34:終わりに向かう恋だとしても

 ――死ぬなら俺の知らないところで、迷惑のかからないように死んでくれ。


 伯父の冷たい目に見据えられるたびに、わたしはいつも心臓が凍りつくような気持ちになる。自分はこの世に必要のない人間なんだという事実を、突きつけられているようで。

 伯父は昔から、わたしの母と折り合いが悪かったらしい。奔放な母のせいでいつも割りを食ってきたのだと、忌々しげに言っていたことがある。

 引き取られてから、表立って虐められたり、危害を加えられるようなことはなかった。困らない程度の衣食住をきちんと与えてくれて、学校にも行かせてくれた。なんだかんだで伯父は、責任を果たさずにはいられない真面目な人なのだ。

 それでも伯父は、わたしに向かって事あるごとに繰り返した。


 ――おまえはあいつが俺に押し付けた、最後のお荷物だ。


 何度もそう言われ続けているうちに、わたしは誰からも必要とされない人間なのだと、強く自覚するようになった。

 いくら頑張って「いい子」を演じたところで、わたしは何の価値もない人間だ。邪魔者でしかないんだ。だから、母もわたしのことを捨てて出て行った。

 伸ばした手を振り払われた瞬間が思い起こされて、まるで足元の地面がなくなったような感覚に陥る。もうこのまま消えてしまってもいいかな、なんて考えが頭をよぎる。

 わたしがいなくなったところで、きっと誰も悲しまない。真っ逆さまに、一人ぼっちで闇の中に落ちていく。


「陽毬が欲しい」


 そんなわたしを引き留めたのは、薙くんの言葉だった。囁く声には切実さがこもっていて、ぎゅっと背中に回された腕の力は強い。

 わたしは顔を上げて、まっすぐ薙くんの顔を見つめた。電気をつけていないせいで、彼の表情がよく見えない。闇に浮かぶ瞳の色は落ち着いていて、興奮しているわけではないとわかる。

 彼の胸に頰を寄せると、ゆっくりと瞼を下ろした。自分のものではない体温に包まれるのは安心する。今まで知らなかったぬくもりを教えてくれたのは彼だ。押し当てた耳に響く、どくどくどく、という鼓動のリズムが心地良い。

  ――今この瞬間に、この人に全部食べ尽くされて死ねたらどんなにいいだろう。

 

「全部、あげます」


 薙くんの腕に抱きしめられながら、わたしは空っぽだった心がじわじわと満たされているのを感じていた。

 それと同時に、薙くんの身体に自分がすっぽりと包まれていることに気がついて、どきりとする。ほんの半年前までは、わたしとほとんど身長が変わらなかったはずなのに。「陽毬」とわたしの名前を呼ぶ彼の声が、頭の上から聞こえてくる。

 薙くんの牙が、わたしの首筋に押し当てられる。鋭い痛みが走って、ああわたしは生きてるんだな、と実感する。わたしはきっと、今この瞬間のために生きている。黒髪から覗く、尖った耳に優しく触れる。

 数分ののち、彼の唇が離れた。はあ、と耳元で吐かれる息が熱い。顔を覗き込むと、さっきまでは茶色かった瞳が真っ赤になっているのがわかって、わたしの心が歪んだ愉悦に満たされる。


「……ありがとう……」


 唐突にお礼を言ったわたしに、薙くんは「それはこっちのセリフだろ」とちょっと笑う。わたしは彼にしがみついたまま、首を横に振った。

 たぶん彼は今、どうしても血が飲みたいわけではなかったのだろう。きっとわたしを慰めるために、わたしのことを欲しがってくれた。その優しさが嬉しくてくすぐったくて、ちょっとだけ苦しい。

 じわりと目頭が熱くなって、目尻からぽろりと涙がこぼれ落ちた。自分でも何故だかわからないままに、はらはらと頰を流れていく。わたしが戸惑っていると、薙くんはわたしの涙を指で拭って、そのまま口に運んだ。


