8ー4 溶けない雪(2)

 日も西寄りに傾き、柔らかな日差しが、病院の大きな窓ガラスを透過する。制服私服問わず、多数の警察官がエントランスを往来し、その動きに報道腕章を着けた記者が鋭い視線を投げつけていた。ざわざわと落ち着かない病院のエントランスの真ん中を、事務服を着た女性がそんな雰囲気を気にする様子もなく、新聞を抱えてのんびりと歩いている。処置室から出てきた勇刀は、騒然としたエントランスを身を縮めて横切った。瞬間、女性が抱えた夕刊の見出しが目に止まる。

『警察官殺害事件、容疑者死亡により終結か。四年前の警察官死傷事件とも関連』

 女性は新聞をラックにかけると、またのんびりとした足取りで今来た経路を歩き始める。新聞の一面に大きく躍る煽情的な見出しが、勇刀の目を捉えて離さない。無意識のうちに勇刀は待合室に置かれたその新聞に近づいた。包帯が巻かれた腕を伸ばし、新聞を手にする。待合室のテーブルに新聞を広げると、勇刀の口から、ためた息が小さく吐き出された。氷を口に含んだように冷たい息に、勇刀は体の芯から凍るのではないか、と錯覚する。

(何、やってんだ……俺)

 頭を大きく横に振って架空の冷たさを取り除くと、勇刀は無理矢理新聞に目を落とした。

『C警察署管内にて警ら中の警察官が襲撃された事件は予想外の終結を迎えた。八月九日未明に警察官が襲撃されC警察署地域課に勤務する三郷柊一郎巡査と横田淳巡査が死亡した事件。警察本部警務部監察課並びに刑事部捜査第一課は、当該事件に係る一連の容疑でB市居住の大学生・佐藤ルカ(二十二)を逮捕した発表した。佐藤容疑者は警察本部に勤務する警察官を拉致監禁したとして、サイバー犯罪対策課により追跡をしている最中の出来事だった。逮捕直前、佐藤容疑者は警察官の発砲により被弾。まもなく死亡が確認された。警察は容疑者死亡のまま立件を視野に捜査を続行するとしている。なお、発砲直前の威嚇射撃等についてはなかったものとみられており、原田芳之首席監察官は「容疑者は、一般人を含む五人を死傷させている。公務執行上、やむを得ない対応だったと判断するが、詳しい状況を確認後、厳正に対処したい」と述べた。佐藤容疑者逮捕の際、四名の警察官が負傷し、内一名は意識不明。この事件に関して捜査員関係者は「(拳銃の使用について)逼迫した状況であったと推測される」と語る。また事件現場には、拉致監禁された警察官の他に、当該警察官の親族の男性と同警察本部鑑識課・切田翔巡査部長が心配停止の状態で発見されており、県警では切田巡査部長と佐藤容疑者との関係を調査している。さらに今回の事件により四年前に殉職した霜村嘉明警視と切田巡査部長について、複数の非違行為が発覚しており、同監察課は四年前の事件を遡り、今回の事件との因果関係を徹底的に調査するとともに、死亡した佐藤容疑者が、四年前の事件にも深く関与しているとみて、四年前の事件を洗い直す方向で再捜査を行うとした。今回の事件並びに四年前の事件に関し、警察本部警務部長・黒田剛警視正は「現状において深く言及することはできないが、警察官としての資質や倫理が再度問われる重要な事態である」と述べた』

 グシャッ--、と。新聞の上にのせていた勇刀の手が、その端を強く握りしめる。エントランスの喧騒は、勇刀の怒りが篭った強い力でさえ、あっという間に掻き消してしまった。

(何も解決してない! 何も出来てない! 何も……全く、救えていない!!)

 新聞をおさめた掌に爪が食い込む。皮膚を圧迫するほど、勇刀は強く拳を結んだ。容疑者であるルカを生きて捕まえられなかった。ルカの手から遠野や稲本を守ることが出来なかった。切田や陽哉を救えなかった。そして、市川を--!!

