番外編:薙くんの苦難と幸福に満ちた一日(後)

 すっきりした気分で風呂から出ると、陽毬は制服姿でソファに座っていた。さっきシャワーがかかってしまったのだろう、ポニーテールの毛先が少し濡れている。


「薙くん、こっち来てください。髪、乾かしてあげますね」


 陽毬がドライヤーを片手に手招きをするので、おれは素直に彼女の前に腰を下ろした。バスタオルで拭きながら、丁寧にドライヤーの温風を当ててくれる。ときおり、指が尖った耳を撫でるのがくすぐったい。


「陽毬、もっと適当でいいよ……」

「いえ! 薙くんの黒髪はとっても綺麗なんですから、大事にしないと」


 おれにとっては、陽毬のふわふわの茶色い髪の方がずっと綺麗だと思うけど。

 ドライヤーのスイッチを切った陽毬は、「よし、我ながら完璧です!」と得意げに鼻を鳴らした。左手で髪に触れてみると、なんだかいつもよりツヤツヤサラサラしていて指通りが良かった。うーん、無駄キューティクル。


「陽毬、いろいろとありがとう。もう遅いし、送ってくよ」


 なんだかんだで、時刻はもう二十一時だ。おれにとってはここからがゴールデンタイムだけど、陽毬は早く帰った方がいいだろう。

 しかし、陽毬は不満げに頰を膨らませた。


「……薙くん。まだ、してないことあります」

「え」

「今日、飲んでませんよね?」


 そう言って、陽毬は自らの首元を指差した。そこには、おれが何度も噛みついた跡が残っている。滲んだ血の痕が目に入って、ごくりと喉が鳴った。

 たしかに、今日の昼休みは昼飯を食べるのに時間がかかったせいで、彼女の血を飲む余裕がなかったのだ。


「いっぱい飲んで、早く治してくださいね」


 陽毬はニコリと妖艶に笑んで、おれの首に腕を回してくる。おれが噛みつきやすいように、わざわざ口元にうなじを寄せてくれた。


「どうぞ、召し上がれ」

「……いただきます」


 おれはそう告げてから、陽毬の首に牙を立てた。さっき風呂に入っていたときの興奮がまだ残っているのか、陽毬を気遣うほどの余裕がなかった。腕が動かないせいで、彼女を抱きしめられないのがもどかしい。

 甘い血液が喉を通るたびに、腹の底に熱が溜まっていく。謎のエネルギーが、身体の奥からふつふつと湧いてくるような感じだ。果たして彼女の血に骨折を治す力があるのかはわからないが、あってもおかしくないとは思う。

 彼女の首から口を離して、はあ、と息を吐く。陽毬はおれの唇についた血液を、人差し指でそっと拭ってくれた。やけに妖艶な仕草に、腰のあたりがぞくぞくと痺れるような感覚がした。




「薙くん。本当にわたし、泊まっていかなくてもよかったんですか?」

「だ、大丈夫だよ……どうせおれ、朝まで起きてるし」


 血を飲んだあと、おれは陽毬をアパートまで送っていくことにした。陽毬は泊まると言ったけれど、さすがにそれは固辞した。この状況で一夜を共にするのは、ちょっと我慢できる自信がない。

 おれと陽毬は手を繋いで、夜の住宅街を歩く。昨日まで降り続いていた雨はやんで、藍色の空には白くて丸い月がぽっかりと浮かんでいる。蝙蝠の黒い影が素早く動いて、キキッという甲高い鳴き声が響いた。


