22:祭りの夜に(前)

 窓を開けてベランダに出ると、清々しい夜の空気を肺いっぱいに吸い込む。

 月城町の夜はいつだって騒がしいが、今夜は特に賑やかで、あちこちから楽しげな笑い声が響いてくる。どこからともなく、香ばしいイカ焼きの香りが漂ってきた。夜空には明るい月が煌々と輝いており、絶好の祭り日和だ。

 吸血鬼の祭りである月城祭には、必要最低限の灯りしかない。心地良い闇に包まれていると、気分が昂揚していくのがわかる。普段は引きこもり陰キャのおれでも、祭りの空気に触れるとちょっとだけワクワクする。今年は一番ヶ瀬さんがいるのだから、尚更だ。

 おれは自室から出ると、隣にあるバアちゃんの部屋をチラリと見やる。一番ヶ瀬さんがやって来るなり、バアちゃんは「月城祭の正装を教えてあげるよ!」と大はしゃぎで彼女を部屋に連れ込んでしまった。こうして待ちぼうけを食らっているわけだが、一番ヶ瀬さんのことを待つのは全然苦にならない。

 ソワソワしながら廊下に突っ立っていると、バアちゃんの部屋の扉がガチャリと開いた。床に引きずるほどに長い、黒いマントを羽織った一番ヶ瀬さんがひょっこりと顔を出す。


「ど、どうでしょうか……」


 一番ヶ瀬さんは両手を胸の前でもじもじとすり合わせながら、はにかんだ。ポニーテールの髪には、烏の羽のような黒い飾りがついている。化粧をしているのか、いつもは桃色の唇が血のように赤く染まっていた。

 すげえ可愛い! ……と叫ぶことなど当然できず、おれは無言でこくこく頷く。

 彼女は「わたしに似合いますかね?」と言って、長いマントの前を寛げた。身体のラインを拾う、ぴたりとした真っ黒いドレスは、胸元が大きく開いていた。決して小さくはないふたつの山のあいだに、しっかりと谷間が形作られているのがよくわかる。

 バアちゃん、一番ヶ瀬さんになんつー服着せてんだよ!


「バアちゃん、ありがとう!」


 ……しまった。本音と建前が逆になった。

 バアちゃんはニコニコご機嫌に笑いながら、一番ヶ瀬さんの肩に両手を置く。


「可愛いだろう? 陽毬ちゃん、アタシの若い頃に似てるねえ」

「嘘だ。そんなわけないだろ」


 絶対、一番ヶ瀬さんの方が可愛いに決まってる。

 思わず口をついて出たセリフを耳聡く聞きとめたバアちゃんに、真っ赤な目でギョロリと睨まれた。おれは慌ててフォローを入れる。


「こ、このドレス、バアちゃんの? センスいいね」

「真雪のだよ。さすがに、アタシが若い頃に着てたものはボロボロで残ってないねえ」

「……おかあさまの大事なドレス、本当にお借りしてもよかったんですか?」

「ちゃんと許可は取ってるし、どうせタンスの肥やしになってただけだからいいんだよ」


 バアちゃんのじゃなくて、母さんのドレスだったか。おれの母さんはかなり若々しい美人だが、自分の身内がこんなに露出の高い格好をしているところはあまり想像したくはない。一番ヶ瀬さんも落ち着かないのか、ちょっと胸元を気にしている。


「……それにしても、おばあさま。ちょ、ちょっと、胸が開きすぎてませんか?」

「女性吸血鬼の正装はこんなものだよ。もともと、人間の男を魅了して血を吸うのが目的らしいけどね」


 なるほど。ということは、ひいひいじいちゃんも父さんも、うっかり魅了されてしまったということだ。コロッと落ちた二人の気持ちが、今のおれにはものすごくわかる。五リットルくらい血液を差し出してもいいぐらいだ。

