41:今すぐ会いに行くよ

 昼休みを終えておれが教室に戻ると、陽毬の姿はそこにはなかった。葛城くんによると「体調不良で早退した」とのことだった。

 その次の日も、陽毬は学校に来なかった。おれは胸にぽっかりと穴が空いたような空虚な気持ちで、いつも以上に覇気がなかった。

 ただ惰性で学校に来て、誰とも口をきかず、ぼんやり授業を受けるだけ。もともと陽毬と親しくなるまではずっとこんな感じだった気もするが、もうあんまり思い出せなかった。いつのまにか、陽毬がそばにいることが当たり前になっていたのだ。

 ここ数日は血を飲んでいないせいで体調が優れなかったが、おれはもう誰かの血を飲むことはないのだろうな、と思っていた。陽毬以外の人間の血なんて飲みたくない。人工血液すら、飲む気になれなかった。




「ナギ。おまえ大丈夫か?」


 昼休みに一人、暗室で昼飯を食っていると、いきなり零児がやって来た。どうやら鍵をかけ忘れていたようだ。

 おれは牛乳をすすりながら、目線だけを零児に向ける。心配してくれるのはありがたいことだが、今は誰とも話したくない気分だった。

 零児は許可も取らず、おれの隣に腰を下ろしてきた。おれの顔を覗き込んで、「うわっ」と声をあげる。


「今にも死にそうな顔してんぞ。鏡見たか?」


 鏡を見たところで陰気な吸血鬼が映っているだけなのだから、見たくもない。陽毬がきれいだと言ってくれた赤い瞳も、小さな牙も、尖った耳も、おぞましく感じられて仕方がなかった。


「陽毬ちゃん、今日休み? 体調大丈夫なのか?」

「……わからない……」

「おまえなー、彼氏だろ。お見舞い行ってやれよ」

「おれにそんな資格ないよ……」


 弱々しい声で言ったおれに、零児は溜息をついた。


「はあ? 資格ってなに? ジメジメジメジメめんどくせー。カビ生えそうだわ」

「……零児は、人間の女の子と付き合って、自分のことが嫌になったりしないの」


 おれはもう、自分のことが嫌で嫌で仕方がなかった。どうしておれは吸血鬼なんだろう。こんな状況なのに、おれは陽毬の血が飲みたい。白いうなじに噛みついて、頭を撫でられたい。

 夜ごとそんなことを妄想してしまう自分に、ほとほとうんざりしていた。


「おれが人間だったら、もっとまともに、陽毬のこと大事にしてあげられたのに」


 おれ、吸血鬼じゃなければよかった。

 その言葉を聞いた零児は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。なんだか傷ついたような、怒ったような目つきだった。

 しかしその目がこちらを向いたときには、いつもの飄々とした表情に戻っていた。


「おまえは昔から吸血鬼で一括りにされるの嫌がってたくせに、自分は同じことするんだな」

「う……」

「俺だって、たまに自分のこと嫌になるよ。でもそれは、俺が吸血鬼だからじゃない」


 零児は唇の端を歪につり上げて、自嘲するみたいに笑った。


「俺、ちゃらんぽらんだしいい加減だし、女癖悪いし、今までいろんな女の子泣かせてきたよ。自分でもクズだなって思う。でも、ナギは俺とは違うだろ」

「……でも、おれだって……」

「俺はたぶん吸血鬼じゃなくてもクズだし、おまえが陽毬ちゃんのこと傷つけたと思ってるなら、それはたぶん吸血鬼だからじゃない。おまえ自身に問題があるんだよ」

「……でも、人間は好きな女の子の血を飲んだりしない」


 零児は呆れたように「おまえ、そんなめんどくさいこと考えてたんか」と肩を竦めた。黙っていると、びしりと人差し指を突きつけられる。


「もうちょいシンプルに考えろよ。相手の血を飲みたいっていう欲だって、キスしたいとかセックスしたいと同じじゃん」

「……お、同じじゃないよ」

「同じだろ。相手の気持ち次第だよ。受け入れられなかったら犯罪だし、受け入れられたら愛情表現。陽毬ちゃんの気持ちを無視して血を飲んだ奴とは違う」

「そう、かな……」

「俺、相手の意思を確認しろって言ったろ。おまえ、陽毬ちゃんと話し合ったのか?」


 おれが無言でかぶりを振ると、零児は小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、「だからおまえはモテないんだよ」と言った。反論の余地はない。

 ……結局のところおれは、自分が吸血鬼であることを言い訳にして、陽毬から逃げたのかもしれない。


 ――薙くん、待って……。


 あのときおれに手を伸ばした陽毬がどんな顔をしていたのか、おれは知らない。彼女の顔を見ようともしなかったからだ。

 結局おれは最後まで、彼女の本音を聞いて甘えさせてやることができなかった。

 半分ほど残った牛乳を、ごくごくと飲み干す。なんだかやけに味気なく感じられて、紙パックをぐしゃりと握り潰した。




 授業が終わって放課後になっても、おれは自分の席から動くことができなかった。陽毬に会いにいくべきか否か、悩んでいたのだ。

 思い詰めたような顔でじっとしているおれを、クラスメイトはチラチラと気にしつつも、声をかけてはこなかった。みんなあの事件以来、おれを遠巻きにしている。葛城くんのように、今までと変わらず話しかけてくれる奴もいたけれど、ほとんどはおれのことを腫れ物のように扱っていた。


