24. 過激な紳士

 ぼん、ぼん、と重たく膨らんだ音が幾度も響いた。麗美が驚いて見上げた壁には午前零時を示す振り子時計があった。

「さあ、おいで」

 ウィロックはそう言ってエレベーターに乗り込もうとしたが、麗美は従わずその場に立ち止まったままだ。おやおやと苦笑して、ウィロックとミイアは顔を見合わせる。

「エイミーに会いにきたんじゃないのかい?」

「やめて」

 すでに叫ぶ気力は削がれていたから、それは乾いて縮んだような声だった。ミイアは心底不思議そうな表情をする。

「あなたは、なにがそんなにも不満なのかしら。ねえ、落ち着いて、すべて話してみてほしいの。私たちはね、あなたに怖いことをするつもりなんかちっともないわ。もしあなたが、ここは危ないところだって勘違いしてるなら、大丈夫、安心して。ここには人を傷つけるような人なんてひとりもいないのよ。ね、ほら、話してみて」

 ミイアはまっすぐに麗美の瞳を見つめていた。何かに突き動かされるように、お姉を返して、と麗美は言った。

「お願いだからもうやめて。お姉はエイミーじゃないの瑛美なの、きもい、やめてもうほんとにやめて。もういいじゃん、もうやめてください、お姉を返してほしいだけなんです、ごめんなさい、ねえもう許してください、お姉を返してください、ねえ謝ってんじゃん。なんで、なんでお姉なの? だって意味わかんない、きもい、きもいよ、月なんかお祈りしたってなんにもなんないよ、やめてよ。なんでそんなことすんの? 本気でやってんのそれ? きもいよまじで。やめて、返して、お姉を返してよ、返してよ——」

 その言葉が途切れたとき、ウィロックは彼女の肩に手を置いた。強い力が加えられているというわけではないが、どうにも振り払うことができない。

「エイミーは、君のところへは帰りたがっていないよ」

 つぶやくようにそう言うウィロックの顔を見上げた瞬間、麗美は思わずひるんだ。口元の笑みこそ崩しはしないものの、ひどく冷たい目つきでこちらを見ている。何か言い返そうとしたが、それよりも早く彼は淡々と語り出した。

「悪いけれど厳しいことを言うよ。岡宮麗美、君は愚かだ。自分とは異なる価値観を持つ者の声に耳を塞ぐのは、視野が狭い人間のすることさ。いいかい、少しの間でかまわないから、僕の話を聴いてくれ。たとえば君は夜眠るとき、何かを不安に思うことがあるかもしれないね。テストのことだったり、今の君の年齢なら、そうだね、大学受験のことだったり、はたまた友人関係のことだったり、いくつもあるだろうね。けれども、死ぬことを考えて不安になったりはしないんじゃないかな。不思議だね。死だって、テストや受験と同じ、これから先の君の人生に必ずあることだ。それは今から何十年と経ったあとのことかもしれないし、もしかすると、明日のことかもしれない。しかし君は、自分が死ぬかもしれない、なんて恐れたりはしないね。明日も今日と同じようなごく平凡な日になると疑わず眠りにつく。なぜなら君は若く健康で恵まれていて、死などとは遠く遠く離れたところにいるからだ。いや、これは適切じゃあないな。少なくとも君はそう思っているからだ。自分と死との間には深い隔たりがあると。では、君が重い病気になったとしよう。もしもの話だ。体はどこもかしこも痛んで満足に動かず、ベッドから起き上がることもままならない。回復の望みはわずかだ。そんなとき君を不安にさせるのはただひとつ、すぐそばにある死のことだね。それに怯えながら一日を終え、眠りにつくとき、君はきっと今日を生きながらえたことを喜ばしく思い、明日が訪れることを心から願うだろう。ここまではわかるね。当たり前のことしか言っていないのだから。さて、考えてみてほしい。君が重病を患ったとき、死は君の隣にある。ならば、重病を患っていない今の君の隣には、死がないのだろうか? 道を走る車が君を撥ね飛ばすかもしれない。君の乗った電車が線路から外れるかもしれない。大きな地震が君を押し潰すかもしれない。君の住む家が火事ですっかり燃えるかもしれない。違うかい? 死を恐れない理由など、どこにあるだろうか。それなら、平穏であった今日を尊び、今日と同じ明日が来るようにと祈ることは、なんらおかしいことではないね。どうだい、こうやって聴いてみれば簡単なことだろう? 君にだって理解できるはずだ。君はエイミーの話を聴いてやったのかい? 返してほしいとそんなに懇願するほど大切な姉の声に、一度でも耳を傾けたかと訊いているんだ!」

 厳しい語調で発された言葉が麗美を穿つ。ウィロックがその肩から手を離すと、彼女の体は力なく床へ崩れ落ちた。

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