35:はじめてのおつきあい

 山田薙、十六歳と十ヶ月。生まれて初めて、可愛い彼女ができた。


 締め切った分厚いカーテンの向こう側に朝の気配を感じて、やばいそろそろ寝なくては、と思う。いつもはこのぐらいの時間になると眠気が襲ってくるのだが、興奮で目が冴えて眠れそうにない。

 昨日おれは、勢い余って陽毬に告白してしまった。

 本当は、そんなつもりは少しもなかったのだ。それでも、腕の中にいる陽毬が、なんだかこのままどこかに行ってしまいそうな気がして――なんとかして彼女のことを繋ぎ止めたくて、必死だった。


 ――おれ、陽毬のことが好きだ。


 おれの口をついて出たのは、その場の勢いに任せた、かっこ悪い告白だった。もっとロマンチックなシチュエーションがあったんじゃないかとか、もっと堂々と言えたらよかったのにとか、反省すればきりがない。

 それでも陽毬は、おれの手を優しく握り返してくれた。


 ――全然、だめじゃないです。嬉しい、です。


 可愛かった。めちゃくちゃ可愛かった。あんなに可愛い女の子が、俺の彼女!

 陽毬の笑顔を思い出したおれは、枕に顔を埋めてジタバタと暴れ回った。まるで恋する乙女である。傍から見たらさぞかし気持ち悪いだろうが、今この部屋にはおれしかいないのだから、なんの問題もない。

 もしかして自分に都合の良い夢だったのでは、という不安が唐突によぎり、おれは慌ててスマホを確認した。ゆうべ彼女と交わしたやりとりが、メッセージアプリの画面にしっかりと残っている。


 ――薙くんの彼女になれて嬉しいです。これからよろしくお願いします。


 そのあと、ぺこり、とお辞儀をするウサギのスタンプが続く。おれは再びベッドの上で悶える。

 しかし、喜びに浸りながらも――おれの心には、こびりついたまま取れない黒い染みが残っている。それでも今はそれに気付かないふりをして、おれは目を閉じて無理やり眠りについた。




 目が覚めても、陽毬からのメッセージは消えていなかった。おれは何度もスマホを確認して、昨日のやりとりを思い返し、ウキウキと軽い足取りで学校に向かう。

 十一月の朝の空気はひやりと冷たく、太陽は分厚い雲に覆い隠されており、おれの心も晴れやかだった(曇りだけど)。

 駅に向かう途中で、零児の後ろ姿を見つける。いつもだったら気付かないふりをするところだが、浮かれたおれは小走りで零児に追いついた。


「おはよう!」

「うわっ、びっくりした」


 いつになく元気よく声をかけたおれに、零児はびくっと肩を揺らした。欠伸をしながら振り向いて、「薙がテンション高いの、めっずらし」と怪訝そうに眉を寄せる。


「うん。ちょっと、良いことがあって」

「あっそ。そりゃよかったな」

「何があったのか訊かないの?」

「興味ねえな」

「いや、訊いてくれ。お願いします」


 おれが懇願すると、零児は面倒臭そうにしながらも「何かあった?」と尋ねてくれた。

 おれは正直、昨日から誰かに言いたくて言いたくて仕方なかったのだ。晩飯のときから、バアちゃんに話してしまおうか、とちょっとソワソワしていた。しかし、家族に対して「そういう」話をする照れの方が勝って、結局何も言えなかったのだ。


「……おれ。陽毬と、付き合うことになった」


 背筋をぴんと伸ばして、なんだか誇らしいような気持ちで告げる。

 しかし、想像していたような反応は返ってこなかった。零児はもうひとつ大きな欠伸をしたあと、つまらなさそうに答える。


「へー。おめでと」

「……なんだよ。もうちょっと反応してくれ」

「だって俺、完全に当て馬じゃん。おまえは友達を当て馬にして手に入れた幸せで、心の底から喜べるのか?」

「最高にハッピーだよ!」

「おまえ、意外といい性格してるよな……」


 零児の反応の薄さは不服だったが、数多の処女を千切っては投げてきたこの男にとっては、大したイベントではないことも理解できる。おれとは重ねてきた経験値が違うのだ。


「なあなあ零児。女の子って、何したら喜んでくれるかな……」

「はあ? そんなん、人によるだろ」

「零児はデートとかどこ行く? プレゼントとかしてもいいかな? 指輪とか急にあげたら重すぎる?」

「……おまえ、相手の趣味じゃないダサいアクセサリーとかいきなり買ってくるタイプだろ。絶対やめとけ。まずは相手の意向を確認しろ」

「わかった」


 こいつの下半身はゆるゆるだが、女心を読むことにかけてはおれより数段上手である。おれは「まずは相手の意向を確認する」と心のメモ帳に書き留めた。


「ま、今のうちにせいぜい浮かれとけよ。言っとくけど、恋愛なんて付き合ってからの方がずっと大変なんだからな」


 せっかく人が幸せに浸っているところに、水を差すようなことを言う奴だ。

 零児の言葉に、忘れかけていた不安が再び頭を掠めた。じりじりと足元から迫ってくる影のような不安を蹴飛ばすように、足早に歩き出す。




 教室に入って陽毬を見つけた瞬間、くだらない不安なんてすぐさま吹き飛んでしまった。

 見慣れた教室の中で、彼女の姿だけが一段彩度が高いような気がする。友人と談笑をしていた陽毬は、こちらに気付いて小さく手を振ってきた。いつものように、おれもこっそり手を振り返した。