「あ、蝙蝠」

「え、どこですか?」

「ほら、今鳴いた」

「……? 何も聞こえませんね」

「そーいや蝙蝠の鳴き声って、吸血鬼にしか聞こえないんだっけ……」

「そうなんですか? 吸血鬼って、耳もいいんですね」


 おれの他愛のない話に、彼女が微笑んでくれるのが嬉しい。夜の散歩は好きだけど、陽毬がいるともっと楽しい。アパートがもっと遠ければいいのに。

 しかし隣町にある陽毬のアパートへは、ゆっくり歩いても三十分ほどで到着してしまった。陽毬は名残惜しそうに、おれの左手を両手で握りしめる。


「痛くなったら、ちゃんと痛み止め飲むんですよ。心細くなったら電話してくださいね」

「う、うん。じゃあ、おやすみ」


 しかし陽毬は眉を下げて「心配です……」と、なかなかおれの手を離そうとしない。

 おれはそんなにも頼りなく見えるだろうか。なんだか情けなくなってきた。おれはそもそも、普段から陽毬の優しさに甘えすぎだ。


「……ごめんな、陽毬」

「え?」

「おれがちゃんとしてないから、陽毬にいっぱい負担かけてるよな」

「そ、そんなこと」

「おれ、もっと陽毬に迷惑かけないような、しっかりしたかっこいい男になれたらいいのに……」


 彼女の前でこんな弱音を吐くなんて、ますますダサすぎる。やっぱりおれって、かっこわるい……。

 おれが項垂れていると、陽毬は大きく目を見開いて、ぎゅっとおれの腰に抱きついてきた。胸に顔を押しつけたまま、くぐもった声で「そんなの、やです」と呟く。


「しっかりなんて、しないでください……」

「ひ、陽毬?」

「……ごめんなさい、ごめんなさい薙くん……」

「……なんで陽毬が謝るの」


 唐突に謝罪の言葉を紡ぎ出した陽毬に、おれは困惑する。左手でぎこちなく頭を撫でてやると、彼女はいやいやをするように首を横に振った。


「……違うんです、薙くん。わたしほんとは、最低なこと考えてます。わたし、やっぱりいい子じゃないです」

「……なに?」

「わたし、今日一日すごく幸せで楽しくて。薙くんの怪我が治らなかったらいいのに、ってちょっとだけ思っちゃいました」

「え」

「そうすれば薙くんは、わたしがいないとダメで、ずっとわたしにお世話されてくれるのに……」


 ぐすん、と鼻をすする音が聞こえる。顔を覗き込むと、陽毬は涙目になっていた。潤んだ瞳で、縋るようにおれの胸元を掴んでいる。


「ごめんなさい。薙くんはわたしのせいで怪我をして、痛くて不自由な思いしてるのに、最低ですよね」

「……そ、そんなことないよ! おれも、その……今日一日、幸せだったから……」


 実際、おれだって陽毬と似たような気持ちがあった。陽毬に甲斐甲斐しく尽くしてもらえるのが嬉しくて、たまには怪我するのも悪くないな、となんてことを思ったりもした。この状況に酔いしれていたのは、お互いさまだ。


「……嫌いに、ならないで」


 吸血鬼の聴覚は、消え入りそうな声もちゃんとキャッチしてくれる。おれは陽毬の髪を撫でながら、きっぱりと答えた。


「ならないよ」


 ダメ押しのように、好きだよ、と云うと、陽毬はほっとしたように頰を緩めた。すりすりと胸に擦り寄ってくる仕草が可愛くて、心臓が高鳴る。

 左手を頬に添えると、陽毬が睫毛を震わせて目を閉じた。そのまま顔を近づけて、ゆっくりと唇を重ねる。触れた箇所は柔らかくて熱くて、もっと深いところまで貪りたくなったけれど、ぐっと堪えた。

 吐息が重なる距離で、陽毬が問いかけてくる。


「……明日も、お世話させてくれますか?」

「う、うん……よ、よろしくお願いします」

「ふふ。じゃあたくさん甘やかしちゃいます」

「甘やかされるのもいいけど……でもやっぱり、おれは早く怪我治したいかな」

「えっ」


 悲しそうに表情を歪めた陽毬に、おれはギプスで固められた右腕を指差してみせた。


「だって、これじゃ陽毬のこと抱きしめられない」


 甲斐甲斐しくお世話されるのも、悪くはないけれど。やっぱりおれだって、陽毬が落ち込んでるときは、ちゃんと抱きしめて甘やかしてあげたい。


「それは、たいへん困ります。一大事です」


 陽毬は腕が動かないのおれの代わりに、そっと背中に腕を回して優しく抱きしめてくれる。可愛い彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて、耳元で小さく囁いてきた。




「もし治ったら、今度は一緒にお風呂入りましょうね」

「……一刻も早く治すよ!」

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