5ー2 拳銃

「……切田?」

 そう呟いたと同時に、市川は鋭く体を捻った。足を胸あたりまで引き上げ、押さえつけたバネのように力を蓄える。

 ドッ--!! と、鈍い音がした。

「うっ……」

 市川の両足が深く強く。背の高い黒服の男ーー切田の腹にめりこんだ。

 市川の予期せぬ反撃に、切田は小さく呻き声を上げる。たまらず、バタンと床に倒れ込んだ。市川は素早く体を起こすと、暗い建物の中を無我夢中に走り出した。目が暗がりになれないからか。それとも、長時間手足を拘束されていた反動からか。床に散乱する物に足を取られながらも、市川は部屋の出入り口へと一直線に走る。

 市川の耳が、微かにパンという小さな爆発音を拾った。瞬間、足元からカン--と。金属が跳ねる音がして、僅かな火薬の匂いが鼻をつく。

(発砲……!!)

 市川が狼狽すると同時に、背後から続けざまに軽い爆発音が三発響いた。

(止まるなッ!! 走れッ!!)

 強く自分に言い聞かせ、市川は上下左右で跳ねる弾丸に構うことなく闇の中を走り抜ける。ぼんやりとした照明の明かりなど全く役に立たない。市川は、息を止めて前だけを見た。出入り口の輪郭がはっきりと確認できる。さらに走る速度を上げた。

「何やってんだよ、切田さーん! 市川さん、逃げちゃったじゃーん!」

「……う、るせぇ!!」

 男と切田のやりとりを背に。市川はなんとか出入り口の壁に体を隠した。

 次の瞬間、廊下の壁に開いた大きな穴が、市川の目に飛び込んできた。その一瞬の脇目が、市川の体のバランスを崩す。

「ッ!!」

 未だ戻りきらぬ足の感覚。そうさせたのか。走る勢いを抑えきれなかった市川の体は、その穴の方へ大きく傾いた。受け身を取ろうにも、壁にも床にもぶつからない。壁を掴もうにも、長時間拘束されてた手は、思うように力が入らなかった。完全に体が宙に浮き、どうにもできない状態。不意に現れた悪魔の口のようにぽっかりと開いた暗闇に、市川は吸い込まれていった。



 パン--パンパン--!!

 ハッキングされたパソコンの画面から、乾いた破裂音が響く。

 その様子を、サイバー犯罪対策課の捜査員は、息を殺して見ていた。いや正確には、見ていることしかできなかった。

 一瞬の--。ほんの一瞬の、出来事だった。

 パソコン画面に映し出された、市川と確認できる人物。ぐったりと横たわる市川が、いきなり黒い影を蹴り上げた。

「市川さんッ!!」

 思わず、勇刀は画面に向かって叫ぶ。その声が画面の向こう側に届いたかのように、配信をしていた男が、急に市川の方へ振り返った。体を捻って走り出す市川に向かって、男が何かを取り出して構える。

 パン--!!

「発砲!?」

 聞き覚えのある破裂音に、勇刀が叫び声を上げた。

 パン--パンパン--!! 

 続けざまに三発。画面からフレームアウトする市川に向かって、銃弾が発砲される。

「市川さんッ!!」

 今、目の前で。市川の命が危ぶまれているという状況。それにも拘らず、画面を見つめることしかできない自分に無性に腹が立ち、勇刀は拳で机を叩いた。

「緒方ッ!!」

「……ッ!!」

 遠野に一喝された勇刀は、机を叩いた拳を強く握りしめる。何もできない無力感。それを痛いほど感じているのは、勇刀だけではない。

 弾くキーボードも、解析も。何もかも市川を救出できる物理的要因にすらならない。それでも、キーボードを押下する指を、解析する画像をより鮮明にする作業を。止める者は、誰一人としていなかった。

