝の背に揺られているのは、昭蔵さんと駒ちゃんである。とても遠いところにいるはずなのに、祖父にはふたりの顔がよく見える。

 彼らは幸せそうな笑みを浮かべて、砂漠を渡っていく。昭蔵さんは悲しいほど愛情のこもった視線を駒ちゃんに向けている。駒ちゃんも同じ瞳をして、駱駝の背で揺れる昭蔵さんを見つめている。何か言い合って、ふたりが一緒に笑う。

 祖父は走って追いかけようとするけれど、足が砂に埋もれてしまって上手くいかない。「兄ちゃん!」「駒ちゃん!」と呼びかける声も、二人には届かない。しまいに祖父は砂の上に倒れてしまう。顔を上げると二人の姿はなく、すべてを飲み込んでしまいそうなほど巨大な満月が夜空に浮かんでいる。

「いつもそこで目が覚めるんだ」

 祖父はそう言って言葉を切り、黙って目元を拭った。


 祖父が老衰のために亡くなったのは九月、奇しくも昭蔵さんたちが失踪したのと同じ月だった。葬儀では本人の生前からのリクエストに従い、『月の沙漠』が延々と流れていた。

 月の砂漠を渡っていった昭蔵さんたちと、祖父は再会することができただろうか。

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