【滞在期間五日目:クリスマスデートなんて、どうでしょう?②】

 普段、無造作に垂らしている髪を、ポニーテールに結い上げている。コンタクトでもしているのだろう。眼鏡をかけていないので、雰囲気がいつもと違って見えた。

 黒いセーターを着て同色のスカートを履き、その上からベージュのコートを羽織っている。ペアルックなのだろうか。彼女と同系統の衣服で纏めた三十歳前後と思しき男性と、腕を組んで佇んでいた。

 彼は、髪を短く刈り揃えたスポーツマンらしい風貌で、バランスの良い肩幅をしている。

 ひとめで秋葉は、彼女の恋人なのだろうと直感した。

 男性が田宮に「誰?」と耳打ちをする。田宮が「会社の先輩だよ」と答えると彼は目を細め、控えめに会釈を送ってきた。秋葉と千花も、彼に倣って会釈を返す。


「おお? なかなか可愛い彼女さんじゃないですか。デートですか?」


 田宮がニンマリと微笑んだ。


「いや、そんなんじゃないよ。コイツがこの間説明した、俺の妹──」


 あらかじめ準備しておいた、弁解の言葉を述べようとしたその時、左腕を強く引かれて秋葉はバランスを崩した。何が、と驚き目を落とすと、二の腕に胸を押し付けるようにして千花が腕を組んでいるのが見えた。

 おい、と言いかけた不満は、前のめりに被せられた千花の声で遮られる。


「秋葉さんの恋人で、葛見千花と言います。はじめまして。よろしくお願いします……!」


 ともすると、それは社交辞令の挨拶。しかし、丁寧なその口調は、逆に慇懃無礼で鼻につく。「こちらこそ、よろしくお願いします」と応じた田宮の顔も次第に強張る。当惑を顔に滲ませ、何度か瞳をしばたかせた。


「お前、なんてことを」


 ようやく告げた非難の声も、千花に一睨みされると雑踏の中に溶けて消えた。


「アハハ……そうなんですね。若い彼女さん、良いじゃないですか」

「本当に、誤解なんだって」


 田宮が浮かべたのは愛想笑い。二組の男女の間に微妙な空気が横たわったのを感じて、秋葉はぎこちなく話題を差し替える。


「そ、それで? 田宮もデート中ってところかな?」

「ハイ、遂に目撃されちゃいましたね。お恥ずかしい限りです」


 わかりやすく頬を染めた田宮のリアクションで秋葉は察した。この間の、「友達と呑むんです」という発言も、彼女なりの方便だったのだろうと。また同時に、ここまでの流れをどこか白々しくも、俯瞰的に見ている自分の姿を意識した。

 そうか、と唐突に思う。

 俺の恋は、またひとつ終わりを告げたんだ。予告なく突きつけられた事実に、胸の中に風穴が空いたような喪失感を覚えながらも、不思議と心は凪いでいた。

 その後、二言~三言言葉を交わしてから、田宮たちと別れる。

 二人の姿が完全に見えなくなってから、秋葉は千花に訊ねた。「なんで、あんなこと言ったんだよ」と。ずっと膨らませていた頬を緩め、「わかんない」と彼女は呟いた。


「なんかあの女の人、綺麗だなーと思ったらムカムカしてきて、パパが鼻の下を伸ばしてるのがわかったら、益々苛々してきたの。自分でもよくわかんない。でも、とりあえずはごめんなさい」

「よくわかんないな」


 それは娘なりの嫉妬なのかと、秋葉は苦笑いするほかなかった。



 黄昏色に変わった太陽が、ビルの陰に身を潜める。頭上に広がっている空は大部分が濃い青に染まり、夕暮れ時のオレンジが、申し訳なさげに端のほうに追いやられていた。

 八王子駅の南口にも、夜の帳が降りてくる。街灯が点灯したのを合図にするように、イルミネーションも明滅を始めた。

 広場の中央に設置された巨大なクリスマスツリーと、周辺を円形に取り囲む街路樹が、煌びやかな輝きで次々と彩られていく。ピンク~白~ゴールドと、一定周期で色調を変える光は、変わっていく世界や、移ろいゆく季節を暗示しているようだった。

 クリスマスだけに、やはりカップルの姿が多い。他にも、小さい子どもの手を引いた、家族連れの姿も散見された。自分と千花は親子なのだから、当然後者側の存在なのだが、周りからはそう見えないのだろうな。

 悪くない、と内心で秋葉は呟いた。


「きれーい! すごーい!」


 瞳を輝かせて、千花が感嘆の声を上げる。「ああ、綺麗だな」と秋葉も、彼女の言葉に同意を示した。

 もし、この場に千花がいなければ、今日も、寂しく一人アパートにこもっていただろうな、と秋葉は思う。娘とはいえ、女の子とショッピングをして服を買い込んだことも。クリスマスイルミネーションを二人で眺めてる今も。これまでの自分では、考えられないことだ。

