第28話 心象世界(沙条真琴) 第一幕

「……ん、あれ。ここって」


 寝起き直後のような頭がぽわぽわする感覚に襲われつつも、私は周囲をキョロキョロと見回して状況の把握に努める。心象世界の移行には問題なく成功したようだけど、主たる沙条さんの姿はなかった。目の前にあるのは近代的で無機質なデザインを湛えた大学病院だった。レンガ敷きの舗装路がエントランスまで伸びていて、それを彩るように植木の葉桜が両脇に立ち並んでいる。今の季節は現実のそれと同じく夏で、透徹のブルーの空に、ギラギラと輝く太陽が存在を主張していた。


「真琴の入院していた帝付病院だね。多分、真琴は病室で待っているんだと思う」


 私の右隣に現れた瑞稀が、平然とした顔つきで言う。カナもいつの間にかこちらの世界に姿を表していて、どこか嬉しそうな面持ちで瑞稀の横顔を見上げていた。


「なら案内してもらっていい、瑞稀さん? それにしても、瑞稀さんと誰かの心象世界に行くのも久しぶりだな。またこうして一緒に来られて、嬉しい」


 憧憬のこもった微笑を向けられた瑞稀が、そうかな、とクールな容貌のまま返す。私はそんな二人のやり取りになんだかヤキモキしてしまって、ほら行こ、とカナの手を取ってずんずんと歩き出す。


「ちょっと澪? 私達じゃ沙条さんの病室の場所、わからないよ?」


「そうだよ澪ちゃん。先陣は私が切るから、二人は大人しく付いてきなよ」


 両者から窘められるように言われて気恥ずかしくなった私は、カナの手を離してしまう。瑞稀はそんな私の内心を見透かすように哄笑しながら前に出た。が、その追い抜きざま。


「――安心したよ。ちゃんと仲直りしてくれたみたいで。私に何かあったときにあの子のことを支えられるのは、澪だけだからね」


 私にだけ聞こえるくらいの声量で、瑞稀は意味深な言葉を残していった。


 待って。今の発言は一体、どういうことだろう。なんで瑞稀が、私とカナが仲違いしていたことを知っているのだろうか。……あ、もしかして。


 その可能性に思い至った瞬間、私は心の奥のほうが瞬く間に冷え込んでいくのを感じた。


 多分、そうだ。カナは私との仲を拗らせてしまったことを瑞稀に相談して、瑞稀からのアドバイスを元にあんな行動をとってきたんだ。私の額と額をくっつけながら内心を吐露するという、あのこっ恥ずかしい仲直りの方法を。瑞稀に言われたから、という理由で。


「澪? どうしたの? そんなところで突っ立ったままでさ。置いていかれちゃうよ?」


「……あ、うん。ごめん、今行く」


 私は慌てて歩きだし、カナよりも一歩下がったところをつかつかと歩いていく。カナの黄金色の髪の毛は強い日差しを照り返していて、見てると目の奥が痛かった。私はカナから視線を逸らしつつ、カナは私の手を握ってくれたりはしないんだな、ということをぼんやりと考えた。


 エントランスに足を踏み入れた瞬間、院内からは異様な冷気が波濤のように流れ込んできた。背中を冷えた指先でつー、となぞられるような気味悪い悪寒。私達は足を止めて中を見回す。


 だだっ広く開放感のある受付口からは、何故か照明が消えていた。窓には全てブラインドが下ろされていて、日光は遮られている。整然と並べられたソファはやけに古びていて、皮が破れて中のクッションが露出しているものが目立った。吸い込んだ空気からは若干のカビ臭さや埃臭さも漂ってきて、私は顔をしかめた。……なんだろう。この、筆舌に尽くしがたい気持ちの悪さは。普段なら患者や看護師たちで溢れかえっている大病院のエントランスがやけにひっそりとしていて、それに違和感を覚えているだけなのだろうか。


 チラリとカナの横顔を窺うと、事件現場を検分する探偵のような怜悧な容貌で院内を慎重に見回しているところだった。エントランスの中央部で黙念と佇んでいた瑞稀が、「こっちだ」と階段に向かって歩き出す。瑞稀には別段、尻込みしたりする様子はない。私はどことなく不安な心持ちになりながらも、おずおずと瑞稀の後を追う。


 カツ、カツ、カツ、と。三人分の乾いた足音が階段内でやけに反響して聞こえる。こちらはエントランス以上に薄暗く、胸中に巣食う嫌な予感は更にむくむくと膨れ上がっていく。


「……ねえ澪。なんかここ、ちょっと雰囲気変じゃない?」


「う、うん、私もそう思う。……何て言うんだろう。喩えるなら、ホラーゲームで廃病院を探索しているときみたいな気分っていうか――っ、な、何⁉」


 ドンッ! ドンッ! ドンッ! 頭上から凄まじい物音が鳴り響く。まるで何かの大群が荒々しく床を蹴りつけながら、大挙してこちらへ押し寄せて来るみたいな、異様な響き。


 私とカナが硬直したまま顔を見合わせていると、瑞稀は立ちどころに腕を振るって細長い武器のようなものを出現させた。大型のスコップだった。


 なんでスコップが、と困惑したのも束の間。踊り場の向こうから謎の人影が勢いよく飛び出してきた。瑞稀がスコップの先端を素早く横一文字に振るうと、その人影は勢いを殺すことなく正面からその場に倒れ込んだ。同時に、何やら球体のようなものがこちらに向かって飛んでくる。ぐちょり。異様な音とともに私の足元へと落下した。反射的に目をやると、それは。