「緒方、隣……いいか?」

 柔和で落ち着いた口調が勇刀の名前を呼んだ。荒ぶる気持ちを必死に抑え込んでいた勇刀は、ハッとして顔を上げる。そこには、いつものように、穏やかな表情をしたサイバー犯罪対策課長の高藤がたっていた。勇刀は慌てて、手の甲で顔を拭う。椅子から立ち上がると、勇刀は無言で隣の椅子をひいた。

「……どうぞ」

「ありがとう」

 口角を上げて笑った高藤は、手にしていた缶コーヒーを勇刀の前に差し出す。見覚えのある缶コーヒー。余計に複雑な気持ちになった勇刀は、たまらずグッと下唇を噛んだ。

「傷、大丈夫か?」

「俺は、大したことないです……。俺より、遠野係長は……」

 サイバー犯罪対策課の捜査員が建物に突入した時、遠野は一階の階段下で倒伏していた。腹部には鋭利な刃物で貫かれた跡。救急車で緊急搬送中に遠野の意識は混濁しはじめ、予断を許さない状況にあった。一方、ルカにより二階から落とされた稲本は、落下した衝撃で左足の脛骨と肋骨を骨折。捜査員に発見されるまで、地下室で身動きが取れずにいたのだ。自分一人が軽傷という事実に、勇刀の中にやるせ無い感情が沸き起こる。

「遠野係長は、先刻、意識が戻ったよ。稲本も骨以外はいつもと変わらない」

 愚痴なのか独り言なのか、分からない言葉をグダグダと羅列する稲本の状態を思い出したのか、高藤は苦笑いをした。それでも勇刀は腑に落ちない、そんな表情をして俯く。察した高藤は静かに口を開いた。

「切田は……ダメだった。市川の弟さんも」

「……れ、ませ……でした」

「何?」

 俯き、途切れ途切れに言葉を発する勇刀の顔を高藤は思わず覗き込んだ。いつも朗らかな勇刀の目から大粒の涙が、次々と溢れ落ちる。意志の強い目はそのままに。どうしようも出来なかった後悔の念が、勇刀を押し潰さんばかりにのしかかり、悔し涙を流させた。無力。いくら法を学んでも、いくら心身を鍛えても。全てを救うことなどできなかった。警察官としての公務の範疇をもこなせない、己の限界が許せなかった。

「何も……解決してない。でも、終わってしまったんです。俺は……誰も救うことができなかった……! 俺は……また!! 親父まで……」

 未解決である勇刀の父親の事件とは違う。頭では分かっているはずなのに、終結を迎えたはずのこの事件は、勇刀の中で何ら解決もしていなかった。容疑者であるルカからも、切田や霜村、陽哉からも何一つ聞き出せずに。コールドケースにもならないその事件は、風化し忘れさられていくのだ。

「事件は解決しても、俺の中では一生解決できないコールドケースなんです。あの時、色んな選択肢ができたはずなのに、俺は……俺は……!」

「あれがあの時の、最善だったんだよ、緒方」

 高藤は、震える勇刀の肩に手を置いた。行き場のない力が、勇刀の全身をこわばらせる。その力を逃すように、高藤はゆっくりと勇刀の背中を摩った。

「〝たられば〟を言い出したらキリが無い。緒方がもし、この事件をコールドケースというなら、次のコールドケースを作らない努力をすればいい」

「……」

「それに……コールドケースは、解決できる可能性がのこってるんだろ?」

「……」

「緒方、おまえにはまだ。やるべきことが残ってるんじゃないのか?」

 高藤の言葉に、勇刀は目を見開いて顔を上げる。何を言わんとしているのか全く見当もつかない勇刀に、高藤はにっこりと笑って勇刀の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「サイバーの研修が終了するまでに、市川に気に入られたいんだろ?」

「え……」

「市川のそばにいろ」

 高藤は勇刀の手を握る。その手はとても熱く、柔和な高藤からは想像もできないほど力が込められていた。手から高藤の強い思いが伝わる気がして、勇刀は高藤から目を背けることができなかった。

「市川は、未だ闇の中を彷徨ってる。飲まされた薬物の所為で昏睡状態に陥ってるんだ。まだ救えるんだよ、緒方。救える人がいるんだ。おまえにしかできないことなんだよ、緒方」