 市川に蹴られた黒い影と発砲した男が、何やら言葉をかわす。ガチャガチャとした、言い争うような潰れた会話。勇刀は無意識にその声を拾おうと、全神経を集中する。

 すると、発砲していた男が、徐に勇刀達が見守るカメラの方へ振り返った。ニヤリと笑うその口元が、ぼんやりとした明かりに照らされる。勇刀は背中がゾクッとした得体の知れない寒気に襲われた。

『いいこと、思いついちゃった』

 男は、勇刀達を嘲笑するような、明るく楽しげな声を発する。

『鬼ごっこ、しよーよ』

「鬼……ごっこ……?」

『見てのとおり、市川さん逃げちゃったからさ。市川さんを早く見つけた方が勝ちってヤツ?』

「……ッ!!」

『あ、でも。こっちが有利だよねー』

 画面の向こうで、男は声を上げて笑う。おかしくてたまらないといった感じだ。

『今、一所懸命追跡してんでしょ? 早く特定して、早く見つけてあげなきゃね、市川さんを』

「言いたい放題言いやがって!!」

 遠野が声を荒げる。

『予定は変わっちゃったけど……。市川さんと楽しく遊べれば、なんだっていいや。んじゃ、頑張ってね。サイバーのお巡りさーん』

 不敵な笑い声を残して、配信がプツッと途絶えた。突然真っ黒になった画面を、勇刀は唇を噛み締めて凝視する。今までざわざわとしていた執務室が、水を打ったように静まり返った。

「佐野……追跡は?」

「……あと少しだったんですが」

「田中、背景解析は?」

「廃屋……程度にしか」

「追跡しなくても……分かったかも、しれません」

 追い詰めることすらできず、どことなく捜査員の沈んだ雰囲気が漂う中、妙に落ち着いた勇刀の声が響いた。水面に落ちる一滴の水が波紋をスッと広げるように、勇刀の発した声が捜査員の耳に届いていく。

「緒方、どういう……」

 戸惑うような遠野の問いを背に、勇刀はマウスを机の上に滑らせた。録画した画像を立ち上げて、勇刀は再生と逆再生を繰り返すと、ノイズを丁寧に除去していく。

「切田って、聞こえるんです」

「!?」

「切田って、言ってるんですよ。この男」

 音声のノイズを除去した勇刀は、画像の音量をあげる。そして、三発の銃声直後の画像を再生した。

『何やってんだよ、切田さーん! 市川さん、逃げちゃったじゃーん!』

 幾分、ガサついてはいるものの。男は、勇刀のいうとおり「切田」という言葉を発していた。繰り返し流れる音声。勇刀は画像を真っ直ぐに見つめる。その目には、希望の光を含んだ明るさが宿り始めていた。

「切田って人が、俺の知ってる切田さんなら……。追跡できるかもしれません」

「……こっちからも、イケるかも」

 勇刀の言葉に乗せるように、稲本が妙にはっきりとした口調で呟いた。

「消去されていたデータが、抽出できた」

 稲本いうとおり、CFEDの画面に、消去されていた抽出データが洪水のように雪崩れ込む。稲本はその内容に素早く目を走らせた。特別専従捜査室に籍を置く稲本が、四年間漠然と腹の底で抱いていた疑義。が氷が溶けるように、疑義の中身が輪郭を現し、稲本はその表情を血気にはやらせる。

