第3話 映る景色

 数時間後、雫由は早速纈の元へと向かった。纈は来た時間が遅いので、今日1泊するらしい。静寂の漂う薄暗い廊下。桜の模様が描かれた障子にぼんやりと行灯あんどうの光が滲んでいる。もう就寝していると思って諦めていたが、起きているようだ。雫由は恐る恐る障子を叩く。


「あの、纈さん少しいいですか?」

「雫由さん?どうしたんですか」


 障子を引いて出てきた纈の表情は、困惑が見え隠れしている。何も言わずに突然押しかければ誰であれ戸惑うだろう。そう理解していても、聞きたいことは膨れ上がるばかりで、衝動で纈を訪ねてしまった。今更引き返すのも返って気まずくなるだけだと自身に言い聞かせ、一歩を踏み出した。


「数時間前に纈さんのお話を聞いて、少し思うことがあって。こんな遅くにごめんなさい」

「いえ……とりあえず場所を移動しましょうか。縁側に座っても?」


 周囲を見渡しながら纈は縁側に視線を移す。庭に数間隔で設置されている灯りは周辺を程よく照らしていて、顔を見て話すのには丁度いい場所。雫由は頷き、遠慮がちに纈の隣に座る。虫の音が静けさの中で微かに聞こえてくる。薄雲から射し込む蒼い月明かりは、庭にある池に揺らいでいて、景色を見ていると緊張が解れていく。


「あの、山にある鳥居のことで…纈さんは言い伝えについてどう思いますか?」

「言い伝えですか……」

「はい。信じているのか気になって」


 雫由が問うと、纈は沈黙の中暫し逡巡するように視線を彷徨わせる。その仕草は何かを言うべきか迷っているようにも、過去を思い返しているようにも見えた。逸る気持ちを抑え、雫由は言葉を待つ。


「信じていないと言えば嘘になります。実をいうと僕は1度だけあの山に行ったことがあるんです……弥を探しに」

「え……」

 呟かれた言葉に目を見開く。その様子に気づいているのか居ないのか、纈は続ける。


「当時僕もまだ子供でしたし、逢魔が刻に差し掛かるとき、結局父上に連れ戻されてしまいましたが……あの山はやはり空気そのものが違う気がしました」


 纈曰く、何故か山の鳥居の近くの空は他の場と違い夕闇が深まるのが早かったらしい。鳥居に近づくほど急になる斜面。鬱蒼と生い茂る木々に遮られる視界。燃えるような赤が広がる空はまさに異界への入口に見えた、と。夕時と夜では見る景色はどう変わってくるのだろうか。興味を引かれた雫由は目を凝らして山を見たが、鳥居は闇に沈んでいて見えなかった。


「ところで、雫由さんはなぜ急にそのような事を?」

「あの鳥居に行ったこと私は1度もないのですが、何故か見る度に淋しく思うんです……。纈さんは鳥居にまつわる言い伝えについてどう感じているのかなと思い……」


 素直な思いを吐き出す。人々に忌み嫌われ怯えられながら在り続ける鳥居。隠り世。常世。山神。それらが本当に在るのかは定かではない。けれど昔、三途の川を見た人がいたことを考えると、''ない''とも言いきれないのだ。真相はどうあれ、実際に消息の掴めない不明事件が出ているとなると、危険な場所ではあるのかもしれない。それでも神社の清掃をしている時見る度に、どこか惹かれるものがあった。好奇心とは違う使命感。ような感覚。行かなければならない。知らなければいけないがあるような気がしてならない。本当にこのまま鳥居の存在を座視していいのか。そんな疑問が胸に渦巻く。


 今日もそうだった。父親である捷が来たことで鳥居から視線を逸らしたが、引き寄せられるような錯覚がしたのは事実。


「もしあの鳥居に何かあるなら……」

「雫由さん」


 懸念するように雫由を見据える纈。普段の穏やかな声音は変わり、真卒な表情を漲らせている。いくら疎い雫由でも、纈が言おうとしている事は流石にわかった。纈は冷静なだけでなく洞察力も持ち合わせている。今もきっと雫由の考えを見抜いているのだろう。でなければこんな真剣な表情はしない。


「気持ちはわかります。けれどあの山には行かないで欲しいというのが僕の願いです」

「そう、ですよね」


 神に仕える立場の纈なら鳥居の話をすれば何か共感してもらえるかもしれない、と抱いていた淡い期待は見事に外れる。実際に身内に行方不明者がでている纈の意見は、至極真っ当だ。甘えていた自分を叱責する。それでもやはり完全に諦めることは出来なかった。ふと、庭を眺めた纈が独り言のように呟く。


「弥はあの山にいったのではないかと僕は今でも思ってます。はぐれる直前、あの山の麓にいたので。弥のようにもし貴方にも何かあったら──」


 纈の言葉を遮るように一際強い風が吹き抜け、葉音を奏でる。気づくと虫の音はいつの間にか消えて静まり返っている。六月下旬の夜はまだ肌寒いが、今日はいつも以上に気温が低い気がした。何かが起こりそうな気配に身震いする。


「……冷えてきましたね。そろそろ戻りましょうか」


 纈の言葉に立ち上がったその時。突如頭が重くなり、脳が震える感覚がした。目眩や立ちくらみではない。脳裏に一瞬、夕闇に佇む鳥居が浮かぶ。それは意識のみが引き抜かれ、異なる空間に捩じ込まれたように。

定まらない足と視界にふらつきながら雫由は意識を保つ。


「雫由さん、大丈夫ですか」


 倒れる寸前、纈が雫由を支えた。霞む視界の中、焦りの滲んだ声が聞こえる。


「だ、大丈夫……です」


 掠れ声で雫由が応えた瞬間、追い打ちをかけるように再び光景が浮かび上がりに立つが映った──

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