「高藤……課長……」

「市川を闇の中から引き上げてほしい。緒方にしか、できないんだ」

 高藤にそう言われた瞬間、勇刀は市川の言葉を思い出していた。

 勇刀に対して一線を画していた市川。ぼんやりと、まるで別な世界を見ているかのように微睡みながらも、勇刀に向かって言った一言を。

「雪に……攫われ……る……」

 その時気づいた。市川はまだ戦っているのだと。市川の中でも、まだ事件は終結していない。何も解決していない。勇刀が救わなければ、誰もいない別世界で市川は一生、幻と戦わなければならないことを……。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 --雪に、攫われる。

 未だ別世界の中を彷徨い走る感覚に陥るのは、その時市川に言われた言葉によるものだと勇刀は考えていた。

 未だ解決していないこと。未だ救えていないこと。市川を目覚めさせることは、希望のあるコールドケースだと勇刀は思っていた。そう思っていてもこの半年の間。勇刀の努力は実を結ぶことはなかった。いくら懸命に話しかけても、市川が目を覚ますことはない。勇刀が特別研修生の任を解かれるまで、あと僅か。異動すると、市川のそばにいる時間も減ってしまうだろう。必死に思考を前向きに廻らせても、反応のない市川に少しずつ傷ついて、気持ちが弱くなっていくのがわかる。萎える気持ちを押し殺し、勇刀は市川の手を握りベッドに頬杖をついた。

(せめて……もう一度。市川さんが、笑った顔が見たかったなぁ……)

 目を閉じて、額に市川の体温を感じて。勇刀は静かに呟いた。

「市川さん……聞こえますか? 市川さん、俺は……ここにいます。ちゃんといますよ」

「勇……刀……」

 一瞬、夢でも見たのかと思った。夢にまで市川の声が聞こえてくるなど、疲労がかなり蓄積されているに決まっている。思い当たる節はいくらでもあった。最近立て続けに家宅捜索があり、緊張の糸はなかなか緩まることがなかった。被疑者の取調べや捜査の後処理を徹夜で仕上げ、ゆっくりと布団で寝る暇さえない。凄く短いスパンで、寝落ちして夢まで見てしまう生活の中だ。自分自身、相当疲れていると自覚している。しかし--。

「勇刀……お、が……た」

 疑いようもなく、耳が拾う市川の声。勇刀は飛び起きた。息をすることを忘れ、声のする方に顔を向ける。

「市川……さん?」

 ゆっくりと、市川が目を開ける。病室のライトに目を細めながらも、驚く勇刀に向かって市川ははにかんで笑った。その瞬間、勇刀の胸の奥が強く鼓動した。市川と勇刀の間にあった、見えない別世界の境界壁がパリンと音を立てて崩れていく。パラパラと破片を撒き散らした境界壁は、雪の粒となってあっという間に消え去った。

 咄嗟に立ち上がった勇刀は、倒れそうな体を立て直して、市川にしがみついた。感情の赴くまま、強く抱きしめたら壊れてしまいそうな市川の華奢な体を、実体を確かめるように抱きしめる。勇刀は乾燥し張り付く喉から、必死に声を絞り出した。

「もう一度……もう一度、言ってください……!!」

「……緒方……勇刀」

「ッ!!」

 悔しくも悲しくもないのに、涙が止まらない。昂る感情を抑えることなく。勇刀はしばらく、声を殺して泣いていた。

 諦めたら、ダメだなんだと。少しづつ実直に、無心に邁進する。少しでも諦めたら、そこで終わりなんだと実感した。同時に勇刀は肩に大きな温もりを感じ、顔をあげた。小さい頃、父親に肩を抱かれた感覚にも似たあたたかさ。

〝よくやったな、勇刀〟と、あたたかさに紛れた父親の声は、勇刀の耳をくすぐるようにこだまして消えていった。

 窓の外に舞っていた細雪はいつのまにか粒を大きくし、あっという間に世界を白く染め上げていく。市川は勇刀の肩越しに、その風景を眺めていた。市川の目はなかなか焦点が合わずにぼやけた風景をうつしていたが、それでも、全身を包みこむあたたかさに安心していた。彩虹が感じる眩しさは、今まで閉じ込められていた世界とは全く違うものなのだと、言いしれぬほど安堵に満たされる。

