第5話
冥獣は脇目も振らず、こちらに飛んでくる。木の幹にぶら下がるアドニスたちはいい的だ。
「踏み潰すつもりか」
冥獣は勢いのまま、その巨大な足をこちらに向ける。
「だが、この程度ーー」
攻撃が届く直前、アドニスは上へと跳んだ。
そのすぐ真下を、強い振動と共に、冥獣の
だが、これで冥獣の顔近くに出ることができた。形勢逆転だ。
「他愛もない」
アドニスは冥獣の
後は、冥獣の弱点である球体を取り出せばいいだけだ。しかしーー
「ん?」
突然、アドニスは空中で大きくバランスを崩す。
「なんだ? まるで何かに引っ張られているような……」
よく見ると、彼が腰に提げていた袋が、上昇してきた冥獣の爪に引っかかっていたのだ。
気づけば、手の紋様が薄っすらと光を発していた。
「そんなバカなことが……」
気づいた時にはもう遅い。冥獣の身体が落下を始めた。道連れになるように、アドニスも勢い良く下降する。
「まずい」
早い所、袋と爪を切り離さなければ。
しかし、アドニスが攻撃しようとすると、タイミング悪く冥獣がもがき出し、狙いが定まらない。それが数回連続で起こったのは、もはや不運としか言いようがなかった。
「荷物は諦めるか」
アドニスはズボンに結んだ袋の
「よし」
彼は冥獣の身体を蹴飛ばし、その反動で再び木へと近づく。そして、右手を幹へ突き刺した。落下の勢いは中々収まらず、木肌は下へ下へと抉れていく。
数メートル程下がってから、ようやく落下は止まった。
「リゼ」
呼びかけてみるが、依然反応はない。苦しそうな息づかいだけが聞こえる。
「お前は死ぬのか?」
なんだかそんな予感がした。
「どうすればいい。俺には人間の治し方なんてわからない。せめて、他に人間がいれば……」
だが、既に村の人間は全滅してしまった。アネモネなら治し方を知っているかもしれないが、それまでリゼが持つかどうか。
もう少しで友達になれそうだというのに。
『冥霧に呑まれてない場所は、ここだけじゃない』
そういえば、アネモネはそんなことを言っていた。
『他にも生きてる人たちがどこかにいるはずだから! そこで、あなたは友達を作って、幸せになって!』
もし、彼女の言葉が本当なら。
「王都…… 冥霧に呑まれてない場所があるとしたら、そこくらいだ」
そうと決まれば、急がなくては。
アドニスは一息に木を降りていく。しかし、その方向から、あの冥獣の
「しぶとい奴だ」
既に再生を終えた冥獣が、物凄い勢いで上昇してくる。翼を乱暴に動かすその姿は、
「消えろ、お前に用はない」
アドニスが拳を振り上げる。
だが、彼の攻撃は当たらなかった。冥獣が彼を無視して、真横を通り過ぎていったのだ。
「ん…… ?」
なぜ。
その疑問はすぐに解消された。
「グァァァァァ!」
駆け上って来る、身体が揺さぶられるような低い音。下を見る。
こちらに迫って来ていたのは、ぱっくりと開かれた巨大な
人間の脚程はありそうな、長く鋭い牙。おそらくその全身は、さっきの鳥型を遥かに超える。
「こいつから逃げていたのか」
たぶん、この冥獣の狙いは鳥型の方だ。だが、それの進行方向上にはアドニスたち。避ける時間はない。
彼は再び拳を構えた。
「邪魔だ」
肉にめり込むような鈍い音。アドニスの攻撃は、冥獣の
だが、おかしい。
「効いてないだと?」
冥獣の上顎は無傷。同等の力がぶつかり合い、両者は完全に停止する。
いや、このままでは押し負ける。アドニスは咄嗟に、拳の力を真横に向けた。
「ぐっ!」
アドニスは弾かれるように、宙に吹き飛ばされた。そのまま受け身も取れず、地面に身体を打ちつける。
「なんて力だ……」
アドニスが起き上がると、冥獣は既に頭をこちらに向けていた。彼を敵として認識したらしい。
その
「よくわかった。俺に勝ち目はない」
アドニスは冥獣に背を向け、走り出した。後ろから、地響きとけたたましい叫び声が追ってくる。
だが、幸いすぐ先は、巨大な木々が乱立している地帯。小さな生き物が逃げるには最適だ。
あそこまでたどり着ければ。
杖はさっき落としてしまった。アドニスは片足で、跳ねるように前に進む。
「間に合え」
後数メートル。このまま行けば、大丈夫だ。
いや、とアドニスは思った。本当にこのまま何事もなくたどり着けるだろうか。
そんな疑念は、足先に感じた引っかかりによって、現実のものとなってしまう。足が地面を離れる。
「そうなると思った」
目の前に地面が近づいていく。
「まだだ」
アドニスはすんでの所で地面に手をつき、手と足に力を込める。蝶の紋様はしっかりとチェックしていた。
「俺はこいつと友達になる」
アドニスはそのまま前へと飛んだ。そして、木立の小さな隙間を抜ける。
直後、後ろの木々に巨大な物がぶつかる音がした。振り向くと、よだれを撒き散らす冥獣の口。だが、それ以上は入ってこれないようだ。