「山田くん、何やってるの」


 そんな中で声をかけてきたのは、隣の席の松永だった。驚くべきことに、こいつも臆せずおれに話しかけてくるうちの一人だ。松永のことだから、さんざんおれを罵倒してくるだろうと思っていたのだが、そんな素振りはない。

 彼女は腰に手を当てて、じろりとこちらを睨みつけてきた。まるで問題児を叱る学級委員のような仕草だ。


「どうして一番ヶ瀬さんのところに行ってあげないの」


 唐突に陽毬の名前が出てきて、どきりとした。おれが「……うーん……」と口籠っていると、松永の表情がどんどん険しくなっていく。煮え切らないおれにイライラしているのだろう。相変わらず短気な女だ。


「いつまで経ってもウジウジウジウジ、めんっどくさいのよ! そんな顔するくらいなら、さっさと行ってきなさいよ!」


 バン、と勢いよく机を叩かれて、びくりと肩が揺れる。おれは下を向いたまま、ボソボソと言った。


「……おれ、怖いんだよ」

「なにが?」

「陽毬に会ったらたぶん……陽毬の血が飲みたくなる」


 陽毬に会いたい。でも、会うのが怖い。吸血欲も性欲と同じだという、零児の言いたいこともなんとなくわかる。でも、おれはそこまで割り切れない。

 おれが飲みたいと言えば、陽毬は自分の意思に関係なく、血を差し出してしまうんじゃないだろうか。そんなことばかりぐるぐると考えると、足がすくんで動けなくなる。


「それの何がダメなの? 一番ヶ瀬さんがいいと言ってるなら、いいじゃない」


 松永の言葉に、おれは弾かれたように顔を上げた。松永は相変わらず目を三角につり上げたまま、こちらを見下ろしている。


「山田くんは、どうして一番ヶ瀬さんの血を飲むの」

「……おれが、吸血鬼だから……」

「違うでしょう。あなた、前に言ってたじゃない」


 ――好きだからだよ。陽毬が好きだから、血を飲みたいと思う。


 以前松永に言ったセリフを、おれはようやく思い出した。「吸血鬼って厄介な生き物ね」と言った松永の、同情の滲んだ顔も。


「……私、あれからちゃんと調べたの。お互いの信頼関係に基づいた吸血行為は、恋人や夫婦間ではスキンシップのひとつとして用いられているそうね」


 松永の言葉に、おれは少なからず驚いた。彼女の吸血鬼に対する嫌悪感は相当なものだったはずだ。植えつけられた偏見は、簡単には払拭できないと思っていたのに。

 それでも彼女は、吸血鬼おれのことをきちんと知ろうとしてくれた。目を背けずに、歩み寄ってくれたのだ。


「もちろん同意もなしに噛みつくのは論外だし、学校でそういった行為に及ぶのはいかがなものかと思うけれど……それでも私、もうあなたのことをおぞましいだなんて思わないわ」

「松永……」

「だって、あなたは一番ヶ瀬さんのことが好きなだけでしょう」


 松永の問いかけに頷く。その瞬間に、おれの決意は固まった。

 陽毬が好きだ。好きだから、諦めたくない。俺の気持ちをきちんと伝えて――それから陽毬の本当の気持ちも、ちゃんと教えてもらおう。


「……おれ、陽毬に会いに行く」


 おれは陽毬を傷つけた吸血鬼とは違う。陽毬が嫌がることは、絶対にしない。どんなに血が飲みたくても、陽毬のことを大事にしたい気持ちだけは本物だと胸を張って言える。

 

「それがいいと思うわ。きっと私だったら、こういうとき好きな人に抱きしめてもらいたいと思うもの」


 松永は満足げに言ったが、おれの胸には一抹の不安がよぎる。おそるおそる、松永に向かって尋ねた。


「でも……陽毬って、おれのこと好きなのかな?」


 松永は「何言ってんだコイツ」と言わんばかりの冷たい視線で突き刺してくる。美人に睨みつけられて喜ぶ男はこの世に少なくないのかもしれないが、おれは全然嬉しくない。


「……どうして一番ヶ瀬さんは、あなたに血を飲ませてくれると思う?」

「陽毬が優しいから?」

「……自分で訊いてきなさい」


 松永の言葉に、おれは素直に頷いていた。鞄を掴んで立ち上がると、教室を飛び出して全力で廊下を駆け出していく。こんなに本気で走るのは、小さい頃に激怒したバアちゃんから逃げたとき以来だ。

 陽毬はいつだっておれに与えてくれるばかりで、何かを求めることに臆病だった。でも、彼女に必要とされたいのはおれだって同じだ。陽毬がそれを求めてくれるなら、いくらでも抱きしめて慰めてやりたい。


 スニーカーを履いて校舎の外に出ると、いつのまにか雨が降り始めていた。雨が嫌いだと言っていた彼女は、今頃あの寒々しいアパートで、ひとりぼっちで膝を抱えているのだろうか。

 あいにく傘は持っていなかったが、そんなことはどうでもよかった。今すぐ彼女の元に駆けつけたくて、おれは降りしきる雨の中に飛び出していった。

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