「雪……」

 窓越しの雪は、手にしたらサッと溶けることが、容易に分かるほど、柔らかく儚く。先刻まで市川に纏わりついていた溶けない雪ではない。市川はホッとした。そして無性に自分の所在を確かめたくなった市川は、しがみついて泣く勇刀の肩にそっと額をのせた。



「認められません」

 けんもほろろに、冷たく放たれた言葉。その言葉に市川雪哉は、ムッとした。かつて自分が放った言葉が、放った相手からそっくりそのまま返ってくるとは、あの時の自分は決して思わなかっただろう。

 毎晩、遅い時間まで資料を集めて、綿密に作成した予算要求書。投げつけられることはないにしても、ものの数分で市川の鼻先に突き返される厚さ五センチほどのファイルに、思わず目を見開いた。眼鏡の奥の色素の薄い瞳が、ファイルの先にいる男を睨む。

「Yーwaysの新規整備は、通常経費で全て賄える事業だと思います。新規事業の必要性を感じません。市川警部、熟考し精査した上でもう一度提出してください」

「……」

 市川と男の視線が勝ち合う。バチバチと飛び散る火花が目に見えた瞬間、市川を睨み下ろしていた男が、頭を掻きながら笑い出した。

「あははは」

 屈託なく歯など見せて笑う男に対し、市川の表情はみるみる無表情になっていく。

「なーんて、冗談ですよ! 市川さん!」

「……」

「一度は言って見たかったんですよねぇ。〝認められません〟いやぁ、カッコいいなぁ」

 不機嫌な市川を他所に、一人自分の放った言葉に酔いしれる男・緒方勇刀は、ファイルを手に上機嫌に笑った。

「……認められないのなら、もう一度練り直します。ファイルを返してください。緒方警部補」

「あぁもう! 冗談ですってば!!」

「緒方警部補が嘘をつけない性格だということは、よーく分かっています。今のは本心ですよね? やり直してきます」

「もーッ!! 市川さーんッ!! 冗談なんすってば!!」

 カッコよくキメ台詞を言い放ったはずの勇刀だったが、想像以上に機嫌を損ねた市川に、慌てた体で縋り付く。優れた幹部候補にも拘らず、全く変わらない勇刀の言動。

「……はは。あははは」

 市川は思わず、声をあげて笑ってしまった。

 F県警察本部警務部会計課--予算編成室。

 刑事特別研修生としての任を無事終えた勇刀は、今春、全く畑違いの会計課へ異動となった。捜査活動の中核となる捜査官とは対局の世界であるものの、警察組織中枢を担うのが予算編成室だ。来年度の警察組織の運営を会計面で構築し、各所属にバランスよく予算を配賦する。より強固な体制を築く組織とそれに見合う予算を獲得するため、県財政課と折衝し尽力を注ぐのだ。

 毎年、優秀な幹部候補の中から、将来の警視正への一歩として、予算編成室へ異動を命ぜられる警察官がいる。いわゆる〝指定職〟だ。幹部候補の中から選抜され選考されなければ、予算編成室への異動なないのだが、特研生の任を解かれたはがりの勇刀が、まさか〝予算編成室〟任ぜられるとは本人はもちろん、誰も予想だにしなかったに違いない。

 何ごとも前向きな思考をする勇刀でさえも、サプライズの度を超えた人事異動に、流石に戸惑いを隠せなかった。そんな勇刀に、市川は言った。

「大丈夫、勇刀ならできます。大丈夫」

 はにかんだ市川の表情と相まって、体温が上昇した背中を一気に押された気がした。その時のことを思い出すたびに勇刀は、途端に身の置き所を失って慌てふためいてしまうのだ。

(あんな風に言われたら、何がなんでもやるしかないよなぁ)

 今置かれている現状は、自分の理想とする父親の姿からだいぶかけ離れてしまってはいる。しかし、どの部門においても、自分らしく直向きに職務を遂行することは、何ものにも替え難い自分の糧になる筈だ。勇刀は、初心回帰のように気持ちを引き締めた。