 可愛いなあ似合ってるなあと思いながら見ていると、おれの不躾な視線に気付いたのか、一番ヶ瀬さんはやや居心地悪そうにマントで胸元を隠した。しまった、じろじろ見過ぎた。


「ご、ごめん」

「ううん! い、いいんですけど……そんなに見られるとちょっと恥ずかしい、です……」


 一番ヶ瀬さんが頰を染めて目を伏せる。いつもおれの口に無理やり指を突っ込んできたり、遠慮なく抱きついてきたりする彼女だけど、一応それなりの羞恥心は備わっているらしい。照れている姿はなんだか新鮮だ。


「いや、ごめん、あの、すごく似合ってるから……見てた」

「えっ。薙くんが見たいなら……ど、どうぞ!」

「うわ! い、いや! いいよ! しまっといて!」


 がばっとマントの前を広げた一番ヶ瀬さんを、おれは慌てて制止する。

 そりゃあいくらでも見たいけど、おれ以外の奴に彼女のこんな格好を見られるのはかなり嫌だ。文字通り血に飢えた吸血鬼がわんさかいるのだから、肌をこんなに露出して歩くのは危険である。

 首筋から鎖骨にかけてのきれいなライン、その下に続く柔らかそうな曲線をしっかりと目に焼きつけてから、おれは再びマントを閉めた。ごちそうさまです。


「じゃあ、アタシは祭りの手伝いに行ってくるからね。薙、陽毬ちゃんのことをちゃんとエスコートしてあげるんだよ」

「おばあさま、ありがとうございました」

「いってらっしゃい」


 バアちゃんを見送ってから、家の戸締りをして、おれと一番ヶ瀬さんも外へ出た。

 祭りのメイン会場は、駅前にある十六夜城である。城へと続くメインストリートに、ずらりと出店が並んでいる。一番ヶ瀬さんは物珍しそうにキョロキョロしていた。


「なんだか、普通のお祭りみたいですね」

「そうなの? おれ、他の祭り行ったことないからわかんないや……」

「ちょっと暗くて歩きにくいけど……あ、すみません」


 すれ違いざまにぶつかった男に、一番ヶ瀬さんは丁寧に詫びる。おれは周囲から庇うように、一番ヶ瀬さんの肩を引き寄せた。彼女は「ありがとうございます」とエクボを見せて笑う。ごめん、下心込みです。

 一番ヶ瀬さんはおれを見上げると、ふいに右手を伸ばしておれの頭に触れた。


「……薙くん、背伸びました?」

「え? うそ」

「なんか、ちょっぴり目線が上にある気がします」


 言われてみれば、以前こうして肩を抱いて歩いたときよりも、彼女のことを小さく感じる。遅ればせながら、おれにもついに成長期が訪れたのだろうか。心の中で大きくガッツポーズをする。


「一番ヶ瀬さんの血飲んでるからかな……ちゃんと栄養摂ってるのがいいのかも」

「ほんとですか!? 嬉しい。じゃあいっぱいあげちゃいます」


 一番ヶ瀬さんはそう言って、ウキウキとおれに身体を寄せてきた。

 あの嵐の日以来、おれは毎晩のように一番ヶ瀬さんの部屋に行って血を飲んでいる。夜な夜な一人暮らしの女の子の部屋に訪れるなんて、不健全極まりないのはわかっているけれど、夏休みが終わるまでやめるつもりはない。本当は、血が飲みたいだけではないのだけれど――それを彼女に気づかれてはいけない。

 密着できるのは嬉しかったけれど、肩を抱きながら歩くのは結構歩きづらかった。

 おれは手を離すと、シャツの裾でてのひらを拭ってから、「はい」と一番ヶ瀬さんに差し出す。彼女の瞳が、戸惑ったように揺れた。


「ひ、人多いし、手、繋いだ方がいいかなって」

「……あ、そうですね」


 一番ヶ瀬さんはそう言って、おそるおそるおれの手を掴む。なんだか振り払われるのを恐れてるみたいな、おっかなびっくりした握り方だった。ぎゅっと強く握り返すと、彼女の表情がほっとしたように緩んだ。


