第4話 深まる謎

 脳裏に映る鳥居と人影は、視点を変えながらに交互に主張するよう揺らいだ後、忽然と姿を消した。次第にはっきりしていく雫由の意識。全身が熱く、鼓動は早鐘のように脈打っている。現実と今見た景色が混濁する。視たものは一体何なのか。鳥居は分かる。しかし何故人影も見えたのだろう。視えた人影は何かを訴えるようにこちらに手を伸ばしていたものの、不思議な事に恐ろしさは感じなかった。

 思考を張り巡らせる。それでも混乱した頭では到底答えには辿り着けそうになかった。


「一体何が……?」

「……あ、ごめんなさい」


 手元を見ると手は小刻みに震え、縋るようにゆはたの袖を掴んでいた。無意識のうちに力が入りすぎていたのか、纈の袖に皺が出来ている。急いで離そうとしても拒むように手が動かない。何もできずに固まっていると不意に雫由の手が優しく包み込まれた。途端に震えが治まる。


「雫由さんに何があったのかは分かりません。けれど僕は暫く落ち着くまで側にいるので、大丈夫です」


 雫由を宥めるような優しい声。雫由が徐に見上げると透き通った淡い月光が纈を照らしていた。その光景は息を呑むほど美しく、人目を引く程整った容姿をしている纈をより一層際立たせている。


「……雫由さん?」


 無言で見つめている雫由に気づいたのか、目の前にいる纈は首を傾げる。我に返ると思ったより距離が近いことに気づき、雫由は慌てて纈から離れた。頬が熱いのは羞恥からだろうか。


「あ、ありがとうございます……もう大丈夫です」

「それならよかったです。では僕はこれで。また何か異変があれば教えてください」


 纈は安堵の息を吐くとそのまま背を向けて部屋に戻る。急に部屋に押しかけた上に倒れそうになり迷惑をかけたというのに、纈は普段と変わらない。彼がいくら年上だとはいえ、これでは許嫁ではなく保護者とその子供のような関係ではないか。纈の想いを知りながら、祝言について未だ決心に至っていないのは纈と自分は釣り合わないと身を引いているからかもしれない。

自室へ戻り布団に横たわると、視線の先にある棚の端に埃を被った厚い本が見えた。背表紙にはカバーがかけられていて、一目見ただけではなんの本か分からない。内容を確認するために手に取ると何十年も放置されていたのか、本は所々黄ばんでいた。紙の質感からして、余程古い文献らしい。


「……これは?」


 開いて雫由は思わず手を止める。記されていたのは綾織神社の事だった。頁を捲り続けるとある一文が目に止まった。細かく、古語のような文体で小さく何かが書かれている。


『丑三つ刻 綾織神社に山神在り。声に導かれし者は山の鳥居にゆく。玉の緒は隠り世に繋がり正身は幽言ゆうげんをきき、夢幻、霊験れいげんを視る──』


 本文はそこで途切れている。この文が何を示しているのか、何を言っているのかは分からない。夜中に綾織神社へ行くと声が聞こえて、導かれる?導かれた本人は幽言を聞き、霊験を視る?


 考えるほど謎は深まる。胸騒ぎは増すばかりで、先程感じた使命感や強迫観念がより強くなった。文章をみて頭に過ぎるのは、何かを伝えるように手を伸ばしていた影。立ち入ったことの無いあの山の鳥居にやはり行くべきなのかもしれない。昔から夜の神社は神様との距離が最も近くなると告げられていた。もしこの記述が本当なら、丑三つ時に神社へ行けば謎の人影の事がわかるのではないか。

 固唾を呑み、辺りを見回す。もう誰も起きている気配はない。羽織を肩にかけ、雫由は慎重に障子を開く。夜は深まり、冷気が廊下に漂っている。


「大丈夫……」


 深呼吸して部屋を出た雫由は、頼りない提灯の灯りを付け、門を潜り抜けた。ここから神社は近い。脇道を五分ほど歩けばすぐ辿り着くことが出来る。


 澄んだ空に無数の星が瞬く。幼い頃に纈とわたるの三人で眺めたのを思い出し、懐かしさと切なさが蘇った。戻らない日々。当たり前の日常はなんの前兆もなく突然崩れ去ってしまう。拭えない寂寥と虚しさを抱きながら歩を進めると、やがて綾織神社の鳥居が見えた。

来るもの導くように石段に沿って連なる灯篭。暗闇に浮かぶ仄かな灯りはまさに神界への入口のようだ。微かな恐怖を打ち消すように雫由が足を一歩踏み出したその瞬間。


「……なに?」


 シャラン、と清らかな鈴の音が何処からか響いた。否、でそれは鳴った。玲瓏れいろうな美音。一度でなく二度繰り返されるその音に、意識そのものが未知の場所にいざなわれ、引き込まれるような錯覚がした。懐かしくも儚い音が鼓膜を震わせる。幻聴にしては鮮明で、鼓膜を通して脳に直接響いてくるようだ。


「この音……」


 。過去に何度も聞いた音だ。咄嗟に雫由は振り返る。一陣の風が吹き、葉がさざめく。鈴の音は夜風に溶け込むように遠のくと、山の鳥居の方向へと消えていった。届きそうで届かないその様は、まるで鏡花水月のようだ。


───行かないと


 踵を返し、雫由は衝動に任せて石段を駆けおりる。今行動しなければ、もう二度と聴こえない気がした。音を追いかけなければあの山に、鳥居に行くことすら叶わなくなる気がした。

 山に浮かぶ、冴え冴えとした蒼い月。ただそれを目指して雫由は山へ駆け出した。

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