「イケるぞ……緒方!」

「……あぁ!!」

 暗闇しかなかった、市川へと続く複雑な道。手探りでもはっきりと見出せなかったその道に、一筋の光明が差し込んだ。



「拳銃が……握れません」

 射撃場の片隅で、市川は苦しげに言った。拳銃を握る市川の手は、かわいそうなくらい震えている。遠野はたまらず、市川の手から拳銃を引き剥がした。

 拳銃上級という県警屈指の腕前を誇り、一度は拳銃特別訓練員にも指定されるほどだった市川。

 事件後、初めての射撃訓練で、市川は拳銃を握れなくなるほど憔悴していた。

「大丈夫か? 市川」

「……駄目なんです」

「……」

「自分が携行していた拳銃で、霜村が……」

 そこまで言って、手先の震えが市川の肩まで波及する。遠野は思わずその肩を支えた。見た目以上に華奢な市川の肩。俯いて目を閉じる市川は、苦しげに右手で口を覆った。

「分かった、もういい。市川は悪くない」

「すみません……遠野係長」

「もう分かったから、気にするな!」

「私は、失格ですね」

「市川……」

「……もう、無理です」

 極限まで追い詰められた市川が吐いた痛々しい言葉。その言葉には、市川の哀しみや怒り、苦しみが凝縮され、痛みとなって心を蝕んでいる。遠野は、さらに肩を強く支えた。

「捕まえよう、市川」

「……」

「霜村の仇を取るまでは、拳銃がもてなくても、失格だと思っていても。踏ん張るぞ」

「……遠野……係長」

「お前の記憶に残る霜村が、笑顔になるまで。俺が付き合ってやる! だから、のまれるなッ! しっかりと前を見ろッ! 市川!!」

 自分が携行していた拳銃で、同期である霜村が命を落としたこと。それが市川の心を砕き。警察官としても、人としても自信を失くしていた。そんな市川を引き止めたのは遠野だ。

 霜村が手の届かない所に行き、今、市川までもそうなってしまうのではないか、それが遠野には耐えがたいほど怖かったのだ。もう失いたくない。自分が守ってやるんだ、そう固く心に誓ったはずだ。

 そう下したのは、自分自身に他ならない。遠野は自分のエゴによる判断に、心底自分を殴りたいと思った。

「遠野係長、大丈夫っすか?」

 ハッとして顔を上げると、勇刀が遠野を心配そうに覗き込んでいる。遠野は「いや、なんでもない」と低く応えると、勇刀の真っ直ぐな視線から逃れるように横を向いた。

「仮眠、しますか?」

「いや、こんな時に……」

「二時間……いや、一時間。いーや、三十分! 三十分で市川さんの場所を特定します。それまで横になってください」

「……しかし」

「〝指揮官が判断を誤ったら、指揮を受けた部下が死ぬ。だから幹部は誤った判断を下してはならない〟」

 勇刀の言葉に、遠野は驚いて振り返った。心を見透かされたと狼狽する遠野を知ってか知らずか。勇刀はいつものように笑って遠野を見つめ返す。

「って、警部補任用の入校時に、めちゃくちゃ怖かった教官が、まんま言ってた言葉なんですけど……」

「……受け売りかよ」

 勇刀はバツが悪そうに頭を掻いた。遠野はため息をついて、椅子から立ち上がる。

「でも俺は、部下はそこまで馬鹿じゃないって思うんです」

「……」

「信頼しなきゃ、いくら指揮官でもその判断に身を委ねない、って。まぁ、自分がそうだからってのもあるんですけど……。その判断がたとえ誤っていても、お互いが信頼していたら絶対に死ぬことはないって」

 勇刀は遠野の肩にそっと手を添えて、再び椅子にストンと座らせた。

「俺も、市川さんも、みんな。遠野係長を信頼しているんです。そんな指揮官の判断を鈍らせちゃいけないっすよね?」

「緒方……」

 そう言った勇刀の目に宿る光や、声音、表情は嘘偽りのない力強さがある。遠野は勇刀の力強さに、得体の知れない安心を腹の底に感じていた。

「必ず、市川さんを助けます! だから、今は俺たちに任せてくれませんか?」

 緊張して張り詰めた心の糸が、ゆっくりと緩んでいく。思わず、頬を緩ませ遠野はフフッと笑った。

「分かったよ。ちゃんと起こせよ、緒方」

「はい! 任せください!!」

 勇刀の明るく自信に満ち溢れた返事を聞き。執務椅子に深く体を沈める。遠野はゆっくりと目を閉じた。

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