 毎年目にしていたであろうイルミネーションだが、足を止めてまで見たことはなかった。こんなにも幻想的な輝きで空間は満たされていたのかと、今さらのように彼は感動していた。

 隣に千花がいることも、そう感じる理由なのだろう。イルミネーションの輝きを見て、彼女は何を感じているのだろうか。自分と同じように、心を弾ませているのだろうか。同じ景観を見て二人で意識を共有させているんだ、と思うだけで、秋葉の心が充足されていく。一人で歩くより、二人のほうが楽しい。一人で見るよりも、二人のほうが――。誰もが当たり前に感じている当たり前の喜びですら、これまでの秋葉には欠落していたのだ。


「パパ!」


 良く通る弾んだ声で彼女は呼んだ。肩まで伸びた髪を、風になびかせながら。

 だからパパは止めなさい、と軽めの否定をしつつも、手を引かれるままに歩いて行く。

 艶のある黒髪に、点滅する光が反射する。

 ぱちっと音がしそうなほど、長いまつ毛。

 艶かしい赤で縁どられた、ふっくらとした唇。

 髪の毛の隙間から覗いた、白くて細いうなじ。

 自分の手を引いている、ブレザーの制服を着た少女の指先。

 千花のローファーが石畳を叩くたび、コツコツとした音が駅前の広場に木魂するたび、彼女の歩みに合わせて鼻腔をくすぐる甘い香水の匂い。

 目の前で繰り広げられている非日常的な光景に、秋葉の心も弾んでいく。彼女が娘であることを、しばし忘れた。


「あそこに座ろうよ」


 千花が、空いているベンチを見つけて指さした。

 暖かい飲み物が欲しい、と彼女が訴えてきたので、近場にある自動販売機から飲み物を買ってから、二人並んでベンチに腰かけた。

 ココア飲料のプルタブを開け、千花が一口含んでほっと溜め息を零す。秋葉も彼女に倣い、缶コーヒーの中身を喉に流し込んだ。

 座ってからずっと、千花は一点だけを凝視していた。なんとなく誘われて視線を飛ばすと、向かい側のベンチに座っている、若いカップルの姿が見えた。肩を寄せ合っていた二人は、次第に人目も憚らずに唇を重ね始める。他人事ひとごととはいえ妙に照れくさい。気まずくなって、秋葉は視線を外した。

 一方で千花は目を逸らさない。カップルの様子をじっと見つめている。「あんまりみるな」と咎めようとした矢先、ぽつりと千花が呟いた。


「パパはさ。キスしたことがないんだっけ?」

「ん? まあ……恥ずかしいことにね。女っけのない人生だったからな」

「……してみたい?」

「したくないと言ったら、嘘にはなるかな」

「だよねぇ。私も、キスしてみたいな。こう見えて、ファーストキスはまだなのです」

「へえ、意外だな。そんなに──」と言いかけたところで、秋葉は語尾を濁した。

「そんなにって、なに?」

「いや──……千花は積極的なのに、意外だなあと思って」


 本当は、「可愛いのに」と言いかけていた。だが、それを自分の娘にいうのもおかしいだろうと、喉元で別の言葉に差し替えたのだった。


「全然積極的じゃないよ。片想いの男の子にも、結局告白できなかったし。好きな人の前に立つと、心臓が爆発しそうになってダメなんだよ」


 それはみんな同じだよ、と秋葉は思った。


「どれくらいドキドキしちゃうのかと言うと、一時間待ちのジェットコースターに並んだのに、三十分もしたら足が震えて逃げ出しそうになった時くらいには、ドキドキなんだよ」

「ははは、それはなんだか、いたたまれないね」と秋葉は苦い顔をした。

「でもね……。親子でなら……そんなに恥ずかしくないかもね。だから私──パパとだったら、キスしてみたいかも」


 彼女は笑う。目尻を少し下げ、肩まで伸びた艶のある髪を右手でかき上げながら。

 驚いて秋葉が顔を向けると、こちらを向いていた千花と目が合う。冗談めいた口調とは裏腹に、彼女の瞳は真剣だった。それは、女の顔だと思った。決して逸らされることのない黒目がちな瞳の奥に、イルミネーションの輝きが投影されている。たとえるならばそれは、無数の星々を湛え、澄みきった冬の夜空。

 緊張から喉が鳴った。


「お前、また冗談を言ってるんだろう?」


 不意に訪れた沈黙を誤魔化すため、秋葉は言葉を紡いだ。しかし千花は、なんの反応も示さない。

 ゆっくりと、千花の顔が近づいてくる。まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、見つめる瞳から目を逸らせない。