 授業中もずっとポニーテールの後ろ姿を見つめながら、にやにや笑いを必死で堪えていた。ときおり頰の裏側を必死で噛んでいるおれに気付いたのか、隣の席の松永には怪訝そうな視線を向けられてしまった。


 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、おれたちは連れ立って暗室へと向かう。陽毬と並んで歩いているだけで、ふわふわと一センチぐらい浮き上がっているような感覚がした。

 しかし昼飯を食べ終わって、陽毬に「デザートいりますか?」と尋ねられたとき、おれは気付いてしまった。これでは、付き合う前と何ひとつ変わっていない。

 よくよく考えると、これまでも手を繋いだり抱き合ったり血を飲んだり飲まれたりしていたのだから、付き合ったところで、いまさら何をすればいいのだろうか。

 突如として脳内の零児が、「することなんて、ひとつしかねえだろ」と下卑た笑みを浮かべて、おれはすぐさま頭の中で零児を殴り飛ばした。馬鹿野郎。そういうのは、まだ早い。

 おれが逡巡していると、陽毬が不安げに顔を覗き込んできた。


「薙くん。血、飲まないんですか?」

「……あのさ、お、おれたち、つ、付き合ってるんだよな?」

「はい!」


 元気よく頷いてくれて、ホッとした。よかった。どうやら昨日の出来事は、おれの都合の良い夢ではなかったらしい。


「その、これじゃあ今までとあんまり変わんなくない?」


 おれの言葉に、陽毬は腕組みしてうーんと考え込む様子を見せる。しばらくして、「じゃあ、こういうのはどうです?」とニッコリ笑った。ほっぺたに浮かんだエクボが可愛くて、数秒見惚れてしまう。

 おれたちはいつもの長椅子に、二人並んで座っている。陽毬は座ったまま、自分の膝をぽんぽんと叩いてみせた。彼女の意図が掴めず、おれは首を傾げる。


「え、なに?」

「膝枕です」

「ひっ、ひざまくらぁ!?」

「大丈夫ですよ。太腿の肉づきにはそこそこ自信があります!」


 堂々と言ってのけた陽毬に、おれは思わずスカートに隠された陽毬の腿を確認してしまう。

 たしかに柔らかそうだけれど、陽毬は自分を評価するポイントがちょっとズレている。もっと誇るべきところ、いっぱいあると思うよ……。


「……嫌、です?」

「嫌なわけない!」


 おずおずと尋ねられて、おれは即答した。可愛い彼女からの膝枕のお誘いなんて、断れるはずもない。

 陽毬はほっとしたように「よかったあ」と言って、再びぽんぽんと膝を叩いた。おれは躊躇いつつも、「……失礼します」と膝に頭を預けた。


「いかがでしょうか?」

「……最高です」


 生まれて初めての膝枕は、想像していたよりももっとずっといいものだった。

 自信があると豪語していただけのことはあり、頭の下にある陽毬の腿は柔らかくて気持ち良い。甘ったるい血の匂いとはまた少し違う、花のようなやさしい香りがする。


「……ひっ」


 小さな手に耳を軽く撫でられた瞬間、ぞくぞくと背中に電流が走るような感覚がした。なんだか変な感じがする。「ちょ、ちょっと待って……」と言ったけれど、陽毬は楽しそうにおれの耳を弄っている。


「薙くんの耳、尖ってて可愛い」

「……そ、そうかなあ」

「なんだか猫みたいですね」


 おれは落ち着かないけれど、陽毬はいたく楽しそうだ。彼女の手が耳の裏を撫でるたび、くすぐったくてなんだか変な感じがする。

 彼女の手から逃れるように寝返りを打って上を向くと、おれを見下ろす陽毬と目が合った。垂れ下がったポニーテールが鼻先をくすぐる。ニコッと微笑まれて、自分の顔がだらしなく緩むのがわかる。


「……なんでこの角度から見ても可愛いんだろう……人類の神秘じゃない?」

「あっ、毛穴とかまじまじ見ないでくださいね」

「陽毬は毛穴のひとつひとつまで可愛いよ……」

「なんだかおかしなことを言ってますね。もしかして、眠いんですか?」


 寝ぼけているわけではないが、心地良い眠気に襲われているのも事実だった。枕は最高だし、なにせ昨日はほとんど眠れていないのだ。


「寝ててもいいですよ。血を飲むのは、夜にしましょう」


 囁くような声が心地良くて、瞼がゆるゆると落ちそうになる。こんなにも幸せなことがあっていいんだろうか。


「……おれ、死ぬ前に見る景色はこれがいいなあ」

「……縁起でもないこと言わないでください」

「あ、そっか……おれの方が長生きするんだもんな」


 少し前に、約束した。きっとおれの方が長生きするから、陽毬を置いていったりしないと。彼女を看取るのはたぶんきっとものすごく悲しいだろうけど、彼女を置いていく方がずっと辛い。


「おれ、ちゃんと陽毬のこと看取るから……できるだけ陽毬も長生きして」

「……わたしきっと、薙くんよりもうんと早くおばあちゃんになりますよ」

「陽毬はおばあちゃんになっても可愛いと思うよ」

「……わたしが死ぬまで、一緒にいてくれるんですか?」

「当たり前だろ」


 きっぱり答えると、陽毬の表情がほんの一瞬泣きそうに歪む。どうしたのと尋ねる前に、てのひらで目を覆われてしまった。


「……ありがとう、ございます」


 囁くような、陽毬の声が僅かに震えている。今の彼女がどんな顔をしているのか気になったけれど、ふいに睡魔が襲ってきた。おやすみなさい、という優しい声とともに、おれはゆっくりとまどろみの中に落ちていった。


 



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