番外編:薙くんの苦難と幸福に満ちた一日(中)

 授業が終わり放課後になると、陽毬はおれの家までやってきた。

 聞くと、今日はバイトが休みだと言う。もしかすると、おれのために休んでくれたのかもしれない。今日は周囲からの頼まれごとも適度に断っていたようだし、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 帰る途中に、駅のそばにある商店街で買い物を済ませてきた。陽毬は鼻歌混じりに食材を冷蔵庫に片付けている。今夜は陽毬が晩ごはんを作ってくれるらしい。


「キッチン、使わせてもらいますね。昨日のうちに、おばあさまにはきちんと許可を取りましたから」

「い、いつのまに……」

「わたしたち、SNSで繋がってるんです。おばあさま、旅行の写真投稿してましたよ。トランシルヴァニア、素敵なところですね」


 おれの知らないところで、陽毬とバアちゃんは着々と交友を深めているらしい。それにしてもSNSまで活用しているとは、バアちゃんは年寄りのくせにデジタル機器にも強いらしい。

 陽毬は制服の上から、持参してきた赤いエプロンを身につけた。セーラー服とエプロンの組み合わせってなんかいいな、ものすごくいいな、と変態のようなことを考えてしまう。


「薙くんの好きなクリームシチューにしますね」

「お、おれも手伝うよ」

「いえ、薙くんは怪我人ですから! 座っててください!」


 有無を言わせぬ口調で制されて、おれはダイニングチェアに腰を落ち着けた。「テレビでも見ててください」と言われたけれど、テレビよりも陽毬を見つめている方がうんと楽しいし飽きない。

 慣れた手つきで材料を切って、鍋に放り込み、同時進行で付け合わせのサラダを作る。惚れ惚れする手際の良さだ。

 煮込み時間のあいだに、陽毬がおれの着替えを手伝ってくれた。右手が使えないと、制服を脱ぐのも一苦労だ。ほどなくして、シチューのいい匂いが漂ってくる。


「お待たせしました」


 皿によそわれた湯気のたつシチューが、目の前に置かれる。これならスプーンを使って左手でも食べられるな、と思っていると、陽毬は嬉々としておれの隣に座った。

 スプーンでシチューをすくって、ご丁寧に「ふーふー」と冷ましてくれる。おれの口元にスプーンを差し出した陽毬は、極上の笑顔で言った。


「はいっ、薙くん。あーんしてください」

「えっ」

 

 自分で食べられるよ、と言おうかとも思ったけれど、ここにはおれたち以外誰もいない。それならまあ、別にいいか。おれは己の欲望に従い、素直に口を開けた。

 陽毬の手によって口の中に運ばれたシチューは、とても美味しかった。バアちゃんのレシピとはちょっと違うのか、コーンが入っていてほんのり甘い。彼女は料理も上手なのだ。


「……うん。美味しいよ」

「ふふ、嬉しいです。やけどしないように気をつけてください。おかわりもありますからね」


 陽毬に促されるまま、おれはシチューとサラダを食していく。文句なしに美味しいが、きらきらとした大きな瞳にじっと見つめられていると、なんだか落ち着かない。

 もぐもぐと咀嚼しているおれを見て、陽毬はご機嫌な様子で「うふふ」と笑っていた。彼女の笑顔はとても可愛いけれど、たまにちょっと不気味だ。


 シチューをすっかり平らげると、陽毬はテキパキと後片付けをしてくれた。おれは今日一日、本当に座っているだけだった。食後の牛乳を飲みながら、このままだと本当にダメ人間になってしまいそうだ、と考える。


「薙くん、お風呂入りますよね?」

「え? う、うん。シャワーだけど」


 おれはいつも夜通し起きているけれど、風呂は晩ごはんの後に入ることにしている。陽毬はこともなげに、「じゃあ、わたしが身体洗ってあげますね」と言ってのけた。

 おれは思わず牛乳を吹き出しそうになったけれど、すんでのところで堪えた。


「……っ……! ゲホッ、えっ、いや、そ、それは!」

「だって、その手じゃ大変ですよね? 昨日はどうしたんですか?」

「……ひ、左手でなんとかしたよ……大変だったけど」

「ですよね。じゃあ、先に入って待っててください。わたし、すぐに準備して行きますから」

「いやっ、そのっ、まだ……こ、心の準備が……」

「もう、何言ってるんですか」


 陽毬はおれのギプスをタオルで巻くと、上から防水用のビニール袋をかぶせた。めくるめく展開に頭が追いつかないまま、おれは脱衣所へと押し込まれる。躊躇いつつも、なんとか左手で服を脱いでバスルームの中へと入った。

