40:手を離す覚悟

 朝が来てしまった。さんざん眠ったというのに、まだ眠い。

 ずるずるとゾンビのようにベッドから這い出したおれは、学習机の上に置いていた体温計をワキに挟む。ピピッという電子音が鳴ったので確認すると、もうすっかり平熱に下がっていた。これなら学校に行けそうだ。

 スマホを充電器から引き抜いて、トークアプリを開く。ゆうべ陽毬に送った「気をつけてね」というメッセージは既読になっていたけれど、返信はなかった。バイトで疲れて眠ってしまったのだろうか。いつも欠かさず返事をくれるのに、珍しいことだ。

 陽毬はおれにはもったいないくらい、男の憧れを体現したといっても過言ではないくらいに、完璧な彼女だ。常に笑顔で、優しく穏やかで、決して怒らず、ワガママを言って困らせることもない。いつだっておれの意思を優先してくれて、これ以上ないぐらいに尽くしてくれる。どこからどう見ても百点満点の「いい彼女」だ。

 ……そんな陽毬に不満を抱くおれの方が、どうかしているのだ。


 ――わたし、薙くんになら傷つけられてもいいですよ。


 おれが陽毬を押し倒したとき、彼女は少しも抵抗する素振りを見せなかった。陽毬はきっと、おれが望めば何でも受け入れてくれる。

 彼女の血を飲んでいるとき、自分の中のどうしようもなく凶暴な部分が顔を出すことがある。もしかすると、吸血鬼の本性というやつなのだろうか。

 噛みつきたい。血を飲みたい。それから、とても口に出せないような、もっともっと凶暴な欲も。

 おれはいつか、大好きな女の子を取り返しがつかないくらいに傷つけてしまうのかもしれない。そして陽毬は、おれの行為を笑って受け入れてしまうのだろう。

 おれはそれが、何より恐ろしかった。




 登校して教室に入るなり、妙な空気だな、と思った。

 いつも騒いでいる生徒たちも静かで、大きな声を出している奴はいないのに、なんだか変にざわついている。あちこちでヒソヒソ話が交わされているのだ。

 窓際で話をしていた女子二人組が、ちらりとおれの方を見て、すぐ視線を逸らした。ちょっと嫌な感じだ。

 教室の中に、陽毬の姿はなかった。寝坊だろうか。それともおれと同じように、風邪をひいてしまったのだろうか。陽毬は一人暮らしだから、体調を崩したらさぞ大変だろう。ああ、もっとおれに甘えて頼ってくれたらいいのに……。

 そんなことを考えているうちに、小早川先生が教室に入ってきた。なんだかやけに神妙な顔つきをしている。先生が教卓に立つなり、しん、と教室中が水を打ったように静まり返った。

 朝のホームルームは、普段ならば先生が出欠確認をして、いくつか事務連絡をするだけで終わる。しかし今日の先生は、出欠を取ることもなく、重々しい口調で話し始めた。


「あー、もう知ってる奴もいるかもしれないが……昨日の夜、一番ヶ瀬が吸血鬼に襲われた」


 小早川先生がそう言った瞬間、カラン、と手からシャーペンが落ちた。コロコロと床に落ちて、隣の席まで転がっていったけれど、そんなことはおれにとってどうでもよかった。

 ……陽毬が? 襲われた? 吸血鬼に?


「血を吸われただけで、命に別状はない。ただひどい貧血を起こしていて、まだ目が覚めてないみたいだ。しばらく入院することになると思う。まだ犯人も捕まってないから、くれぐれも夜道の一人歩きはしないように……」


 先生の話を聞きながら、おれは知らず机の上できつく拳を握りしめていた。

 頭の中に、見知らぬ男に噛みつかれる陽毬の姿が浮かぶ。想像しただけで、発狂しそうな光景だった。陽毬にそんなひどいことをしたのは、一体どこのどいつだ。

 腹の底から、マグマのように煮えたぎる怒りが湧き上がってくる。先日陽毬の父に抱いたものよりももっと激しくグロテクスな、憎しみというには生ぬるい――殺意と呼ぶに相応しい感情だった。おれは心を落ち着かせるように深呼吸をする。

 沸騰するような感情がやや鎮火すると、おれは今すぐに、陽毬の顔が見たくなった。

 まだ目が覚めていないって、本当に大丈夫なのか。入院するって、一体どのくらい。きっと、すごく怖い思いをしただろう。今すぐ会って無事を確認したい。

 先生に「早退します」と言おうと顔を上げたところで、ふと、みんながおれのことをチラチラ見ていることに気がついた。クラスメイトから向けられる視線には、嫌悪と恐怖の色が混じっている。