「今度の土曜日、陽哉さんの月命日ですよね? 市川さん」

 ひとしきり冗談を言った後、急に真面目な顔になって勇刀は市川に言う。

「……あぁ」

「俺も行って、いいですか?」

「……来ないでください、って言っても来るんですよね?」

「まぁ、そうっすね」

 市川は少し目を伏せて、困ったような顔をした。

「遠野補佐も行く、と……」

「本当っすか!? じゃあ、俺、車出しますよ!!」

「言うと思いました」

「俺から、遠野補佐に連絡しておきます! 時間が決まったら、また連絡しますね!」

 にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべながら、勇刀は分厚いファイルを軽々と片手で持つ。そして、軽い足取りで、予算編成室の奥へと消えていった。

「本当、敵わないな……勇刀には」

 その後ろ姿を眺めながら、市川はぽつりと呟く。

 予算編成室に踵を返し、警察本部の薄暗い廊下を歩いていると、窓越しに遠野が働いているのが見えた。あの事件で深傷を負ったにも拘らず警部昇任試験に合格した遠野は、現在立件起訴や検事との繋ぎを行う捜査第二課の審理補佐として、手腕を奮っている。現場の一線から退く形にはなっているものの、未だに市川を気にかけ一日二、三回は電話をかけてくる遠野。多少面倒な性格だと思っている市川だったが、羨ましいほど溌剌としている遠野の声を聞くと、市川は自然と顔が緩むのを感じていた。同時に、今自分がここにいることが奇跡としかいいようのない状況に胸が熱くなる。

 今春、市川は辞職を考えていた。

「警察官を辞めようと、思っています」

 素直な気持ちを吐露した市川を、勇刀は真っ直ぐに見つめる。その気持ちも言動も、何もやましいことはないはずであるのに、市川はその目を真っ直ぐに見返すことができないでいた。

 一連の事件に全て関わっている、ましてや市川自身が発端の一部となってしまったことは紛れもなく、変えようもない事実。かけがえのない同期を二人も失った上に、弟までも巻き込んで命を奪ったことが、重く深く市川の胸の傷をさらに広げていく。さらには遠野や稲本、勇刀までもが負傷した事実に、市川は心身共に耐えられなかったのだ。

「それで……本当に、市川さんは納得できますか?」

 勇刀は目を逸らすことなく、真っ直ぐに市川を見て言った。静かに発せられる勇刀の冷静な声。もっと感情的に言われるかと思っていた市川は、つい勇刀の顔色を伺う。

「今はよくても、結局は真実を知りたいと思ってしまうんじゃありませんか? 無理に消して後悔するんじゃありませんか? その時、何もできない自分に耐えられますか?」

 あまりにも、真正面から正論をぶつけられて、市川は反論することができなかった。

 --逃げたいわけではない。結果として、勇刀に真正面から指摘するまで、自分の選択が今の辛さから逃げる選択であったことに気がつかなかったのだ。俯く市川に、勇刀は静かに続けた。

「俺は市川さんに付き合いますよ。辛い記憶が消せないなら、事実がうまく消化できないなら。一緒に納得するまでとことん付き合います」

 勇刀は市川の手を握ると、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。

「そのかわり、市川さんも俺に付き合ってくださいよ? 絶対ですからね!」

 与えられ、守られるばかりでは市川は首を立てに振らなかっただろう。勇刀の駆け引きの上手さと嘘のない笑顔に、市川は胸がいっぱいになるの感じた。礼を言いたいのは山々だったが、泣きそうになるのを悟られまいと、市川はただ黙って頷くことしかできなかった。

 〝たられば〟を言っても仕方がないと分かってはいる。しかし、ルカの深部が少し理解できたらと、市川は今もなお考えざるを得なかった。

 --もし、ルカが勇刀と出会っていたなら。

 勇刀はルカを救えたかもしれない。霜村も切田も、この場にいたかもしれない。

 警察本部の無機質な窓から青い空が見える。市川はその空をふと見上げた。

 青が深く、空は夏が近いことを告げる。前を向くと決めても、市川の胸の中では、あの雪が降り止むことはない。表裏一体。いつまた、足元を掬われ、引き摺りこまれてしまう不安と恐怖。

 深く心に沈んだ感情を振り払うように、市川は目を開けた。大きく息を吸って、再び澄んだ空を見上げる。

「消せない、なら……納得するまで、付き合う。付き合ってやる」

 そう呟くと、真っ直ぐに前を向いて、市川は薄暗い警察本部の廊下を歩き出した。

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The snow of the underworld @migimigi000

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