 ――どうしよう。とんでもないことになってしまった。

 ようやく事態を把握したおれは、全裸で呆然と立ち尽くす。

 待っててください、ということは、陽毬が今からここに来るということだ。彼女と一緒に風呂に入るなんて、いや、いつかは入りたいとは思ってたけど、もう何段階も先のステップだと思っていたのに……!

 どういう状態で待っていればいいのかわからずにオロオロしていると、「入りますね」という声とともに、背後でバスルームの扉が開いた。


「きゃっ」


 陽毬の小さな声が響く。意を決して、おそるおそる振り向くと――そこに立っていた陽毬は、Tシャツとショートパンツ姿だった。

 ……おれはバカか! そりゃ、そうだよな! おれの身体洗うだけなら、陽毬が脱ぐ必要これっぽっちもないもんな!

 安心と落胆が入り混じった複雑な気持ちに包まれていると、陽毬は両手で目元を覆ったまま、口を開いた。


「あ、あの、薙くん……! すみません、そ、その、下の方はタオルか何かで隠していただけると、たいへん助かります!」


 珍しく動揺した様子の陽毬に、おれははっと我に返った。そうだ。陽毬はしっかり服を着ているけれど、こっちは全裸だった。

 おれは慌ててタオルを腰に巻きつけると、洗い場の椅子に座る。「い、いいよ」と言うと、陽毬はようやく顔から両手を離した。落ち着きを取り戻した陽毬は、シャワーを出して温度を確認している。


「薙くんはどこから洗うタイプです?」

「……頭からかな」

「では、下を向いてください」


 言われるがままに下を向くと、陽毬はおれの頭にシャワーを浴びせた。じゅうぶん濡らしたあと、シャンプーで優しく洗ってくれる。「かゆいところはありませんか?」と尋ねられると、なんだか美容院に来たみたいだ。普段は適当に済ませるけれど、陽毬はトリートメントをしたあと、頭皮マッサージまでしてくれた。

 髪を洗い終わると、陽毬はボディーソープをスポンジを泡立てた。まずは背中から、するすると泡を肌が滑っていく。たまに、陽毬のすべすべとした手が直接触れる。陽毬の手はちょっとひんやりしていて、柔らかくて気持ちいい。


「……」


 ……やばい。なんだか変な気分になってきたぞ。

 陽毬は真剣におれを心配してくれて、おれのために介助行為をしてくれているのだから、この状況でいかがわしいことを考えるのは失礼すぎる。

 いや、無理だろ。好きな女の子に自分の身体をあちこち触られて、反応しない方が酷では?


「……前の方も洗いますね」


 陽毬はそう言って、おれの正面に回り込んできた。左手では洗いにくい左腕のあたりに、ゴシゴシとスポンジを擦りつけている。

 陽毬が前屈みになると、Tシャツの襟ぐりからきれいな鎖骨が覗いて、そこから柔らかそうな膨らみに続いていくのがわかる。白いうなじに濡れた後れ毛が貼りついている。もはやご褒美なのか、拷問なのかわからない。

 このまま下の方も洗われたら今度こそやばいな、と思っていたのだけれど、陽毬はぱっと手を止めた。間近にあるおれの顔をまじまじと見て、かあっと頰を染める。たぶん、興奮で真っ赤になっているおれの瞳に気がついたんだと思う。

 ……ああ本当に、厄介な体質だ。


「あの……あ、あとは自分でできますか?」

「あ、う、うん! ひ、一人で大丈夫! あ、ありがとう!」

「で、では……ごゆっくり」


 陽毬はそう言って、そそくさとバスルームを出て行った。ようやく緊張が解けたおれは、はーっと大きく息を吐く。

 本当はいろいろと大丈夫じゃないところもあるけれど、それは左手でなんとかすることにしよう。

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