第7話 線香の匂いは嫌いじゃありません。

 そして約束の一週間後、私とカナは二人の様子を確認するために真澄さんの自宅を再訪した。


 が、家に上がって麦茶を飲んでホッと一息ついたところで、「ねえ澪ちゃん、ちょっと付き合ってもらっていい?」と真澄さんが何の前触れもなく言い出した。「はぁ」と気の抜けた返事をした私は真澄さんに連れられて、あれよあれよと電車に乗せられ、乗り換えを経た後に名前も聞いたことのない小さな駅で降ろされた。そして今現在は、夏の日差しが燦々と照りつける屋外を、真澄さんの後ろについていく形で彷徨しているところだった。


「いやー、暑いねぇ」「そうですね」「あ、あんなところにかっちょいい木の枝が二本も」「凄いですね」「見て見て二刀流」「わーかっこいー」


 小学生男子みたいに二本の枝を構える真澄さん。変なところで子供っぽい人だと思った。或いは、私に気を使ってくれているのかも知れないが。


 一体どこに連れて行かれるんだろうなぁ、という至極真っ当な疑問を抱いている私を尻目に、黒スキニーにTシャツというシンプルな出で立ちの真澄さんは、実は剣道で二刀流は大学以降なら認められていて云々、といった剣道にまつわる薀蓄をほぼ一方的に語って聞かせてきた。さして興味のある話ではなかったけれど、相槌を打っているだけだったので苦ではなかった。


 十五分ほど歩いたところで、寂れた商店ばかりが目立った閑静な町並みの先に、趣のあるお寺が見えてきた。真澄さんがそのお寺を指差して、あそこ、と口にする。


 境内に足を踏み入れると、青々と葉を茂らせる銀杏木立に囲われた、平屋造りの伽藍が出迎えてきた。ずいずい進む真澄さんの後を追って裏手に出ると、そこはお墓になっていた。


 石畳の道を歩く。墓石たちは降り注ぐ強い陽光を反射して、ギラギラと輝いている。


 真澄さんは、小振りながらも真新しい花崗岩の墓石の前で足を止めた。「岸田家之墓」という文字が彫られている。強烈な日光と茹だるような暑さの外気に晒された墓石は存分に熱を溜め込んでいて、真澄さんが柄杓で水をかけると、じゅ、という音とともに湯気が立ち上った。


「こういう状況になった以上、お線香を上げるのもおかしな感じだけど、一応ね」


 真澄さんが線香に火を付けて供える。独特の、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。決していい匂いというわけではないけれど、嫌いではない。真澄さんに続いて私も、線香を供えた。


 二人並んでしゃがみこんだ後、合掌して目を閉じる。それが済むと真澄さんは立ち上がって。


「私、月に一度はお墓参り行くようにしてたんだ。本当はどうしようか迷ったんだけど、こういうのは習慣だからさ。今更やめるのも気が引けて」


「そうだったんですか。でも……その、どうして私を連れてきたんですか?」


「だって澪ちゃんって、お姉さんいるでしょ」


 驚いて顔をバッと上げると、「兄弟姉妹当てるの得意だから」と真澄さんは爽やかに微笑んだ。


「……真澄さんは、私が真澄さんと同じで妹だから、連れてきたってことですか?」


「ま、そういうこと。ちょっと、参考までに訊きたいっていうか、話したいことがあって」


 真澄さんの思わせぶりな物言いに私は小首を傾げる。ややあって、ちょっとだけ畏まった顔で真澄さんは話を切り出しきた。


「あのさ。こういうこと訊くのは不謹慎かもだけど……もし、澪ちゃんのお姉さんが亡くなってたとして、それが幽霊になって帰ってきたら、どう思う?」


 両腕を組みながら、ちらりと私のことを流し見てくる真澄さん。その質問に、私は胸の奥底をチクリと刺激されたような心地になって、目を伏せた。


「どうって……普通に嬉しい、ですけど。私のお姉ちゃん、凄く、優しかったから」


 唐突に、あ、という声が真澄さんの口から漏れた。それで気づいた。過去形を使った受け答えをしてしまっていたことに。真澄さんはそれで事情を察したのだろう。敢えて私とは目を合わせずに、ほんのりと白く霞む青空を睨みながら言葉を続ける。