 そのとき、おれはいまさらのように思い至ってしまった。

 ――そうだ。おれも、陽毬を傷つけた奴と同じ、吸血鬼じゃないか。

 おれが吸血鬼であるということは、クラスの全員が認識していた。それでもみんなは幼少期から叩き込まれてきた「吸血鬼も人間も関係なく、みんな仲良くしましょう」という道徳のもと、今までおれを表立って差別することはなかった。

 しかし、実際に陽毬クラスメイトが襲われた今、吸血鬼という存在の恐ろしさを、みんなはまざまざと実感している。

 今までぼんやりとニュースで見ていた事件が、実際に身近なものとして起こったとき――人畜無害だと思っていた吸血鬼おれのことを、果たして今までと同じような目で見れるだろうか?

 そして、なにより――他でもないおれ自身が、吸血鬼おれのことを嫌悪していた。

 想像の中で陽毬に牙を立てていた男の姿が、おれと重なる。おれもあいつと同じだ。自分の欲のために陽毬の血を吸って、彼女のことを傷つけた。

 ……今の陽毬は、果たしておれに会いたいと思ってくれるだろうか。会いに行く資格があるだろうか。


「……落としたわよ」


 突然声をかけられて、はっと我に返る。見ると、松永がこちらに向かってシャーペンを差し出していた。おれは黙ってそれを受け取る。

 松永が何か言いたげに口を開いたけれど、おれは何も聞きたくないとばかりに机の上に顔を伏せた。今「やっぱり吸血鬼はおぞましい」みたいなことを言われたら、自己嫌悪のあまり死んでしまいそうだった。




 結局おれは、陽毬が退院するまで彼女に会いに行かなかった。

 葛城くんから一緒に見舞いに行かないかと誘われたが、断った。そのあと「意外と元気そうだったよ」と教えてもらって、心底ほっとした。

 松永からは「どうして一番ヶ瀬さんのお見舞いに行かないの」と詰められたが、おれはそれを無視していた。

 陽毬は退院してすぐに登校してきた。ポニーテールを揺らして陽毬が教室に入ってきた瞬間、おれは泣きそうになってしまった。

 陽毬が無事でそこにいて、笑っている。今のおれにとっては、それだけで充分だった。

 人気者の陽毬はすぐにクラスメイトに囲まれて、ニコニコしながら「心配かけてごめんなさい」と答えていた。きっとみんな、心の底から陽毬を心配していた。本当はおれ以外にも、彼女を必要としている人間はたくさんいる。最初から、おれが手を伸ばしていい存在じゃなかったんだ。


 昼休みが始まるなり、おれは教室を出て行った。陽毬が話しかけたそうにこちらを見ていることには気付いていたけれど、おれは彼女のことを避けていたのだ。

 背後からパタパタというスリッパの音が聞こえる。セーターの裾をきゅっと掴まれた瞬間、甘い香りが漂ってきて心臓が跳ねた。ああ、陽毬の匂いだ。


「な、薙くん」


 やけに不安げな、陽毬の声がする。おれは彼女の顔を見ることができなかった。今顔を見てしまったら、きっと力いっぱい抱きしめてしまう。そうしたらおれはもう、陽毬のことを離してやれなくなる。


「あの……風邪、大丈夫ですか?」


 あろうことか陽毬は、こんなときまでおれの心配をしていた。背中がすうっと冷たくなる。自分の方がもっとずっと、辛い目に遭っていたのに。どうしてこんなときまで、おれのことばっかり……。


「薙くん、顔色悪いですよ。わたし、もう元気なので……血、飲んでください」


 陽毬の言葉を聞いた瞬間、めまいにも似た感覚がした。

 見知らぬ吸血鬼に襲われた彼女は、それでも健気にも吸血鬼おれに身を差し出そうとしている。

 ――やっぱり、陽毬のそばにいるべきはおれじゃない。おれはこれからも、彼女を傷つけることしかできない。

 俯いたまま、ぐっと拳を握りしめる。声が震えないように、腹に力を込めて。彼女に「好きだ」と告げたときよりも、うんと重たい覚悟を抱えながら、おれは言った。


「……おれ、もう陽毬の血は飲まない」


 背後で、陽毬が息を呑む気配がした。「薙くん、待って」と差し出された手を、断腸の思いで振り払う。

 ごめん、ごめんな。陽毬。おれの知らないところで、おれの知らないまともな人間と、幸せになってくれ。

 振り返るな、と自分に何度も言い聞かせながら、おれは歩き出す。腹の底で煮えたぎる怒りは、陽毬を襲った吸血鬼に対するものではない。彼女を傷つけることしかできない、自分自身へ向けられたものだった。

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