姉の晴れ舞台

白柳深戸

姉の晴れ舞台

 僕は、にやっとして、おどけて切り出した。

「なぁ、ちょっと自慢してもいい?」

「は? 何? まさか、カノジョか……?」

「ないない。もしできたとしてもお前には言わねーよ」

「なっ……まぁな、お前のカノジョが俺に惚れたら困るからなー」

「それもないな」

「冗談だっての! で、この写真何?」

「これ、うちの姉貴なんだよね」

「ドレスに……教会?」

「だから、結婚式の写真だってば」

「うっそ、結婚したのか! おめでとうって、今度伝えておいて。いやぁキレイだなー、かわいいなー、ホントお前とは大違い」

「仕方ねぇだろ、姉貴は母さんに似たんだよ」

「つーか、俺にも連絡くらいしてくれよ! 幼なじみなんだからさぁ」

「ごめんごめん。沖縄で挙式だったからさ、遠いだろ?あと、相手の人が親族だけでやりたいって急に言い出してさ。ま、身勝手だって言われたら、それまでだけど。

 そうだな、お前も姉貴とは仲良かったからな。まじで、ごめん」

「んな、深刻な顔すんなって。仕方ないじゃん。ていうか、お前は大丈夫なのか? 小さい頃『おねーちゃんと結婚するから』とか、『おねーちゃんは僕のお嫁さんになるんだから』とか意地張ってたじゃん」

「人の黒歴史掘り起こすなよ……あーそうだよ、重度のシスコンですよ。でも、兄弟関係が険悪なのよりはましだろ?」

「開き直りやがって……まさか、お姉さんのデート尾行したり、旦那の身内調査とかしてないだろうな」

「やったけど、すぐ姉貴にバレました。だから、すぐやめました。あーくそっ、どこの馬の骨とも知らねーやつが……」

「犯罪一歩で手前だからな、ストーカーだからな? やめとけよ?」

「はいはい、わかってますって。今は結婚してよかったなーって思う。心から祝福してるよ。旦那サンめちゃくちゃいい人だったし。真面目で、誠実で、ちゃんとした商社勤めで。ま、姉貴が選ぶ人だから、いい人に違いはないんだけどさ。でも……」

「なんだよ、はっきり言えよ」

「やっぱ寂しいよな! 式場で序盤から泣いちまって……親よりわんわん泣くから、めちゃくちゃ心配されたよ。姉貴ももらい泣きしちゃうし、旦那サンは反応に困っちゃってて」

「やる思ったよ、バカ弟」

「うっせーな……だから式はドタバタ。で、姉貴のハレの日を素直に祝えなかった。一生に一度の大事な式を俺がぶっ壊しちゃったってわけ」

「盛大にやらかしてくれたな……」

「うっ……うぅ、姉貴、幸せになってくれよ」

「姉を思う気持ちは分からなくもないが……」

「そうかぁ?」

「ほら、泣くなって……ほら、俺にもねーちゃんいるだろ?」

「あ、あぁ。そうだったな」

「こないだ、ねーちゃんの式あったんだ。偶然、お前のお姉さんと同じ日に」

「そうだったんだな。でも、お前……」

「いや、うん、俺が一方的に避けてた。やっぱりデキのいい姉持つもんじゃないな。

 ねーちゃんは俺の何倍も頭が良くて、機転が効いて、明るくて友達も多かった。俺は小さい頃から口下手だったからさ、羨ましかったんだ。だからきつい態度とったんだろうな。劣等感を全部ねーちゃんのせいにして自分を変えようとは思わなかった。

 けど、ねーちゃんは、あからさまに反抗した態度とってた俺によく笑いかけてくれた。俺の愚痴に朝まで付き合ってくれたこともあったし、忙しい時間を割いて勉強も教えてくれた。理想の姉ってあんなの言うんだろうな。

