第23話 哀しい別れにはさせません。

「――とまあ、うちと瑞稀との馴れ初めはこんなとこやな」


 家に帰ると、私とカナはマックでテイクアウトしてきたハンバーガーをもっさもっさと貪りながら、霊魂の少女から諸々の事情についての説明を受けていた。


 少女の名前は沙条真琴。享年は十六歳。瑞稀とは高校時代からの友人で、死因は心臓病に起因する不整脈。瑞稀が車内で私に語ってきた昔話に登場した、同級生その人だった。


 どこまで聞き及んでいたのかは知らないけれど、瑞稀に病気で亡くなってしまった友人がいたという事実はカナも認知していたらしく、さして驚くことはなく落ち着いて話を聞いていた。


「要するに、瑞稀さんと沙条さんは高校時代の友人だった、と。でも、だとしたらどうして瑞稀さんは、沙条さんのことをあんな形で回収しようとしたんですか? ……そんなこと、するような人じゃなかったのに」


「そんなの、うちが知りたいわ! ……と、言いたいところやけど。まあ、あいつのことや。なんとなくの事情くらいは、わかるわ。憶測で良ければ、聞かしたる」


 沙条さんは自らを抱きすくめるみたいにして両腕を組みながら、そっと視線を脇に逸らした。


「そもそもの話やけど、うちが一時、荒御魂っちゅうんになってしもうたのは、あんたらも知っとるよな? 実を言うと、その原因は瑞稀と会うたことやねん。……十六歳の春に死んだうちは後悔とか未練とか無念とかを色々と募らせてしもうとって、それで成仏できずに、あの病院の敷地に霊魂としてずっと留まっとった。六年間の間、ずっと。たった一人でな」


 六年、か。突きつけられた歳月の重みに、私は胸の詰まる思いがした。老い先短い壮年の者ならともかく、たかだか十六年しか生きていない私にとって、その年月は永遠にも思えるほど長大なものとして感じられる。そしてそれは、私と同い年で亡くなってしまった沙条さんにとっても同様なのだろう。


 たとえ心残りがあったとしても、世界に干渉することも干渉されることもない定点カメラのような日々を過ごし続けて、それでも胸中の思いを風化させずに保ち続けるのは容易なことではない。人は忘れる生き物だ。だって、そうじゃなきゃ辛いから。いつまでも一時の感情に囚われたままでいれば、前に進めなくなってしまう。だから忘れる。もういいや、と燻る思いに見切りをつけて、何事もなかったかのように再スタートを切る。私達はそういう適当な価値観の下で生きていて、そうじゃなきゃ生きていけなくて。でも霊魂たちはそれができなかったから、死してなおもこの世界に留まったままでいて。


 その理由は、恵美さんの場合は妹である真澄さんだった。そしてエアさんの場合は、なんとも陳腐――とか言ったら多方面から怒られそうだけど――ではあるものの、百合だった。そして今、目の前で切々と事情を語っている彼女は、一体どんな感情を抱え込んでいるのやら。


「だけどな。丁度、今年の冬のことやった。瑞稀はな、霊魂と化したうちに会いに来てくれたんや。あのときは、ほんまに嬉しかった。……そう。嬉しかったんや」


 喜びと憎しみ。哀しみと怒り。様々な相反する感情がごちゃまぜになったような声音だった。


 瞬間、私は息が詰まるような思いを味わった。ここに来てようやく気がついたのだ。この二人が直面したであろう、あまりにも残酷な逃れられない運命に。


「――なのに瑞稀は、うちを殺そうとしたんや」


 水仙のように純白の手のひらを、ひび割れんばかりに強く、きつく、小刻みに震わせながら握りしめる沙条さん。俯けられた顔面は垂れ下がった前髪に覆い隠されていて、彼女の表情を覗き見ることは叶わない。


 カナが、あ、と小さく息を漏らした。沙条さんは脆そうな首筋から細い、震えた声にこみ上げてくる感情を乗せながら、滔々と言葉を続ける。


「瑞稀は、うちを霊魂回収とかなんとかいう下らない理由で殺そうとしたんや。うちはそれが許せへんかった。だって、そうやろ? 折角会いに来てくれたのに、最終的にはうちのこと殺さなあかんって言うんや。そんでうちは、もう頭にきてしもて、裏切られたようにしか思えんくて、ふざけんなやってブチ切れて――。後は、あんたらの方がよう知っとるやろ。うちは無我夢中やったからよく覚えてへんのやけど、確か、タタリ事件とか呼ばれとるんやったっけ」