「……甘い」

「しょっぱく、ないんですか」

「涙も血と同じ成分だって、聞いたことある」

「……じゃあ、飲んでください」


 わたしの言葉に、薙くんはわたしの両肩を掴んで、そっと頰を舐めた。なんだかミルクを舐める猫みたいだ。薙くんに飲んでもらえるなら、流した涙だって無駄じゃないと思える。

 ぺろりと目尻を舐められて、ようやくわたしの涙は止まった。母がいなくなったあの日以来、誰かの前で泣くのは初めてだった。

 ――ああ、わたし。薙くんがいないと、ちゃんと泣くことすらできなかったんだ。


「……薙くんに欲しがってもらえると、ここに居てもいいんだって思えるんです……」

「……うん」

「あなたに求められると、存在を認められたような気持ちになるんです。生きててもいいんだ、って思えます」


 ありがとうございます、ともう一度告げる。薙くんはなんだか悲しそうに眉を下げて言った。


「……おれ、陽毬がいなくなったら困るよ」

「血が飲めなくなるから、ですか?」

「ううん。……好きだから」

「……す、き?」


 薙くんの言葉がうまく飲み込めなくて、わたしは首を傾げる。

 好き、好きって……どういうことだろう?

 キョトンとしているわたしに、薙くんは頰を染めて「だからあ……」と口籠った。意を決したように唇をきゅっと引き結んだあと、わたしの両肩をがしりと掴む。きれいな赤い瞳に見つめられて、心臓がどきどきした。


「おれ、陽毬のことが好きだ」


 飾りのない彼の言葉は、まっすぐにわたしの心臓の真ん中を撃ち抜いた。なんだか信じられないような気持ちで、わたしはおずおずと訊き返す。


「……わたしの血が、じゃなくて?」

「血だけじゃなくて、全部」

「ぜんぶ」

「……おれは陽毬が好きで、ずっと笑っててほしくて、泣いてたら嫌で、すごく大事にしたくて、陽毬のことが欲しいよ……」


 予想外の告白に、わたしは唖然とした。薙くんの言葉をゆっくり咀嚼したあと、一拍遅れてじわじわと喜びが背中を駆け上がってくる。今すぐ彼に抱きついて、大きな声で嬉しいと叫びたい。


「その、だから、陽毬さえよかったら……」

「は、はい」

「お、おれと、つ、付き合ってほしいんだけど……どうですか」


 薙くんは真っ赤な顔で、つっかえながらそう言った。躊躇いがちに差し出された手を、すぐさま握り返そうとしたところで――どろりとした不安が、肌を撫でた。


 ――天使だと思ってるよ。


 修学旅行のときに、彼はそう言っていた。薙くんはきっと、わたしのことを勘違いしている。わたしは、彼が思っているような「いい子」じゃない。

 わたしのことだけ欲しがっててほしい。他の女の子と話さないでほしい。わたしのことを見捨てないでほしい。これからもずっと一緒にいてほしい。わたしが彼に抱いているのは無償の優しさなんかじゃなく、どうしようもなく身勝手な感情だ。

 ……わたしが今この手を握り返したら、きっと一方的に求められるだけの関係じゃいられなくなる。見返りを求めずにはいられない恋なんて、絶対にしないと心に決めていたのに。


「や、やっぱ、だめかな……」


 薙くんは不安げにこちらを見ている。そんな表情も可愛くて、胸がきゅんと高鳴る。

 ゴチャゴチャ考えたところで、どうしたってわたしに、この手を取らない選択肢なんてなかった。

 だってわたしは、薙くんのことが大好きなのだ。ずっとうすうす気付きながら、押さえつけて蓋をしてきたけれど、もうこれ以上誤魔化しようもない。


「……全然、だめじゃないです。嬉しい、です」


 両手を伸ばして、彼の手を包み込む。薙くんはほっとしたように頰を緩めて「やった」と笑った。こんな無邪気で可愛い笑顔も、ずっとわたしだけが独り占めしていたい。自分の内側から湧き上がってくる醜い独占欲に、ぞっとした。

 ――わたしは彼の前で、いつまで「いい子」のままでいられるだろう。

 いつか見捨てられる日が来るとしても、この手を振り払われる日が来たとしても、それまではこの人と一緒に居たかった。

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