 今はすごく後悔してる。ねーちゃんにも期待からの重圧で苦しんでたっていうのに。あんな、安心した表情見ちゃったら……俺だって、悲しくなるよ」

「……それで?」

「脱線したな、式のことだった。そりゃ花いっぱいの、淡い光に囲まれた───そうだな、いい言い方が見つからないけど、夢みたいな会場だったよ。

 ねーちゃん、庭いじりが好きで花育てて。あ、そうだ、近所ではうちの庭有名だったんだぜ? プロの園芸師雇ってるのかって。俺もそんな金あるわけないだろって言い返してた。

 俺んちの庭、元々同居してたバァさんが作ってたんだけど、五年前に急に倒れてそのまま眠るように……ってわけだ。おばあちゃん子だったねーちゃんは、バァさんが作ってきた庭をおじゃん(点々)にしたらだめだ、このまま荒らしちゃったら、おばあちゃんがお盆にうちに帰ってきても分からないでしょ、って必死になって。その剣幕に負けて勝手にしろって言ったら、上京先から突然帰ってきて実家暮らし始めたんだわ。会社はそのまんまなのにさ、2時間かけて会社行ってたよ」

「そうか……大変だったな」

「あぁ、ほんとにバカな姉だったよ。朝も夜も飯作ってくれてさ、弁当も気づいたら用意してあったし。仕事忙しいのにさ。いつか倒れんじゃないかって本気で心配してた。いいよ俺がやるって言っても、おばあちゃんもいなくなって両親も海外出張でいないんだから、私があんたの支えになんなきゃダメなの! なんてさ。

 でもねーちゃんの帰りが遅い時、軽く何か腹に溜まるもの作っとくと、姉さんめちゃくちゃ喜んでたなぁ。庭で取れた野菜使った炒め物も、俺料理苦手だから絶対まずいはずなのに、口いっぱいに頬張って美味しいって…」

「泣くなよ」

「ごめん、込み上げてきちゃって。ねーちゃんの式はさ、ちょうど両親が海外出張から戻ってきた時やったんだよ。

 キレーな化粧にキレーな白い服でさぁ。なんかこういうナチュラルメイクも似合ってるな、とかなんでいままであんな濃いメイクして会社勤めしてたんだろう、とか。

 俺って無力だな。なんかできたんじゃないかって、もっとねーちゃんに返せるものがあったんじゃないかって毎日、毎日考えるんだよ」

「考えても、それは仕方ないことだろ」

「俺はまだ、そうやってきっちりねーちゃんを切り離せないんだ。完璧過ぎたんだねーちゃんは、もっと周りに助けを求めるべきだったんだ」

「そう、だな」

「ねーちゃんは『頑張り屋さん』っていつも言われて育ってきたんだ。俺はずっとそれが褒め言葉だって思ってた。

 でも実際、『頑張り屋さん』のレッテルを貼られたねーちゃんはずっとどこかへ逃げ場を探してたんだ。『頑張り屋さん』と一度でも呼ばれてしまったら頑張ることが、苦しむことが当たり前だと本人は思ってしまう。周りだってそれが普通なんだと思い込んでしまう。

 結局、『頑張り屋さん』の頑張りを評価してくれる人はいないんだ」

「これからは、どうしていくんだ?」

「わからない。でも、そうだな、庭の手入れは続けようと思う」

「俺も手伝うよ」

「ありがとう、だけど」

「気にするなって」

「気にするな?」

「え?」

「お前、最初から知ってたんじゃないか?」

「は、何が?」

「お前のお姉さんの式に俺を呼ばなかったのは、ねーちゃんが自殺したの知ってたからだろ」

「は……? 最初に言っただろ、沖縄は遠いし、先方の親が」

「違うだろ」

「決めつけるなよ、僕だって」

「違う、違う! おかしい、どうして嘘吐くんだよ!」

「……なんだよ」

「なんで俺のねーちゃん死んだこと知ってたんだよ、おかしいだろ! 大学のやつらにも言ってないし、親戚にすら言ってない。姉さんのことは黙ってようと親とも話したし、会社にも事故に遭ったって報告したんだ。あとは姉さんの友人関係には時期を見て話そうって決めて」

