act.51 一天

 二十八歳になる年。

 春。

 おれは引っ越した。

 会社から少し遠くなったけど。

 運転は嫌いじゃなかったから。

 苦にはならなかった。

 寧ろ。

 嬉しいことのほうが大きかったから。

 この日を待ちわびていた。

 新居の匂い。

 と言っても賃貸アパートだけど。

 一人には広すぎる部屋。

 家族向けのアパートだ。

 隣人に挨拶すると。

 夫婦揃って出迎えられた。

 休日だったからだろう。

 丁度出掛けるところだったようだ。

 隣人を見送ってアパートを見上げた。

 白い壁が眩しかった。

 青天井が眩しかった。

 あの夏の日。

 聖人と仲直りした日のことを思い出した。

 喧嘩していたわけではないけど。

 話すきっかけを得られた。

 文化祭の出し物を決めた日。

 おれがロミオで。

 聖人をペトロと呼んだ日。

 今日は。

 あの日よりも眩しい。

 明日も。

 明後日も。

 記録を更新し続けるだろう。

 おれはもう。

 幸せだ。


 五年前。

 社会人一年目の年。

 聖人に同棲を提案した時。

 やっぱりおれは周囲の目を気にしていた。

 普通を求めていた。

 あの時聖人が頷いていたら。

 おれはきっと考えることをやめて。

 鬱屈した気持ちの中で。

 聖人のことを嫌いになっていたかもしれない。

 好きなのに嫌い。

 それは何よりも辛いことだ。

 おれは。

 おれ自身を嫌いになるところだった。

 だから。

 聖人が一度断ってくれて良かった。

 あの時はそう思えなかったけど。

 今はそう思う。

 結果論だけど。

 けど。

 聖人がおれの幸せを考えてくれているとわかったから。

 悪い気分ではない。

 聖人はおれのことを親身に考えてくれていて。

 おれは聖人のことを親身に考えているから。

 おれたちは支え合っていけるだろう。

 なんて。

 少し重いけど。

 依存し過ぎだけど。

 お互いの誓いを守っている限り。

 おれたちは。

 あの日の眩しさを超えていける。


「何してんの?」

 いつの間にか聖人が背後に立っていた。

 奥には白い乗用車が見える。

「おおう、いつの間に」

「ついさっき」

 車の音にも気付かなかった。

 半袖にチノパン。

 シンプルだけど長身のおかげでおしゃれに見えた。

「隣の人に挨拶してた」

 おれがそう言うと。

 聖人はアパートを一瞥した。

「視えるの?」

「ちげえよ」

 ぽかり、と聖人の肩を殴った。

 全く効いていなかった。

「さっき出掛けてった」

「見かけなかったけど」

「数分前くらい」

「数分前?」

 聖人は眉根を寄せた。

「数分間、何してたの?」

「え?」

 おれは戸惑って。

「昔のこと思い出してた」

「昔のこと?」

「高校時代とか」

「とか?」

「聖人の部活見に行った時のこととか」

「それも高校でしょ」

「そうだっけ?」

「そうです」

 おれは頭をかいて笑った。

 聖人も呆れた様子で微笑んだ。

「すっかりおじさんだね」

「人のことは言えねえだろ」

「俺はあんまり思い出に浸らないし」

 聖人はおれに背を向けて。

 アパートへと向かった。

「昔のことなんて忘れたっていい」

 失言だったかと。

 おれは冷や冷やしたけど。

「今のほうがいい思い出になりそうだから」

 杞憂だった。

 おれはほっとして。

 聖人を追いかけて肩を並べた。

 玄関扉をくぐって。

 部屋がある二階へと階段を上って。

 荷解きを終えていない段ボールを眺めて。

 腕まくりのポーズをとった。

「始めますか」


 引っ越し作業は終わらなかった。

 二人分の荷物があるのだから当然だろう。

 今日は土曜日。

 二人とも週休二日制だから明日も休みだ。

 必要なものは取り出したから。

 続きは明日やろう。

 夕暮れ時、二階のベランダから遠くを眺めた。