 嵐のような激情が嘘だったかのように、乾いた表情でふっ、と息を吐き捨てる沙条さん。


「瑞稀は、ああ見えて責任感が強いんや。うちを荒御魂にさせて騒動起こしてしもたことを気に病んで、責任取ろうとしとるんやろ。なあ、チンチクリン。あんた、なんか勘違いしとったみたいやけど、うちらは話し合いもせずにああなったんとちゃう。むしろ、話し合うたからああなったんや。……うちは絶対に瑞稀のことを赦さへんし、赦せへんと思う。だから、これが今のうちの未練や。うちをこの世に繋ぎ止めとる感情は、瑞稀への尽きることのない憎悪。それだけや」


 沙条さんは髪の毛と同じブラウンの両眼を研ぎ澄まし、炯々とした憎しみの光を放つ。部屋の中に沈黙が落ちる。私とカナは沙条さんの話と言葉の節々から伝わってくる濃厚な感情に圧倒されて、夕食のハンバーガーを食べることなんてすっかり頭から抜け落ちてしまった。


 部屋の中に重苦しい沈黙がシン、と落ちる。なんだか食事をする気分になれなくて、私はまだ半分ほどが残ったバーガーを包装紙に包み直して、机の端っこの方にそっと置いた。カナもそれに倣って、バーガーを置く。


 私達が居住まいを正すと、「なあ」と言って、沙条さんは試すような視線を私達に向けてきた。


「あんたら、死んだ霊魂の未練を晴らす手伝いをしてくれるんやってな。……なら、うちの願いも叶えてくれるか?」


 私とカナは無言で顔を見合わせる。手のひらが汗でじっとりと湿っていくのを感じた。でも室温が高いなんてことはなく、首筋を撫でていくエアコンの冷風はむしろ肌寒い。


「……善処はします。でも、お願いの内容によっては、その限りではありません。取り敢えず、言ってみてください」


 カナはキュッと唇を引き締めながら、毅然とした態度で問いただす。すると沙条さんは、ゆっくりと桜の花びらのような薄い唇を開いて。


「なら――、うちのこと、殺してくれへん?」


 唇をぷるぷると震わせながら、押し出すようにして沙条さんが口にした。私とカナはえ、と驚きの声を出す。沙条さんは瑞稀のことを恨んでいると言った。てっきり、瑞稀に対する報復か何かを依頼してくるものと思ってたのに。


「……あ。一つ言うておくと、これは別に瑞稀のためとちゃうから。瑞稀にうちのこと殺させるの酷なんとちゃうかなとか、うちに会うても罪悪感刺激するだけなんとちゃうかなとか、そういうこと考えとるわけやない。これがうちなりの、瑞稀に対する復讐なんや。……だってあいつ、うちのこと殺そうとしとるんやろ? ふん。あいつなんかの手で人生、いや、霊生終わらせられるのなんて、真っ平御免や。あんなやつの思い通りになんかさせとうない。うちのこと殺させてなんか、絶対にやらへんわ」


 胸の底から湧き上がってくる感情を、切れ味の悪いナイフで力づくに押し殺したみたいな声だった。聞いているだけでも痛ましさに言葉を失ってしまいそうになる。


「待って、ください。……あの。沙条さんは一つ、大切なことを隠していますよね」


 私は絞り出すようにして言いながら、腕も脚も首筋も、身体中の至るところが病的に思えるほど細くって、この上なく弱々しく見えるその子に向かって、問いかける。


「沙条さんの今の未練は、瑞稀さんに対する怨恨。そして目的は、復讐。それはわかりました。でもそれはあくまでタタリ事件以後の話ですよね? それよりも前、亡くなってから再び相対するまでの時間は、一体どんな思いを燃料にして現世に留まり続けていたんですか?」


「……っ、それは」痛いところを突かれた、とでも言いたげに沙条さんが顔を背けた。


 私は畳み掛けるように、でも強い物言いになりすぎないよう言葉を選んで、続ける。


「沙条さん、話してみてください。……言葉にしない感情は、そのまま誰からも忘れ去られて、消えていってしまうだけです。最初から、どこにも存在していなかったみたいに、静かに」


 しばし、場を静寂が支配する。私とカナは返事を催促することなしに、ただひたすら、沙条さんが何か言ってくれるのを待っていた。


 壁にかけたアナログ時計が秒針を進める音を、何度聞いた頃だろう。


「うちは……うちは、瑞稀にもう一度、会いたかったんや」


 沙条さんは顔面を両手で覆うと、擦り切れて掠れた声で嗚咽混じりに語り始めた。


「あいつの顔もう一度見とうて、もう一度話がしとうて、もう一度……手、握ってほしくて、それでずっとずっと、待っとった。どうせ来へん、待っとっても意味なんかあらへん、何度もそんなふうに考えたけど……約束、しとったから。ほんで未練がましく馬鹿みたいにずっと一人で待ち続けとったら……あいつ、ほんまに来てくれたんよ。うちも馬鹿やけど、瑞稀も大概やわ。もう六年も経うてるのに、未だにうちのこと引きずっとって。……でも駄目やな、うちは。死んだ人間のことばっか考えるのなんて良くないことやのに、哀しいともあかんとも思えんくて、うちのこと追いかけてくれたのが、ほんまに……ほんまに、嬉しくて……」