「そんな、僕は何も」

「そんなわけないだろ! どこで、どこで聞いたんだ!」

「落ち着けって」

「落ち着けるかよ! てめぇ、ねーちゃん死んだやつの前でよくお前のお姉さんの写真見せれるよな」

「それは、知らなくて」

「知らなかったら許されるのかよ、ふざけるのも大概にしろ! ねーちゃんは、ねーちゃんは、あんなに頑張ってたのに、どうして。それに、それに……」

「……それに?」

「ねーちゃんは安らかに眠って、バァさんと天国で会って、もうあんな会社忘れて。俺の、こと、だって」

「もういい、もういいよ」

「……ごめん」

「謝るな、謝らなくていい。お前の気持ちは分かってる」

「ほんとにごめん、誰かにこの鬱憤をぶつけたいだけなんだ。理不尽で、不条理で…なんでねーちゃんが命捨てなくちゃいけなかったんだよ…」

「お前の姉さん亡くなったのは、お前のご両親から聞いた。ご両親には、前から僕の姉貴が結婚すること伝えてたんだ。式の日にちが近くなったら言おうと思ってた、お前をビックリさせたくて。

 お前のご両親から電話がかかってきたのは───お姉さんが亡くなったのを知ったのは、結婚式の招待状を出す直前だった。まぁ……そもそも、式近くなってから姉貴の旦那サンの方が親族のみで挙げたいって言い出して、招待状全部パーになっちまったんだけどな」

「ごめん、ほんとに、ごめん」

「いい、いいよ。僕でいいなら愚痴も八つ当たりも全部聞く、受け止める」

「ごめん、ねーちゃん。俺、なんにもできなくて」

「一緒に行こうな、お前の姉さんの墓参り」

 その後もバカ姉のバカ弟はしゃっくりをあげながら、泣きじゃくっていた。僕は、大丈夫だ、大丈夫だと呟きながら背中を撫でてなだめる。

 落ち着いたところで、トイレ行ってくると言い残して部屋を出た。

 日の光が淡く差し込む廊下を歩いて、何枚か扉を開けた。厳重に施錠されているものも多かったので、看護師を呼ぶ場面もあった。最後の自動ドアが開くと、眩しいほど照らされた待合室のベンチに、初老の男性が肩を落として座っていた。

「どうでしたか、あいつ」

「すみません。あの、その」

「いや、謝るのはこちらの方だ。すまないな、友人とはいえ呼ぶべきではなかった。あんな悲惨な光景を見させてしまってすまない、申し訳ない、なんと言えばいいのか……」

 深くお辞儀をする男性を止める。

「いえ、あ、あの、あいつの顔見れて安心しました。生きててよかったです」

「生きててよかった、か。生きていたとしても、あいつは今幸せなんだろうか。あぁいや、自分の子どもに対して言う言葉じゃないな。流してくれ」

「深く考えすぎもよくないと思います。お父様の言いたいことも僕……あっ、私は理解できますから。すみません、赤の他人が知ったような口を」

「『僕』で構わない。丁寧過ぎるのは嫌いだからね。どうだい、少し話さないかい? 隣に座るといい」

「ありがとうございます」

 それから、どう話を切り出したものかと悩んでしまって、二人で沈黙してしまった。意を決して尋ねる。

「僭越ながら、いつからなんですか?」

「それは」

「す、すみません! 答えにくいことをずけずけと」

 失言を自覚し、思わず立ち上がって謝った。いくらなんでも単刀直入すぎる。

「やっぱり、僕帰ります。申し訳ありませんでした、何もできなくて」

 荷物を抱えて逃げようとする僕を、友人の父親が引き止めた。

「いや、君は知っておくべきだ。私も腹を括る」

 戸惑いながら先ほどのように隣に座ると、彼の父は静かな声で語り出した。

「そうだな。海外出張から急遽帰って来たのは、日本でしか対応できないトラブル処理をしなくてはならなかったこともあるが、一番の理由はあいつなんだ。電話もメールもどこかおかしくて。いるはずのない同居人と暮らしているような口調というか」