「そっか。……でもね。私は、ちょっとだけ怖かったんだ。お姉ちゃんと顔を合わせるのが」


「え?」私は意外の念に駆られて、つい呆けた声を出す。確かに真澄さんはあの日、取り乱して恵美さんのことを拒絶してしまっていったけれど。


「恵美さんって、いい人ですよね? 傍から見てても優しそうだし。何が怖かったんですか?」


「……その。恨まれてるんじゃないか、って思って。これ、誰にも言ってないっていうか、言えなかったことなんだけど……私、お姉ちゃんに命を救われてるんだ。霊発事故のときに。だけどお姉ちゃんは、私を助けたせいで逃げられなくて死んじゃって。……それで私、ずっと罪悪感抱えてたんだ。お姉ちゃんは私のことを恨んでるんじゃないか、って」


 胸の底から絞り出すように口にして、真澄さんは静かに目を細めた。唐突に聞かされたあまりにも重い告白に、私は返す言葉が見つからない。そうして押し黙っていると、でもね、と真澄さんが逆説の接続詞を口にした。俯けられていた真澄さんの顔が、夏の青空へと向けられる。


「私達が再会したあの日、お姉ちゃんは私に、そんなこと気に病まないで、私が生きていてくれて嬉しい、って。そう言ってくれたの。私、それを聞いて凄く心が軽くなってね。お姉ちゃんが昔みたいな柔らかい声で、私が生きていることを肯定してくれたのが嬉しかったし、救われた。……だから私、実はもう叶っちゃってるんだよね。もしお姉ちゃんにもう一度会えたら、してほしいって願ってたことが、全部。まあ、全部って言っても一つしかなかったわけだけど」


「そうですか。それはよか……って、あれ?」


 よかったですね、と言おうとして、私は漠然とした違和感に襲われた。


 だって恵美さんは、真澄さんのために何かをしてあげたくて現世に留まり続けているのだと言っていた。でも真澄さんは、もうお姉ちゃんにしてほしいことはない、と述懐している。恵美さんに自分の罪を赦してもらった時点で、真澄さんにかけられた呪いは解けているから。だとしたら、恵美さんがこの世に残る理由は既になくなっている気がするのだけれど――


 私が考え込んでいると、ぽつり、と首筋の辺りに冷たい感触が走った。反射的に顔を上げると、いつの間にか空は薄墨色の暗雲に覆われていた。夏の通り雨だろうか。


 雨脚は瞬く間に強まって、私はたまらず避難しようと立ち上がる。でも真澄さんは雨が降り始めたことなど気づいてさえないみたいに、ぼんやりと鼠色の空を細めた目で眺め続けていた。


「……お姉ちゃんは一体、私に何を期待しているのかなぁ」


 その口ぶりには、どこか空疎な響きがあった。今の真澄さんには不思議と声をかけにくい雰囲気があって、私はしばしその場に立ち竦んでしまう。


 そのとき、唐突にスマホの着信音が鳴り響いた。取り出して確認すると、カナからだった。脳内で会話のシミュレーションをしてから電話に出ると、「夜見塚さんですか⁉」荒々しい語気の食い気味の声が飛び込んできた。


 のっけから想定と違う展開になって狼狽えたのも束の間、スピーカーからガシャンッ! とけたたましいノイズが響く。何かが壊れたような物々しい音だった。


「ちょ、ちょっとカナ? なんか今、凄い物音したけど大丈夫? ……カナ? ちょっと、カナ⁉ 聞いてるの⁉」


 あっちから電話を掛けてきたくせに返答がない。状況が把握できなくて、私は急速に不安に駆られる。家で何かが起きているのだろうか?


「っ、すみません! スマホ落としちゃって!」


「あ、カナ! ねえどうしたの? さっきから凄い物音してるけど、何が――」


「荒御魂です! 恵美さんの霊魂が、荒御魂化、し――」


 不自然なタイミングで通話が切れる。ツー、ツー、ツーという無機質な電子音が、私のこと嘲るかのように鳴っている。何らかの異常事態が起きていることは間違いない。いや、そんなことよりも。カナは最後、荒御魂と口にしていなかっただろうか――?


 サーッと全身の血の気が引いていくのを感じた。雨で体温が冷えていることもあって、ふらりとその場に倒れ込んでしまいそうになる。と、「澪ちゃん、大丈夫⁉」恵美さんが私の肩を力強く揺さぶってきた。それで意識が現実に引き戻された。


「……真澄さん。その……恵美さんが、荒御魂に、なったって電話があって……」


 真澄さんは小さく目を見張り、悲しげな表情になって目を伏せる。でもそれも一瞬だった。


「――行こう、澪ちゃん。……大丈夫、心配しないで。けりは、私が自分でつけるから」


 力強くそう言うと、真澄さんは夏の雨に打たれつつ、私の手を引きながら全力で走り出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る