 沙条さんの手のひらの隙間から、白色の煌めきを纏う水滴が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。


「だけど……いつまでもそんなこと言うとるわけにも、いかんのやろ? なら、ええ。もうええんや。うちはもう、瑞稀と再開するっちゅう目的は果たしたんや。なら消えなあかん。消えるべきなんや。これ以上この世に残っとっても、瑞稀のこと苦しめるだけやろうし……。なあ。カナと、それから澪言うんやったか? 二人でうちのこと、殺してほしいねん」


「嫌です。……だって。だって、そんなのってあんまりじゃないですか……!」


 ガタンッ! と勢い良く椅子から立ち上がり、机上の手鏡に顔を近づけるカナ。その横顔はただひたすらに真っ直ぐで、眩しくて、他人のことを思いやる美しさに満ちている。そんなカナの真っ直ぐな表情を、私は横目に見つめてしまう。


「そんな悲しい別れがあっていいわけないです! あなた、本当は瑞稀さんとまた会いたいんでしょ? 会って話がしたいんでしょ? なら、素直にそうすればいいんですよ! 瑞稀さんだって、本当はそうしたいのが目に見えてるじゃないですか。なのに、ここで私達が沙条さんのことを勝手に回収するなんて……いくらなんでも、そんなのってないですよ……」


 出会った当初に激しい憎まれ口の応酬をしていたのが信じられないほど、カナは沙条さんに切実な眼差しを投げかけている。その瞳に混じり気はなく、純情で廉潔な熱情に満ちていて。


「私は……私は、そんな哀しい終わり方なんて見たくない。瑞稀さんの新しいスマホと連絡先を交換しておいたので、呼び出そうと思えば呼び出せます。瑞稀さんの目的は、沙条さんを荒御魂にしてしまった責任を取るために自らの手で回収することなんだから、こちらに沙条さんの霊魂がいるとわかれば必ず応じてくれるはずです。……もう一度、話してみてください」


 沙条さんが、顔面を覆っていた手のひらをゆっくりと引き剥がす。まだ逡巡している様子ではあったが、赤くなった両目から流れ落ちる涙は、いつの間にか引いていた。


「で、でも……そんなことして、ええんかな。それって、うちの我儘とちゃう?」


「いいに決まってます」強い、けれど温かい、諭すような口調でカナは言う。


「二人には絶対に、もっと綺麗な別れ方があるはずです。瑞稀さんが沙条さんを殺すのでも、沙条さんが私達に殺されるのでもない。ちゃんと二人で気持ちを通じあわせて、心残りを晴らして、そうして散っていくような、そんな美しい別れ方が」


 沙条さんはしばしの間、押し黙る。けど、観念したかのように涙ぐんでいた両目を擦ると、口元に柔らかな微笑みを貼り付けた。


「そ、っか。そう、やな。……ん。なら、あんたらにお願いしても、ええ? うち、また瑞稀と会いたいわ。会うて、もう一度だけ話をしてみる。頼まれてくれるか、カナ?」


「はい、勿論です。沙条さんの願い、確かに承りました。私の矜持にかけて、絶対に叶えます」


「うん、ありがとうな。それにしても、カナって可愛い名前やな。なんか、カナリアみたいで」


 口元に手を当てながら、クスクスと上品に、それでいて軽やかに笑う沙条さん。改めて見てみると、儚げで触れがたい雰囲気が神聖さを連想させて、そこはかとなく絵になる少女だった。


「ちょ、なんですか、急に……。褒めても、何も出ませんからね。って、そうだ。今更だけど、澪もそれでいいよね? 瑞稀さんには私から連絡しておくから、明日、改めて二人に対面してもらうってことで」


「うん、構わないよ。だって私の目的は、カナの手伝いをすることだから」


 私はサラリと口にする。だって私はカナのあの純粋な笑顔に憧れたのだし、それがカナの望むことなら、お安いご用だ。沙条さんに本心を話すようけしかけたのだって、結局はそのためだ。なら私に、カナからの申し出を断る理由なんてない。


「――ねえ澪。あんたさ、今、本音隠してるでしょ?」


「……え?」唐突に口を挟んできたのは、エアさんだった。

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