「それが『ねーちゃん』ですか」

「あぁ、最初はゲームやらアニメやらのキャラクターだと思っていたんだ。だが妙なリアリティと鮮明な体験に背筋がぞわっとして、帰国してきたんだ。胸騒ぎというか、虫の知らせと言うべきか。

 家に入った時は驚いたよ、庭は荒れ放題だし、キッチンはぐちゃぐちゃと食器が積み上がっていて、冷蔵庫は空、洗濯もしばらくしていないようだった。あいつによると『ねーちゃん』がやってくれるからだとさ。一体どんな悪い冗談かと思って茶化すと、必死な顔で『ねーちゃんを侮辱するな!』と捲し立ててくる。

 話を聞いてくうちに、息子の想像で作り出した『姉』だと分かってきた。

 いや、分かってなかったからこうなってるんだな。私は息子を頭ごなしに叱って、そうやって嘘ばかり吐くからバイトも上手くいかない、大学も留年したんだと怒鳴り散らした。ひどいことをした、ちゃんと最初から話を聞いてやればよかったんだ。妻も優しくどうしたの、何かあったのと息子の両肩を掴んで聞き出そうとした。

 が、今まで見たことがないくらい感情的になって、あいつは言い返してきた。ねーちゃんはいる、ねーちゃんはもうすぐ帰ってくる、ねーちゃんは、ねーちゃんはって。幼い頃からずっと一緒に暮らしてきたみたいに言うものだから、私たちも戸惑ってしまった。

 あいつは一人っ子なんだ、そんなおかしいことあってたまるものか、と毎日あいつと大喧嘩して、元のあいつに戻って欲しいと願った。当然、事態は全く変わらなかった。

 ある日痺れを切らした妻が大声で叫んだんだ。

『姉さんは死んだじゃない、自殺したのよ。もうここにはいない!』

 とさ。驚きはしたが、私もそれに乗じて

『そうだ、あいつは死んだんだ! もう葬式も終わっただろう!』

 と言い放った。あれはいくらなんでも言っちゃいけなかった。すると今まで赤子みたいに騒いでいた息子が、口をあんぐり開けてへたり込んだんだ。久しぶりの我が家の静けさに目眩(めまい)がした。

 それで、

『そうか、そうだったのか、自殺…』

 なんて言って、台所へふらふら向かうと包丁を持ち出して刃先を自分に向けたんだ。まさか、そこまでとは思わなかった。咄嗟に私が片手を押さえつけ包丁を落とすと、息子は半狂乱になって喉が潰れるんじゃないかと思うくらい叫んでな。震えながら、妻は受話器を手に取って警察に連絡した。

 それから数日後ここに運ばれた。精神病棟には鍵がかかってる部屋も本当にあるんだな、ドラマの世界だけだと思っていたよ」

 思わず、僕は目を逸らす。

「他人事みたいに聞こえるかな。なら、その通りだ。現実から目を背けたいんだ、きっと。私たちがあの子を一人にした。大丈夫だ、数年前の出張も一人で大丈夫だったんだからと日本に取り残したまま、仕事のせいにして勝手に家を出てきてしまった」

「あいつの……祖母は」

「そんな話もしてたのか。あいつは昔からおばあちゃん子でな。一緒に歌ったり、庭で花の名前を教えてもらってたり、なんでもかんでも真似して、疲れて眠り込んでしまうくらい遊んで」

「……どうしましたか」

「そうだな、そうだよな、今まではおばあちゃんがいたからあんなに明るく……すまない」

 鼻をすすりながら号泣する男性の背中は、いくぶんか小さく見えた。居た堪れなくなって、友人の父親にに一礼し僕は精神科病棟を後にした。

 

 小学生の時、僕は転校生として友人のクラスにやってきた。

 クラスになかなか打ち解けられなくて、一人で逃げるように普段読みもしない本を開いていた僕に、友人は気さくに話しかけてきてくれた。ムードメーカーでクラスのリーダー的存在で、僕には到底敵わないあいつ。ざっくばらんとしていて、よく笑っていて、きっとこいつには悩みの欠片も無いんだろうなと思っていた。二人で美化委員をやった時は、不器用な僕のサポートをしてくれた。僕が姉貴の自慢をすると困った顔で、やれやれまたその話かと苦笑いしながら聞いてくれた。ねーちゃんいるっていいな、と言われると自分の姉が褒められたようで嬉しかった。

