何時からだったろう。

 シャワーで身体の泡を洗い流していると曇りガラスの向こうに人の気配を感じるようになったのは。

 ぱっと視線を遣ると人影が湯気のように動いて消える。

 覗かれていた──

 ガラス戸を開けても誰もいない。

 火照った肌が急激に熱を失う。

 何度も気のせいかと思った。

 勇一ならば用があれば声を掛けてくるだろうし、それ以前に家の中には勇一と私の二人しかいないのだから、と。

 勇一にそれとなく確認してみても短く否定の言葉が返ってくるだけだった。

 もちろん家の戸締まりを点検して、外部の侵入者の可能性も除外した。


 過去の記憶を辿っているうちに意識が深く堕ち、気が付くと二階の躍り場に立っていた。

 

 湿った匂いにつられて玄関側の小窓に目を遣ると、隙間から吹き込んだ雨が壁を伝い落ち、退色して色褪せた絨毯に染みを作っていた。

 ぼんやりと外を眺める。

 雨で湿った道路は、街灯に照らされる事で光の外側にある何かを浮かび上がらせているように見えた。

 側溝に勢い良く流れる雨水と暗く単調な雨音。

 視線を遠くに向ける程、道の先は暗闇に溶け、絶望に通じているようで益々気分を沈ませた。

 静かに窓を閉じ、本棚に残された主人の愛読書のタイトルを目でなぞる。

 本の収まっていた位置が一週間前と少し変わっている事に気付き、蟀谷こめかみを押さえた。

 最早、光に照らされていた過去には何の意味も無いと悟る。


 私は毎日、現実と悪夢の間を行き来している。

 浴室の曇りガラスの向こうの人影。

 その正体を知ってしまった時から。

 既に何方が現実で夢か区別が付かない。

 いや、夢だと思いたいだけなのだ。

 

 睡眠薬でどんよりと鈍る五感が、絨毯を踏む足音を捉える。

 開かれるドア。

 

 途端に捕食者に貪られる小動物のように私の筋肉が硬直する。

 真っ暗闇の中を迷う事なくベッドに忍ぶ影は、浴室のガラス戸に映る影と同じ大きさをしている。

 嗅ぎ慣れた体臭と耳に吹き込まれる生温い息。


 パジャマの中に潜り私の乳房を毎晩求めてくる汗ばんだ大きな手。

 もう片方の手が下着ごとズボンを引き摺り下ろし、指が私の子宮を探り始める。


「ママ……」


 変声期を迎えて低くなった声に似合わない甘えた囁き。

 だんだん私を求める手の動きが激しくなり、背後の影が無言で私を突き上げる。

 行為が済むと痛みと嗚咽を堪える私を置いて、ベッドから抜け出た影がドアを開けて去っていく。

 ドアが閉まっても耳だけは鋭く遠ざかる音を追いかけ、もう大丈夫と思うまで肺に衝撃を留める。


 脱力した途端に脚の間からドロリと溢れたものが下着を通してシーツに染みる。

 自分の吐く息の音にさえ耳を塞ぎたくなる。

 汚れを拭う気力も無く夢に逃げ目覚めれば、朝食を用意して息子の名を呼ぶのだ。


「勇一、おはよう」


 陽光を反射する真っ白なテーブルクロスと食器が私の迷いを退ける。

 波打つフローリングの床。

 何度目覚めても夢見の儘夜を迎え再び悪夢が重ねられていく。

 朝、汚れたシーツと下着を取り替えても心は黒く黒く塗り潰されていく。


 両手で握り締めた細いロープに視線を落とす。

 指の筋が簡単な作業さえ困難な程に強張ってしまっていた。

 脳内で大量に分泌される幾つかの物質が、私の動きを阻んでいるのだ。

 息を何度も吐き、両手を開くよう努めた。

 

 汗ばんだ両手の平にはロープの跡がくっきりと刻まれ、赤くなっていた。

 片方ずつ開閉して血の流れを促す。


 悪夢を終わらせるのは太陽では無い。

 暗闇から抜け出すには私の手で終わらせるしかないのだ。


 子宮から生まれ出た悪夢を消す為には子宮に戻すしかない。

 生み出したのは私なのだから。

 私の手で終わらせるしかないのだ。


「勇一、寝ているの? 」


 ドアノブをゆっくりと回し、明るい声で息子の名を呼ぶ。

 返事は無かった。

 

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子宮 春野わか @kumaneko1111

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