オーガニック・ガール

砂村かいり

オーガニック・ガール

 中学時代のあだなは「温室」だった。

 神経質なくらい過保護に育てられているせいで、「温室育ち」と誰かが言いだしたのがきっかけだ。


 子どもの頃から、食事もおやつも基本的にすべて母の手作り。食材もこだわって、保存料や防腐剤や膨張剤、人工甘味料といった添加物を含むものはいっさい与えられない。

 制服以外の服は、オーガニックコットンのものを特定のブランドで買うか、安心素材の生地を裁断して母が作った。

 シャンプーやコンディショナー、スキンケア化粧品の類は、母が信頼する無添加ブランドのものを通販で購入している。

 それがわたしの「普通」だから、特に不便に感じたことはなかった。

 むしろ、そのおかげで風邪ひとつ引かない丈夫な体やトラブル知らずの肌をキープできていると信じ、母の慈しみに感謝していた。


 コンビニで買い食いなんてもってのほか。ハンバーガーチェーンにも入ったことがない。外で買って飲んでいいものは、ミネラルウォーター、お茶(ただし保存料や着色料の入っていないもの)、果汁100%のジュース(ただし保存料や酸味料の入っていないもの)に限られていた。

 そもそも、いつも校門まで車で送迎されているわたしに、ひとりでコンビニに買い物に行く機会なんてないも同然なのだけど。


 幼い頃は、親に大切にされているということが良いことであると信じて疑わなかった。

「ママはね、あなたのことが大好きなのよ。あなたの体に毒になるものは絶対入れたくないし、触れさせたくないの」

 母はことあるごとにわたしに頬をすり寄せて言った。

 それが愛情以外の何かだなんて疑う余地が、どこにあったというのだろう。


 中学生になると、自分が少しずつ周囲からずれてゆくのを感じ始めた。部活動に入ることを禁じられ、友達に借りた少女漫画を取り上げられ、流行りの恋愛ドラマも観せてもらえない。

「危ないことはしちゃだめ、わかる?」「男と女のことはね、ちゃんとしたお医者さんの本を読んで勉強するの。今はまだ早いわ」

 つやつやした両手でわたしの頬を包み、真剣そのものの表情で見つめられると、はい、ごめんなさい、しか言葉が出てこなかった。でも、いつしか魚の小骨のような違和感が胸に引っかかり始めた。


「温室」と呼ばれ始めてからは、今の自分を知らない人ばかりの高校へ入ろうと心に決め、勉強を頑張った。

 県名を冠する進学校から合格通知が届いた日、我が家にしては珍しく寿司をとった。

 注文する電話口で、母が「必ず除菌した手で握ってくださいね! 必ずですよ!」と念を押しているのを聞いたとき、合格の喜びがほんのり減じてしまうのを感じた。

 ううん、お母さんはわたしたち家族のためにああやってきりきりと神経を尖らせてくれているんだ。感謝しなくちゃ。

 自分の中に湧き上がる黒いものを慌てて打ち消して、わたしは小さく深呼吸し通常モードに戻るのだ。


 高校に入ると、ほどなくして「お嬢」と呼ばれ始めた。

「あ、気取りすましてるって意味じゃないよ? いやほら、保田やすださんっていっつも制服も髪とかもピシーッとしてるから。お弁当も健康的な感じだし」

 クラス一の陽キャである久松ひさまつさんに言われたら、何の反論もできなかった。モノから人間に格上げされたわけだから、「温室」よりは悪くないと思った。

 深い付き合いというほどではないけれど、よく会話するクラスメイトもちらほらできて、味気ないけどそれほど悪くもない高校生活は淡々と続いていった。


 中学校と違って高校には給食がないので、お昼はいつもかすかに緊張する。

 きっちり栄養バランスを整えた母の手作り弁当はいつもおいしかった。

けれど、友達がかぶりついているコンビニのサンドイッチや、冷凍食品のものだというチキンやポテトなんかがやけにうらやましかった。

 あんなふうに、ちょっと粗野なくらい指や口元を油でべたべたにして食べてみたい。

 そんな思いは、すぐさま胸の中のいつもの場所にしまいこむ。通常モード、通常モード。

 母に言えば絶対に「あんなの毒よ、毒!」と叫ぶに決まっているのだから。

 家で「ポテトが食べたい」と言えば、すぐさま母が有機栽培のじゃがいもを剥いて、オリーブ油で丁寧に揚げ、キッチンペーパーに余分な油をきっちりと吸わせてフランスの岩塩をふって出してくれるのだから。

 それでいいはずなのだから。


 わたしに変化が起きたのは、高校最初の体育祭の日だった。


 屋外競技も多いのに、わたしは母に持たされている無添加の日焼け止め乳液を家に忘れてきてしまったことに気がついた。

 家を出る前に顔には塗ってきたものの、そのまま鞄に入れ忘れた。学校で半袖短パンの体操服に着替えたら、無防備な両腕両脚が露わになった。

「あー……」

 小さく唸っていると、クラスで比較的仲のいい坂下さかしたさんが

「あ、もしかして日焼け止め? ウチの使う?」

 とピンク色のボトルをしゃかしゃか振りながら差しだしてくれた。

 わたしは一瞬、ためらった。

「体に悪いものい──っぱい入ってる日焼け止めなんか絶対体に塗っちゃだめよ、危険なんだから」母の言葉が蘇る。

 しかし、この好意を無下にしていいものだろうか。そもそも本当にそんなに危険だったら、どうしてみんな皮膚トラブルもなさそうな健やかな肌をさらしているのだろう?

