21:本当に欲しいものは
土砂降りの雨の中、おれたちは手を繋いだままアパートに向かった。互いに一言も言葉を交わさなかったけれど、考えていることはたぶん同じだった。
部屋の前まで来たところで、一番ヶ瀬さんは鞄から鍵を出した。気が逸っているのか、手が滑って鍵を取り落とす。ちゃりん、とキーホルダーについた鈴の音が響いた。彼女は慌ててそれを拾い上げると、鍵を開けて部屋の中に入る。
扉が閉まった瞬間、柔らかな身体が胸に飛び込んできた。一ヶ月のおあずけを食らった身体は、思っていたよりも限界が近かったらしく、ごくりと喉が鳴る。彼女の香りも感触も全部、おれの欲を煽って仕方がない。怖がらせたくはないのだけれど、知らず息が荒くなる。
「……なぎ、くん」
濡れた後れ毛が、白いうなじに張り付いている。どうぞ召し上がれ、とばかりに差し出された無防備な首に噛みつこうとしたところで、我に返った。
おれも大概頭に血が上っているけれど、一番ヶ瀬さんの方も、なんだかぼうっと熱に浮かされたような表情を浮かべている。やや冷静になったおれは、彼女の両肩を掴んで身体を離す。
一番ヶ瀬さんは透明のビニール傘をさしてはいたけれど、暴風雨のせいでずぶ濡れになっていた。白い半袖Tシャツが濡れて、うっすらと下着が透けている。ピンク色、と思わず確認した自分をブン殴りたくなった。慌てて視線を背ける。
「……い、一番ヶ瀬さん、びしょ濡れだよ。風邪ひくぞ」
「……うん……でも……」
「ふ、風呂とか、入ってきた方がいいと思う」
言ってから、この状況で風呂を勧めるのもいかがなものだろうか、と思った。血を飲む以外のことをするつもりはなかったけれど、なんだか露骨に下心があるみたいだ。
おれは焦ったけれど、一番ヶ瀬さんは不快感を示さなかった。ただ心細そうな顔で、じっとこちらを見つめている。置いて行かれるのが恐ろしくてたまらない、というように。
「……帰りませんか?」
「帰らないよ」
この状況で彼女を置いて帰れる吸血鬼はいないと思う。いや吸血鬼でなくても――普通の男なら、こんな好機を逃すはずはない。鼻先にニンジンをぶら下げられている馬のようなものだ。
「……わかりました。すぐ出るので、ちょっと待っててください。レインコート、そこに掛けておいてくださいね」
彼女はそう言って、慌ただしくバスルームへと消えていった。おれは黒いレインコートを脱ぐと、手渡されたハンガーを使って玄関の扉に引っ掛けた。長靴を脱いで部屋に上がる。なんだかソワソワと落ち着かなくて、隅っこで正座をした。
雨足は先ほどよりは少し弱まったらしく、窓ガラスを弾く雫はややおとなしいものになっていた。それよりも今おれを悩ませているのは、薄い扉を隔てたところから聞こえるシャワーの音である。一人暮らしの女の子の部屋で、女の子がシャワーを浴びている音を聞くことなんて、おれには一生ないと思っていた。
シャワーの音が止んで、磨りガラスの向こうに人影が見える。なだらかな曲線を描くシルエットが見て取れて、ぎょっとした。妙なことを考えるな、と自分を戒めつつ、窓の外に視線を移す。
窓ガラスに映ったおれの瞳は、まだ血を飲んでもいないのに真っ赤になっていた。こんなにもあからさまに興奮が伝わってしまう、吸血鬼というのは厄介な生き物だとつくづく思う。
おれがただの人間だったなら、もう少し上手にこの欲を隠せただろうに。ああ、どうかドン引きされませんように。両手で顔を覆いたくなったが、いまさらだろう。
「……ごめんなさい、おまたせしました」
バスルームから出てきた一番ヶ瀬さんは、部屋着らしいTシャツとショートパンツ姿だった。バスタオルを肩から掛けて、胸の前に垂らされた長い髪はまだ濡れている。
「髪、乾かさなくていいの」
「大丈夫です、夏ですし……ね、それより早く」
隣にぺたんと腰を下ろした彼女は、ねだるようにおれの首に腕を回してきた。薄桃色の唇が、嬉しそうに弧を描く。至近距離でぱっちりと大きな瞳に見つめられて、心臓がどきどき高鳴る。
「薙くん。目、赤くなってる……」
「……う、ん」
「やっぱり、すごくきれいです」
そう言って微笑む一番ヶ瀬さんの瞳の方が、おれにとってはうんときれいだ。なんて、当然そんなことを口にできるはずもない。
おれは吸い寄せられるように彼女の首に牙を立てた。途端に、勢いよく血液が流れ込んでくる。一ヶ月ぶりに味わう血の甘さに、脳髄が痺れるような感覚を覚える。やっぱりこれは麻薬だ。
