G.G.H研究会編

5. この部屋に巣食う人へ

「先生! 大変です」

 風薫るある日の午後のこと、沿島が白澤の書類整理の手伝いをさせられているところに、息せき切ってひかるが飛び込んできた。

「どうした、ひかる。おまえの二十代も今年で終わりだろう、もっと落ち着きを持て」

「大変なんですよ。見てください、脅迫状です」

 その言葉に驚きを示したのは沿島だけだった。白澤は迷惑そうな表情になる。

「なに? そんなものは捨てるようにしろと前に言っただろう。過去から学ばんやつだな」

 そして追い払うように手を振った。しかしひかるはかまわず持っていた紙を机に置く。沿島はおそるおそる尋ねた。

「あの……前もあったんですか? こんな、あの、脅迫状が届くなんてことが……」

「わたしには敵が多いのだ」

 白澤はこともなげに答える。

「言っておくがこんなものにまともに対処していたら、ひかる、おまえにも被害が及ぶぞ。沿島! おまえなど殺されるかもしれんぞ」

「ええっ!?」

「先生、いたずらに沿島くんの不安を煽るのはやめてください。それにしてもほら見てくださいよ、ずいぶん古風な脅迫状ですよ」

 三人は机上の紙を覗き込む。ひかるの言うとおり、確かにそれは新聞紙の文字を一字ずつ切り抜いて貼りつけたステレオタイプなものであった。白澤の目に少し興味の色が浮かぶ。

「いまだにこんなものを作るようなやつがいるんだな。すっかり廃れたと思っていたが」

「廃れるとかそれ以前に、脅迫状なんて僕初めて見ましたよ……」

 そのとき、文面を真剣に眺めていたひかるが「あれ?」と声をあげた。

「これ、よく読んだら脅迫というより……クレームかもしれないですね」

「なんだと?」

 白澤はとたんに失望したような顔になり、「くだらんな。破り捨てておけ」と背を向けた。反対に、それまで怯えていた沿島が関心を示す。

「クレームって、どういうことですか?」

 ほらここ、とひかるは書面の最後の一文を指差した。

「『おまえの授業は迷惑だ』って……先生、これ、学生からの苦情かもしれませんよ」

「退学にしろ。なんとしてでもそれを送ってきたやつを見つけ出せ」

 振り向かず淡々とそう言う白澤に、ひかるは苦笑する。

「いやいや、退学は無理でしょう。この見た目で完全に脅迫状だと思いましたけど、とくに過激なことは書いてないようですし……できて厳重注意までですよ。停学も無理ですね」

 そこに、おずおずと沿島が口を挟んだ。

「あの、でも『迷惑』ってちょっと違和感ありません? 普通、授業の不満なら『つまらない』とかそういうことを書くと思うんですけど……」

「なるほど、おまえはわたしの授業をそう思っているわけだな? 退学だ」

「大丈夫だよ沿島くん、先生にそんな権限はないから。でもそうだね、『迷惑』ってなんか変だねえ……。確かに先生の授業はものすごく不評だけど、誰かに迷惑をかけるようなことはしてこなかったはずだし」

 白澤はひかるを睨む。

「おまえをクビにする権限はあることを覚えておいたほうがいいぞ、ひかる。どうしてそんなに恩師に対して礼節を欠くことができるのか理解に苦しむな」

「あのですね、先生がこれ以上教員の皆様方から孤立しないように尽力しているのは誰だと思ってるんですか。先生の蛮行の後始末をするのはいつもぼくなんですよ。前に学長と大喧嘩したとき、解雇されそうになったところをぼくがなんとかとりなしたのをもう忘れたんですか。それを考えればぼくがたまに叩く憎まれ口くらいかわいいものだと思いませんか」

 八条目大学学長・伊良イラ護吉モリヨシと白澤は犬猿の仲であり、ふたりの間では幾度も小競り合いが起こっている。それが数年前、あわや学科存亡の危機にまで発展するかと思われるほどの大喧嘩に達したことがあったのだが、ひかるを始めとする何人かの教職員——三本木を含む——が懸命にふたりをなだめすかし、なんとか第一次八条目大学大戦の開戦を免れたのだった。この経緯を知らない学生たちの間では、学長と熾烈な争いを繰り広げたにも関わらず白澤が一向に解雇されない理由について様々な臆測が乱れ飛び、ついには八条目大学七不思議のひとつに数えられるまでになっている。また、このことがさらに白澤を忌避する風向きを強めたことは言うまでもない。

「それとこれとはまったく別の問題だ。第一、誰がいつ蛮行に及んだというのだ。わたしは常に紳士的な態度を心がけている。それにあれを吹っかけてきたのは学長の野郎で全面的に向こうの責任だと何度も言っているだろう。とりなしたと言うが、こちらとしては解雇されるより先に辞表でもなんでも出してやろうと思っていたのをおまえが勝手に謝りに行ったんじゃないか」

「尊敬する先生が路頭に迷ってほしくないという助手ごころをどうしてわかってくださらないんでしょう。ぼくは悲しいです」

「よくもまあぬけぬけと心にもないことを言えたものだな。おまえは自分が路頭に迷いたくないだけだろうが。だいたいおまえはだな——」

「まあまあまあ、喧嘩はやめてちょっと落ち着きましょうよ。三時ですよ、コーヒー淹れましょうか?」

 ふたりの不毛な口論に終止符を打ったのは沿島だった。白澤とひかるは顔を見合わせ、そして同時にため息をついた。

「わたしは凪のように落ち着いているが、まあコーヒーはもらおう」

「ぼくも最初から落ち着いてるし、喧嘩も別にしてないけど、コーヒーはありがたくいただこうかな」

 それから一同は脅迫状じみたクレームの紙を囲んだまましばしゆったりとしたひとときを味わい、その日はそこで解散となったわけである。

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