「ありがとう」

 わたしは坂下さんから容器を受け取り、白い乳液状の日焼け止めクリームを遠慮がちに自分の掌に絞った。どきどきしながら腕に伸ばしてみる。すーっと肌になじんで消えた。

 初めて使う市販の日焼け止めは、人工的な甘いココナッツの香りがした。


 わたしたちのクラスは球技では早々に敗退したけれど、陸上でまさかの奇跡が起きた。

 全校リレーで1位になったのだ。

 スポーツが得意でないわたしも「お嬢、がんばれ!」「あと少し!」と声援を受けながら走り、途中追い抜かれながらもバトンをつないだ甲斐があった。

 最終コーナーでアンカーの沼田ぬまたくんが3年生の駿足選手をとらえてトップで走りきったときは、今まで覚えたことのない種類の感動がわたしの胸を満たした。

 はじけ飛ぶ汗。短い祈り。大歓声。

 ──あれ? こういうの、なんて呼ぶんだっけ。


 優勝の興奮によるクラスの熱気はなかなか収まらなかった。

 午後の競技を控えて昼休憩だったので、全員で机をごちゃごちゃにくっつけ合い、男子も女子も一緒になって笑いながら食べた。

 担任の先生が全員分のアイスを買ってきてくれた。

「おらー今すぐ食わないと溶けるぞー」

 真昼の教室はますます蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

「うそーっ、先生ナイス」

「やった~どれにしよ~」

「ちょ、溶ける溶けるマジで溶ける」

 みんな爆笑しながら奪い合うようにしてアイスを選んでゆく。びりびりと包装が破られ、チョコやバニラの甘い香りが教室にはじけ飛ぶ。

「保田さん、とらないと残り物になっちゃうよ」

「あ、うん……」

 坂下さんの言葉通り、ぱんぱんに膨れていたレジ袋はほとんど空になっていて、わたしはひとつ残っていた青い棒付きアイスをおそるおそる手にとった。


 いつもの母の言葉が、耳に蘇る。

 でも今日は、今日だけは、それに従いたくない気がした。わたしはプラスチックの薄い袋をそっと剥がした。青色1号とか甘味料とか酸味料とか、母が蛇蝎のごとく嫌っている単語の数々がちらちら見えた。

「あの……」

「ん?」

「これって、どうしてふたつ棒がついてるのかな」

「え」

 ソフトクリーム状のバニラアイスに夢中になっていた坂下さんは漫画のように目をぱちくりさせ、それから腰を折って笑い始めた。

「やーだー、やーだお嬢、さすがお嬢だよもう」

 何がおかしいのかわからず戸惑っている間にも、薄青いアイスキャンディーはだらだらと溶け始め、わたしの指を汚している。


「なになに、どうした坂ちゃん」

「なに笑ってんの」

 坂下さんと仲のいい子たちがわらわらと集まってくる。

 事情を知った沼田くんが、ごつい手をぬっと出してきた。ちょっと、と言ってわたしの手からアイスを取り上げ、ふたつの棒をつかむ。アイスはぱきりとふたつに割れた。

「ほれ」

「あ……こうやって食べるんだ」

 素直な感想を漏らすと、坂下さんも沼田くんもますます激しく笑いはじめる。でも、それがけっして意地悪な笑いじゃないことにわたしは気づいていた。

「ね、お嬢、その半分あたしにくれない? その代わりにあたしのパピコ半分もらってくれないかなあ」

 久松さんがカフェオレ色したチューブ入りのアイスを差しだしてくる。いいのかな。わたしはぎくしゃくと交換に応じた。

「あれ、でももしかしてお嬢、こういうのだめなんじゃ……」

 坂下さんが急に心配そうな声を出した。久松さんがハッとした顔になり、その場の笑い声が静まる。

「ううん、いいの、今日は」

 わたしは溶けそうな青いアイスから思いきって口に含む。おお、と誰かが声を上げる。


 その瞬間。

 口いっぱいに広がる夏の声を聞いた気がした。

 甘くて、さわやかで、冷たくて──

 ソーダ味って、こういう味のことなんだ。知らなかった。これが母の言う毒の味なら、なんてすてきな毒なんだろう。

 みんな、いつもこんなふうに分け合ったり交換したりして、こんなおいしいものを食べていたんだ。

「……おいしい」

 子どものように混じりけのない気持ちでそう言ったのは、いつ以来のことだろう。

 歓声が上がり、誰かが肩を抱いてきた。いつのまにかみんなが集まり、わたしは教室の輪の真ん中にいた。

「俺のポカリも飲む? もしかしてだけどスポドリも飲んだことないっしょ?」

「ちょ、保田さん狙いだからって間接キスとかあざといぞ、てめー」

「お嬢、おいしい? あたしのジャイアントコーンもあげる」

「ねえ見てお嬢の髪めっちゃサラサラ、シャンプー何使ってんの?」

 みんなの声がごちゃまぜになって鼓膜に飛びこんでくる。


 ああ、思いだした。何かのCMで見た。

 こういうの、たしか「青春」っていうんだ。

 胸の奥から突き上げてくる爽快感と、名づけようのない甘酸っぱい感情。みんなの汗と、笑い声。友達の日焼け止めクリーム。

 今日、帰ったらお母さんに言わなきゃいけないことがいっぱいある気がする。でもいいや、今この瞬間はなんだか、泣きたいくらいに幸せだから。

 わたしは顔を天に仰向け、思いきりあははと笑った。

 グラウンドに打球音が響き渡り、冷たいアイスがこめかみをきんと冷やした。

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