腹の底から湧き上がってくる欲のままに、華奢な身体を抱きしめた。薄っぺらいTシャツごしに、女の子の柔らかさと体温を感じる。濡れた髪からシャンプーの匂いがする。彼女の手が伸びてきて、おれの頭を優しく撫でる。背中に回した腕に力がこもる。できることなら、ずっとこうしていたい……。
夢中になって血を貪っていた時間は、たぶんそんなに長くはなかった。それでも、結構な量を飲んだと思う。たぶん、紙パックのジュースひとつぶんぐらい。
首から牙を離して、荒い息を整える。興奮を落ち着けようとしたけれど、未だ腕の中に柔らかな身体があるせいで、どうにもうまくいかなかった。ばくばくとうるさい心臓の音は、きっと彼女にも伝わっている。恥ずかしいけれど、自分ではどうしようもない。
「ごめん、首に……」
我を失って、思わず首に噛みついてしまった。血の滲む肌を軽く舐めると、彼女が「んっ」とくすぐったそうに身じろぎをする。やけに甘ったるい声に興奮が高まる。再び噛みつきたくなる衝動を押さえ込み、舌で表面を撫でるだけに留めた。
「……ん……平気です……最近血飲まれてなかったし、レバーとかホウレンソウいっぱい食べてますから……血、有り余ってます」
「……そんな風には見えないけど」
「意外と血の気が多いんですよ。……ねえ、もう飲まないんですか? もっと飲んでほしい……」
それは魅力的な誘惑ではあったけれど、おれはかぶりを振った。彼女が貧血になるまで血を飲みたいわけではない。おれは首筋に押しつけた唇を離した。
「……もう充分……ごちそうさまでした」
「はい」
ふにゃりと笑った頰にエクボが浮かんだその瞬間、先ほどまでとは別の種類の欲が襲ってくる。血を吸いたい、だけではない、じわじわと胸の奥からこみ上げてくるような感情。
もう血は飲み終わったのに、一番ヶ瀬さんはおれに抱きついたまま離れようとはしなかった。おれも離れたいとは思わなかったので、じっと腕の中の柔らかさを堪能している。
もっと笑った顔が見たい。優しくしてあげたい。そんな気持ちが乱暴な欲とないまぜになって、おれの胸を掻き乱す。
「……い、一番ヶ瀬さん。な、なにか……おれに、してほしいこととかある?」
「……え?」
「その、いっつもおれが貰ってばっかりだから、お礼したいんだけど……」
「いりません」
ボソボソと言ったおれに、一番ヶ瀬さんはきっぱりと答えた。拒絶にも似たような、温度の低い声だった。急に突き放されたような気がして、背中がひやりとする。
「いらないです。わたしがあげたいだけなので、薙くんからは何もいりません」
淡々と告げる声に、のぼせていた頭がだんだん冷えていく。欲しがっているのはおればかりで、彼女はおれに対して何も求めてはいない。
おれは一体、何を勘違いしていたんだろう。彼女はきっと、「自分のことを必要としてくれる人」なら誰でもよくて、それがたまたま吸血鬼であるおれだっただけだ。おれが望むならきっといくらでも血を捧げてくれるのだろうけど、心まで求めることはきっと許されていない。
……なんだか「吸血目当てだと思われるのは嫌だ」なんて意地を張っていた自分が、バカバカしくなってきた。彼女にとっては、そっちの方が望むところである。
「……一番ヶ瀬さん。おれ、明日も来てもいい?」
「えっ」
「おれ、明日も一番ヶ瀬さんの血飲みたい」
おれの言葉に、彼女はぱあっと表情を輝かせた。喜びを顔全体に浮かべながら、こくこくと何度も頷いてくれる。
「はい! もちろんです!」
ああ、おれの独り相撲だってわかってるよ。おれが彼女を求めるみたいには、きっと彼女はおれのことを求めてはくれない。
腕の中で嬉しそうに笑う女の子の身体を、ぎゅっときつく抱きしめる。もう「ごちそうさま」と告げたのだから、ほんとはこうしてくっついている意味なんてないはずだ。吸血欲が満たされた今、おれの中にあるのはそれとはもっと別の欲望である。
一番ヶ瀬さんのそばに居たい。ずっと笑っていてほしい。おれのこと、好きになってほしい。
「……じゃあ、また明日」
そう囁く自分の声に、間違ってもそんな欲が滲んでしまわないように。芽吹いたばかりの恋心を、吸血鬼としての欲で覆い隠すのだ。
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