「……い、いやぁぁぁぁぁ⁉」


 切断された人間の生首だった。私が驚愕してけたたましい叫び声を上げている間にも、聞こえてくる足音はなおも激しさを増していく。バクッ! バクッ! バクッ! と異様に激しくなる心臓に合いの手を打つように、ドンッ! ドンッ! ドンッ! と物々しい足音が絶え間なく鳴り響く。私は一瞬でパニック状態へと陥って、その場に腰を抜かしそうになる。が、そんな私の腰をカナが腕で支えてくれた。落ち着いて、と俄に強張った声で呼びかけてきて、それで私も多少の平静さを取り戻すことができた。荒れていた心臓が、少しずつ落ち着いていく。


「よく見て。これ、ただの生首じゃない」


 本当は二度と視界になんか入れたくなかったのだけど、カナに促されるがままに恐る恐る生首へと視線を落とす。と、皮膚が苔のような緑色へと変貌し、全体的に膿んでいるみたいにジュクジュクしているのに気づく。謎のねっとりした体液にまみれてテカテカしていて、落ち窪んだ眼窩にはめ込まれた眼球は正気を失ったようにギョロリとしている。


「これって……もしかしてゾンビ? うっわ、生で見るとメチャクチャ気持ち悪い……」


 私は思いっきり顔をしかめる。生首の正体が判明したことで多少は恐怖が和らいだ反面、ツンと鼻を刺す異臭を放つ生首への、生理的な嫌悪感がとめどなく押し寄せる。


「二人共、さっさと下へ降りて! あれは戦って対処できる数じゃない! 殿は私が務める!」


 上階を覗いた瑞稀が軽やかに踵を返し、階段を下りだす。


「行こう、澪……!」カナがくるりと身体の向きを変える。私もそれに倣って、二人して二段飛ばしで階段を駆け下りていく。……いやでも、ちょっと待て。何だ、この状況は。


「急にゾンビが出てくるとか、どういうことなの……っ⁉ というか私、スニーカーじゃなくてショートブーツなんですけどっ! すっごい走りにくいんだけど!」


「文句言ってないで、さっさと逃げる!」背中で瑞稀の叫びを受ける。


「でも、逃げるって言ったって、どこに⁉ そもそも沙条さんはどこにいるの⁉」


「多分だけど、地下だ! 地下の霊安室!」


 えぇ? 霊安室って、どうしてそんなところに……? が、当惑する私とは対照的に、カナの方は冷静だった。「了解です」と端的に返事をしながら猛然と地下へと走る。


「霊安室って、どうしてですか⁉ だって沙条さんの病室は、上の階だったんじゃ……!」


「そうだけど、この状況を鑑みるにあいつがいるのは霊安室だ! 澪ちゃん、折角だから教えておくとね、心象世界にはその人の心の在り方が反映される。ゾンビものの世界になったってことは、そこに何らかのメタファーが含まれているってことだ。それを加味すれば、自ずと答えは――っ⁉ うわっ、なんか首筋がねちょっとした⁉ おいこら、話の途中で邪魔するなっ!」


 瑞稀はスコップを大振りしながら身体を反転させる。ついでにゾンビの大群の先頭集団へと盛大な回し蹴りをお見舞いする。ゾンビはたちまち体勢を崩し、ドミノ倒しが起きる。死ぬ気で走ってゾンビ雪崩に巻き込まれるのを回避する。


「ねえ、瑞稀さん! 下に行くのはいいんだけど、なんでこんなことになってるわけ⁉ だって瑞稀さんと沙条さんは、話をするはずだったんじゃ……?」


 走りながらカナが質問を投げかける。それは私もしたかった問いかけだ。二人で落ち着いて対話をするはずだったのに、どうして三文パニック映画みたいにゾンビに追いかけられる羽目になってるというのか。率直に言って、わけがわからない。というか、勘弁して欲しい。


「はぁ? なわけないだろ?」瑞稀は凍てつく炎の宿った冷徹な瞳で、階下を見据えた。


「あいつは最初から、私達を心象世界で襲うのが目的だったんだよ。二人共、気づいてなかったわけ? よっぽどお人好しなんだね。真琴の言葉を素直に鵜呑みにするなんてさ……っ!」


 一番下の階まで降りきって廊下へと躍り出た瞬間、左手にある部屋の中へとカナもろとも瑞稀に突き飛ばされた。倒れ込みそうになる私のことをカナが支える。が、カナの目線は真っ直ぐ廊下の奥へと駆けていく瑞稀の背中へと向けられていた。


「ま、待って! じゃあ瑞稀さんは、それを承知の上で心象世界に足を踏み入れたってこと⁉」


「そうだ! そっちに真琴の霊魂が渡った以上、この手で真琴の息の根を止めるにはこうするしかなかった! 私からも真琴からもいいように使われただけってことだよ、カナ達は!」


「っ、そんな……⁉」カナが息を呑む。その精緻な顔立ちに、悲哀の色がじわじわと滲み出す。


「……どうして? どうして、こんなことをするの? だって二人は、昔からの友達で……」


 カナが弱々しい声で瑞稀の背中に語りかける。だけど私はというと、やっぱりな、とやけに得心のいった気持ちになっていた。瑞稀があんなにも物分りのいい態度を取っているのは、嘘くさいと思っていた。瑞稀は改心したように見せかけて、沙条さんの心象世界に足を踏み入れたかっただけなのだ。そうしなければ、私達の霊具に憑依させている沙条さんを回収することが叶わないから。


 でもその一方で、沙条さんの方がこんな暴挙に出てきたことには、少なくない衝撃を受けていた。そもそもあの人は一体、何を目的にして私達をゾンビに襲わせているというのか。

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