「な、なんか食べる? おれ、おなか空いた」

「ええと……わたし、好き嫌いないです。なにかオススメありますか?」

「うーん……」


 ずらりと並んだ出店をキョロキョロと見回す。カキ氷の人工血液シロップ味、なんてものもあるけれど、大抵は人間でも食べられるようなものばかりだ。

 無難にタコ焼きにでもしようかな……と思っていると、「おーい」と声を掛けられた。


「薙! こっちこっち!」


 キョロキョロと周りを見回すと、焼き鳥の屋台を出している男性がぶんぶん手を振っていた。おれたちの高校の生物教師である信楽先生だ。血の滴る鶏のレバーを網の上で焼いており、いい匂いが漂ってくる。

 信楽先生も月城町に住む吸血鬼で、おれのことを小さい頃から知っている。おれにとっては親戚のおじさんのようなものだ。


「信楽先生、何やってんの?」

「家の手伝いだよ。お、薙はデートか?」

「ちがっ……!」


 おれの隣にいる女の子の存在に気付いて、信楽先生はニヤニヤと笑みを浮かべる。ひょっこりと顔を出した一番ヶ瀬さんは、ぺこりと礼儀正しく頭を下げた。


「信楽先生、こんばんは」

「ん? ……ああ、一番ヶ瀬か! 全然気付かなかった!」


 信楽先生はおれの顔と一番ヶ瀬さんの顔と、しっかりと繋いだ手をまじまじと見比べてから、「なるほど」としたり顔で笑う。


「薙、でかした。一番ヶ瀬は真面目だしよく気もつくし働き者だし、俺はすごくいいと思うぞ。高校入ってからずっとぼっち飯してるから心配してたんだが、大金星じゃないか」

「……いや、そーゆーのじゃないから」


 おれの肩にポンと手を置いて、信楽先生はうんうん頷いている。絶対何か勘違いをしていると思うけど、説明するのもめんどくさかった。


「それにしても、ついこないだまで赤ん坊だったのに、薙もそんな年頃になったんだな……! 昔は真雪が仕事に行くたびに、追いかけてびーびー泣いててよお……」

「もー、先生! 余計なこと言うなよ!」


 へたれで泣き虫だったガキの頃の話なんて、カッコ悪くて一番ヶ瀬さんに聞かせたくない。一番ヶ瀬さんの様子を伺ったけれど、彼女は黙ってニコニコしていた。どう思われたのか気になる。


「これ、二本持ってけよ。俺の奢りだ」

「ラッキー。先生、ありがとう」

「すみません、いただきます」


 信楽先生に奢ってもらったレバーの串焼きを食べながら、おれたちは再び歩き出す。夜が深まっていくにつれて、どんどん人が増えていき、まっすぐ歩くのもなかなか大変だ。もぐもぐとレバーを頬張っている一番ヶ瀬さんを横目で見つめる。おれの視線に気付いたのか、彼女は優しく笑いかけてくれた。


「信楽先生、楽しい人ですよね」

「……あのさ。さっきの、ガキの頃の話だから……」

「恥ずかしがることありませんよ。置いて行かれるのは、誰だって寂しいですから。……いくつになっても」


 みっともない言い訳をしたおれに、一番ヶ瀬さんはそう答える。遠くを見つめる横顔は、なんだか妙に寂しげだった。

 ……一番ヶ瀬さんはいつも笑っているのに、得体の知れない「なにか」にずっと怯えているようにも見える。


「……結構、混んでるね」

「はい。はぐれちゃわないように……手、繋いでてください」


 もちろん、この手を離すつもりなんてこれっぽっちもない。おれは彼女を安心させるように、繋いだ手にぎゅっと力をこめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る