 千花は、躊躇いも、恥じらいも見せることなく、なおも唇を寄せてくる。憂いを湛えた二つの瞳が、水面のように揺れ動いた。


 ──綺麗だ、と秋葉は思った。


 けれど、身構えていた彼の心を焦らすように彼女の唇はすんなり口元を通過すると、代わりに秋葉の頬に触れた。彼女の唇が離れる瞬間、小さな吐息が耳朶をくすぐる。むず痒い感覚すらも焦らしとなって、身体がびくっと飛びはねた。


「ママに悪いから、今はこれで我慢しなさい」


 指で自分の唇の端に触れ、彼女は囁いた。

 初めて触れた女の子の唇はしっとりと濡れ、まるで絹のように柔らかかった。

 二人の視線が交錯し、今まさに千花がもう一度動こうとしたその時、禁断の関係を引き裂くように、秋葉の携帯電話がポケットの中で震えた。千花の動きは即座に止まり、「電話」と彼女が指摘する。


「あ、ああ」


 緊張から解き放たれた秋葉が携帯電話を取り出すと、画面に『田宮真帆』の名前が表示されていた。

 電話に出るべきだろうか。秋葉は大いに戸惑った。たとえ娘とはいえ、俺と千花はデートをしている途中なのだ。それが会社の同僚であり、同時に想いを寄せている相手だったとしても、ここで電話に出るのはどうなのか──。

 逡巡している秋葉の内心を見透かしたように、「電話、出たほうがいいよ」と千花は言った。


「私とデートしている途中だから、と思って躊躇っているんだろうけど、そんなの気にしなくていいから。ここで彼女の電話を無視して出なかったら、後々──いや、もしかしたら、一生後悔するかもよ?」

「だが──いや、わかった」


 戸惑いの感情を押しやって、秋葉は電話に出ることにした。そう、話を聞くだけだから、とそう自分に言い聞かせながら。「もしもし」

 ところが、電話の向こうにいる人物は、まったく返事をしない。これはおかしい、不審に思った秋葉が再び「田宮なのか?」と問うと、ようやく『はい』という返事があった。


『秋葉さんですか? 突然電話なんかして、ごめんなさい』

「いや、そんなことはどうでもいい。それよりさ、なんかあった? 急に電話をよこしたりして」


 デート中だったんじゃないのか、とは訊けなかった。その質問だけはしてはならないと、心の中で警鐘けいしょうが鳴っていた。


『私ね、いま、八王子駅前のカクテルバーにいるんです。これから、秋葉さんも来ませんか? なんだか、一緒に飲みたい気分なんです』


「行くのはやぶさかじゃない」「だが、どうして俺なんだ」「いま、一人で店にいるのか?」と質問を繰り返したが、田宮は「大丈夫」とか、「深い意味などありません」といった類の言葉を反復するのみで、いまひとつ要領を得ない。こいつは弱ったな、と頭を抱えて押し問答を続けているうちに、「じゃあ、待ってますね」と一方的に告げられ電話は切れた。

 沈黙した携帯をじっと見つめ、秋葉は深く首を垂れる。まったく、面倒なことになったものだ。


「行ってあげてください」

「でもなあ──」

「パパは、どうしたいと思ってるんですか?」

「俺は……」


 しばらく悩んだ末に、秋葉は首を横に振った。


「正直、行くべきではないと思っている。俺はいま、君とデートしているんだ。先約をすっぽかしてまで、別の女の所に行くなんて不義理はできない。千花が家族だからという事実に甘えて、優先順位を下げるつもりはない」


 だがその声には、苦悩と逡巡が透けてみえる。千花は唇を軽く噛むと、ぐっと握りしめた拳を背中に隠したまま、大きく息を吐いた。


「さっきも言ったでしょう? 私に気を遣っているんだったら、そんなの余計なお世話だよ。私は、あと三日で元の時代に戻る人間です。確かに、私にとって今は大切な時間だけど、この時代で生きていくパパにとっては、きっともっと大事な選択なんだよ」


 正論だ。そう思うだけに秋葉は、口を挟むことはできなかった。


「それと、横から聞きながら思ったことですが、田宮さんの声、尋常じゃなかったです。万が一彼女に何かあったとしても、パパはこの先後悔しないで生きて行く自信がありますか? 今やれることを、してください」


 万が一、という言葉が、秋葉の心に重くのしかかる。不安の種が育っていく。

 言いたいことは言ったとばかりに、千花が秋葉の肩をそっと手で押した。行ってください、という意思をこめて。そうまでされては、二の足を踏んでいるわけにもいくまい。

「すまない」と一言だけ残して、秋葉は走り出した。クリスマスイルミネーションの輝きが、遠ざかる彼の背中を明るく照らした。

 彼の姿が完全に見えなくなってから、千花は溜め息交じりの呟きを落とした。


「バカなんだから。パパも、そして──私も」

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