26. 自腹にくちづけを

 一階の部屋を片っ端から見て回っていた沿島が異変に気がついたのは午前零時半、最後の部屋を出て再びエレベーターの前へと戻ってきたときだった。麗美は二階へ行ったはずであるにも関わらず、扉の横のパネルは三という数字を表示している。沿島はすぐさまボタンを押してエレベーターを呼ぼうとしたが、いつまで経っても降りてこない。何度押してみても同じだ。らちがあかないと階段を探し始めたとき、入口のドアを乱暴に開ける音がした。思わず振り向いてみて沿島は目を疑った。そこに立っていたのは白澤だった。彼は眉間に深いしわを寄せ、驚く沿島を睨みつけた。

「ここでなにをしている、沿島」

「ハクタク先生……!? どうしてここに——!」

「シラサワだ! いい加減にしろ! 沿島、おまえ、わたしの授業に出てこないとはずいぶんな身分になったものだな。それでいったいどこへ行ったのかと思えば金鏡会だと? 関わるなと言ったはずだろうが。いいか、わたしはここへ来るつもりなど毛頭なかった。しかしだな、このままでは沿島まで金鏡会に取り込まれて学生がいなくなり研究室はお取り潰しだなんだとひかるがぎゃあぎゃあ喚くからしかたなく来てやったんだ。家からここまでわざわざ高いタクシー代を払って、だ。どこまで迷惑をかけたら気が済む? 月末までに反省文を提出しろ、わかったな。とっとと帰るぞ」

 白澤は言うだけ言ってすぐに踵を返し、ビルを出ていこうとする。沿島は慌ててその腕を掴んだ。

「ま、待ってください! 欠席の件は本当に申し訳ありませんでした、でも麗美ちゃんが……」

 しかし白澤は聞く耳を持たずに「それは我々にはなんの関係もないことだ」と吐き捨てた。沿島はなおも追い縋る。

「反省文ならいくらでも書きます、ですが僕は僕なりに麗美ちゃんのお姉さんを助けようと考えて、詳しい先輩に教えていただいて、麗美ちゃんと一緒にここへ——」

「その先輩というのは前島慶治のことか」

 沿島の弁明を遮るようにして放たれたその言葉は、彼を戸惑わせるには充分すぎるほどであった。

「えっ? どうしてご存知なんですか……?」

「おまえはなにも存じないようだな」

 皮肉めいた口調でそうつぶやき、白澤はため息をついた。

「まず、岡宮麗美がわたしの研究室を訪れて以来、G.G.H研究会は我々の周囲を嗅ぎ回っていた。おまえは気がついていなかっただろうがな。一昨日、ジーク・チェマと名乗る男がひかるに接触してきた。調べたところこれが前島で、ジークとかいうのは金鏡会の信徒に与えられる名前であるらしい。キリスト教でいう洗礼名だ。そしてこいつがG.G.H研究会の実質的な代表者だった。すなわちおまえと岡宮麗美は金鏡会の人間によってここへおびき出されたに過ぎない。なぜ疑わなかった? 哲学は疑うことから始まると最初に教えているはずだ。まあ、おまえはわたしの言ったことなどなにひとつ覚えていないようだから、こんなことを言っても仕方がないのだろうな。そのとき同時にG.G.H研究会が秘密裏にケシの栽培を行っているとわかった。おまえがわたしの授業を無断欠席した時点でこうなるだろうと予想がついたためすでに通報している。ここまで言えば、前島およびG.G.H研究会が今どうなっているか、おまえにもわかるだろう」

 白澤は沿島の顔を見ようともせず、どこか天井の一角に視線を据えながらそう語った。その話を聞き終えた沿島はしばし唖然としていたが、我に返って再度焦り出す。そして無理やりに白澤の腕を引っ張り、エレベーターの前まで連れていった。白澤は不愉快そうな声で「離せ」と言うが、そんなことはおかまいなしだ。

「麗美ちゃんがさっきこのエレベーターで二階に行ったんですけど、今見たら三階に止まってるんです、押しても降りてきません。これって麗美ちゃんが、金鏡会の……」

 沿島はまたボタンを押す。やはりかごが降りてくる気配はない。白澤は少し耳を澄ましてみて「異音がする。おおかた扉に障害物でも挟んで止めているんだろう」と言った。それから再び帰ろうとするのを沿島はなんとか引き止める。

 そんな攻防が続いてしばらく経ったとき、唐突にモーターの軋む音がしてエレベーターが動いた。あっけにとられる沿島をよそに階数表示は三から二、二から一と移り変わり、古ぼけた扉がふたりを迎えるようにゆっくり口を開ける。白澤のかすかな舌打ちが辺りに響いた。

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