しばらくすると、冥獣は諦めたのか、どこかへ消えてしまった。
「おい、リゼ。王都に行けば、お前の寒さを治せるはずだ。それまで生きていろ。いいな?」
リゼに言い聞かせる。
アドニスは王都を目指し進み始めた。
それから数時間、彼は休みなく走り続けた。時々、リゼの容態を確認すべく立ち止まる事はあったが、それもほんの一瞬。
全ては彼女を助けるためだ。だが、彼自身、なぜ彼女にここまで固執するのかわからなかった。
「ここは」
森を抜けて、打ち開いた平地を進むアドニス。
周囲には、冥霧に呑まれる前の、建造物の残骸などが残っていた。全てが朽ち果てていて、植物が伸びるための支えと化している。
ポケットに入れていた地図を見てみると、ここはおそらく、王都近くの小さな町のようだ。
「ママ……」
うわ言のような声が微かにした。
「王都までもう少しだ。まだ死ぬなよ?」
「うん……」
大丈夫だ。絶対に間に合う。
整備された道の跡を辿って、アドニスはさらに先へと進んだ。
そして、一時間が経った。
「ここが、王都……」
アドニスは再び地図を確認する。
確かに、目の前には巨大な都市を思わせる、城壁や城が広がっていた。その
灯晶の灯りらしきものは、どこにも見当たらない。暗くて
「おい、誰かいるか!」
アドニスの叫び声は遥か遠くへと消える。返ってくるのは、冥獣が発する不気味な鳴き声だけ。
「誰もいない」
それがわかると、不意にリゼの吐息が大きな存在感を放って聞こえた。
アドニスは近くにあった平らな岩に向かって彼女を下ろし、自分はその手前で座る。彼女は死人のように白くなった顔をこちらに向けた。
「当てが外れた。たぶん、もうお前を助けられない」
地図を見る限り、この近くにはもう村も町もない。
何となくわかる。リゼの命は、次の場所まで持たない。
「死か……」
酷く重い意味を持った言葉。
だが、アドニスにその重みはわからない。
「人が死ぬと悲しくなる、とアネモネが言っていた。悲しいと、涙が出て、胸が痛くなるらしい。だが、お前が死ぬというのに、俺は全くそんな風にならない」
アドニスは自分の胸を思い切り殴ってみた。痛くも痒くもない。何も詰まっていない、乾いた音が鳴るだけだ。
「教えてくれ。こういう時、俺はどうすればいい? 人が死んだ時、村の人間は涙を流したり、崩れ落ちたりしてた。そうした方が、お前のためになるのか?」
ここまで自分は、リゼのために何もしてやれなかった。だから、最期くらい彼女の望みを叶えた方が良いと考えたのだ。
たとえ、それが中身のない、人間の真似事だとしても。
「ここにいて……」
「それだけか?」
「うん…… もうどこにも行かないで……」
「…… わかった。それがお前の望みなら、そうする」
アドニスはただ、リゼが少しずつ死に向かって行くのを眺めた。顔色一つ変えずに。
彼女は今何を思っているのだろう。
突然、前方から大きな
顔を上げると、そこにいたのは予想外の姿。
「あの冥獣は……」
数刻前に襲って来た竜型の冥霧だ。
それは真っ直ぐこちらに突進してくる。今回は、近くに遮蔽物はない。
「あいつ、確実に殺せる時を狙っていたのか」
もう終わりだ。二人ともここで死ぬのだ。
いや、助かる方法は一つある。アドニスだけが助かる方法が。
彼はリゼに目をやる。
「もし、あの冥獣が飢えているだけなら……」
今、アドニスの頭の中にチラついているは、道徳から外れた醜い考え。だが、そこを許容すれば、合理的な行動と言える。そして、彼は善悪に対する知識はあっても、悪を責めるだけの良心を持ち合わせていない。
彼はリゼを両腕に抱えた。
「ママ…… ?」
細く目を開くリゼと目が合う。
何も知らない純真無垢な彼女は、単に抱っこをされたと思ったのだろう。安心し切ったように目を閉ざした。
「俺は一体何を……」
アドニスは自分の取った行動が理解できなかった。
彼は冥獣に背を向け、自分の体を盾にしていたのだ。当初頭に思い描いた方法とは、真逆のことをしている。
今から他の選択をする時間はない。
「ハオスを倒して、アネモネを助けるはずだった…… それに、友達も…… 結局、俺は何もできなかった」
地面を踏み鳴らす音はもう間近。
アドニスは自分の死を悟り、目を閉じた。真っ暗な視界の中で、ぼんやりと眩い笑顔がこちらを向いているのが見えた。
「アネモネ……」
十、十一、十二。
三十秒が過ぎた。おかしい。一向に冥獣が襲って来ない。それだけではない。冥獣の発していた音の、その全てが消えていた。
アドニスはゆっくりと目を開ける。
「なんだ、どうなってる…… ?」
アドニスは何度も目を擦った。だが、景色は変わらない。
彼の視界一杯に広がっていたのは、途方もなく巨大な光の柱であった。
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