 僕が姉の話をするのと同じくらい、あいつも祖母の話をしていた。今どきこんなに優しい孫がいるのか、親孝行ならぬ祖母孝行か、と頷きながら聞いていた。祖母の話をする彼はとても楽しそうに見えた。

 そこから高校まで僕らは同じ学校だった。喧嘩なんて一度もしたことがなかった。

 勉強もそこそこできる奴で、僕が世界史で赤点を取った時はつきっきりで教えてくれた。テストの順位、あいつと僕とは天と地の差だったな。単位落とす寸前の僕の身を案じて、たびたび勉強会開いてくれたっけ。大学決まった時も親の次に喜んでくれたのは、あいつだった。あの泣き顔は傑作だったな。

 ───いい思い出しかないんだ、胸を締め付けるくらいに。

 最高の親友だ。僕の人生で最初で最後の親友に違いない。だから、姉貴の結婚式にも呼びたかった。だけど招待状を投函する直前、あいつの両親から電話がかかってきて、あいつが精神科に入院したと聞いた。あんなに明るかったあいつが、そこまで自分を追い詰めていたとは全く知らなかった。

 親友失格だ、あいつのSOSにも全く気づかなかった。

 姉貴の写真を持参したのは、姉と祖母を互いに競うように話したあの頃を思い出して欲しかったからだった。昔みたいに喋りたかった。だが、それは僕の単なる思い上がりで、結果的に逆効果だった。結局あいつをさらに傷つけることになってしまった。情けない。

 僕はずっと、あの無理した笑顔しか見てなかったんだ。バイトで疲れてると言っていた時も、勉強が上手くいってないとぼやいていた時も、僕は笑って誤魔化すことしかしなかった。そういえば、大丈夫か、なんて一度も気遣ったことなかった。

 あいつを見捨てたのは、紛れもなく僕だ。

 あいつの言う『ねーちゃん』は、あいつ自身のことなのだろう。『ねーちゃん』という理想を積み上げて、その理想に苦しみながら、なんとか自分を騙してきたんだ。そんなことも見抜けなかった。

 僕は友人の数ある一面しか見てなかった。僕が友人だと思っていたのは、彼自身ではなかった。

 どうして応援する言葉は『頑張って』しかないのだろう。頑張れと言われたら、頑張るしか選択肢が無くなってしまうのに。

 ふと脳裏にあいつの無邪気な笑顔が浮かぶ。なんのしがらみもなく、ただ楽しかった在りし日の記憶。現実で起きたことなのか、自分を守るために勝手に作った思い出なのかは分からない。絶対にそういうことがあったとは、もう言い切れない。過去のことなんて、不確かで、曖昧で、嘘ばかりだ。

 だが、多分、全てが間違いだということもないはずだと信じたい。彼の中にもきっと、子どもだったあの頃の記憶が残っているはずだ。違う、これは残っていてほしいという願望に近くて。

 もし、願わくば、こんな鈍感で最低な僕でもいいなら。

「どうか、親友でいさせてほしい」

 掠れ切った声が喉を震わせる。押し付けがましいけれど、これが僕の精一杯だ。

 今度病室に行ったら、こう伝えよう。頑張らなくていいんだ、君はそのままでいいんだ、と。


§


 ここの病院に赴任してきてから数ヶ月後、精神科の病室が一つ空いた。なにぶん、珍しいことではない。ただ、あの時は、『頑張れなかった』だけだろう。

 ただ、一つ気がかりなのは───

「ねぇ、あの人また来てるの? まーね、ご友人が急にあんなことになっちゃったんだからねぇ。彼ももうすぐうちに来るんじゃない?」

 同僚が冗談めかして囁く。どうでしょう、と私は困ったように笑って返す。病室を覗くと、空いたベッドに話しかける青年が目に写った。

 気がかりなのは───亡くなった彼の友人が、今もお見舞いに来ていることだろうか。

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