 車の音が不規則に流れてゆく。

 ひんやりとした風が頬を撫でる。

 ポケットから携帯電話を取り出して。

 母親にメッセージを送った。

【引っ越した】

 新たな住所と共に写真も送った。

【いい感じ?】

 事前連絡はしていたから。

 感想を求める返事が届いた。

【いい感じ】

 返信すると簡素な文章が送られてきた。

【良かったね】

 本当に良かった。

 心からそう思う。

 姉にも一応連絡を入れた。

 母親から連絡がいくと思ったけど。

 家族だから。

【綺麗じゃん】

【独り身のくせに生意気】

【引っ越し祝い持ってってやるよ】

 メッセージを連投された。

 指が早い。

 返信が追いつかない。

【一人じゃねえし】

 送信しようか悩んで。

 結局取り消した。

【いらん】

 代わりにそう送った。

 すぐにまた返信が来た。

【お前の分じゃねえし】

 指が止まった。

 背中に冷や汗をかくのを感じた。

 そして。

【聖人に伝えといて】

 メッセージは終わった。

【おう】

 それしか返せなかった。

 姉にも。

 母親にも。

 聖人と一緒に住むことは伝えていなかった。

 けど。

 姉には見抜かれていた。

 この年でこんなところに住むのだから。

 バレて当然か。

 母親にも見抜かれているだろう。

 いや。

 写真を見る前から気付いていたんだろう。

 姉はもっと嫌な態度をとるかと思っていた。

 妊娠中。

 あれだけ罵詈雑言を浴びせてきたのは何だったのだろうか。

 マタニティブルーというやつだろうか。

 どちらかと言えばレッドだったけど。

 姉は。

 不安だったんだろうか。

 我が子に会える期待。

 身を裂く痛みへの恐怖。

 未知なる領域への不安が姉を凶暴化させたのか。

 元々粗暴ではあったけど。

 人間はみんなそんなものなんだろう。

 気分に左右される生き物だ。

 おれだって同じ。

 聖人だって同じ。

 どんなに冷静な人物にだって例外がある。

 それがあのタイミングだったに過ぎない。

 おれは。

 運が悪かったのか。

 それとも良かったのか。

 姉は。

 あんな風には口にしていたけど。

 実際にはおれを気にかけていたんだろうか。

 心配していたんだろうか。

 訊いたところで教えてくれないだろう。

 ニヤニヤとした顔が思い浮かぶ。

 どことなく木ノ下によく似ている。

 高校時代の同級生。

 おれの背中を押した人物。

 おれを背中から刺した人物。

 だからおれは木ノ下が苦手だったんだろう。

 苦手なのに言うことを真に受けてしまうんだろう。

 無慈悲なのに親身に聞こえてしまうから。

 いい加減なのに正論に聞こえてしまうから。

 姉と同じ。

 気分屋。

「寒くない?」

 聖人が肩を並べてきた。

 おれは手すりに両腕を乗せた。

「寒い」

「中に入れば?」

「入る」

 そう言いながらも。

 おれは夕景を目に留めていた。

 聖人もそれにならった。

 隣を見ると。

 聖人もこちらを向いた。

「浸ってるの?」

 聖人が訊いてきた。

「何に?」

「感慨に」

「何で?」

「新居を手に入れたから」

「手に入れてねえよ」

「カッコ仮、みたいな」

「カッコ仮、って」

 おれはけらけら笑った。

 聖人も微笑んだ。

 ああ。

 幸せだな、と。

 いつまでもこんな時間が続けばいいな、と。

 いや。

 いつまでもこの時間を続けていこう、と。

 聖人と一緒に笑っていよう、と。

 おれは思った。

 この広い空の下で。

 この場所は。

 この空間は。

 おれたちの居場所だ、と。

 天に誓った。

 天に感謝した。

 聖人に感謝した。

 周りの人間みんなに。

 感謝した。

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