第2話

催眠アプリという代物が僕のスマートフォンには入っている。

目のようなアイコンが、気がついたらホーム画面に並んでいた。胡散臭いものだと思った。いったいなんのウィルスに感染したのかと憂鬱になった。

けれど僕は興味本位でそれをタップした。


UIは一見カメラアプリのようだった。けれどシャッターのところが催眠のON/OFFスイッチとなっていて、下部には『暗示』や『意識改変』などという見るからにいかがわしいタブも並んでいた。

まったく手の込んだイタズラだと思った。これをひとりで独占するのはもったいない。


そう思った僕がとなりの部屋の妹にこのアプリのことを伝えてみると、彼女は思った通り馬鹿らしいと一緒になって笑ってくれた。だから冗談のつもりでそれを試してみることにしたのだ。


そして笑う彼女をカメラで覗きながらスイッチをONにしたとたん、妹は物言わぬ物体になった。

表情が抜け落ち、まるで魂だけが眠りについたような生き人形。

触れても声をかけても一切の反応がなかった。


恐ろしくなってすぐさま解除すると、妹はその間のことをなにひとつとして覚えていないようだった。

早く試してみてよと楽しげに笑う妹をてきとうにごまかして、僕は部屋に戻った。


アプリは本物だった。

あの異様な姿を目の当たりにしてしまえばそれは疑いの余地もない。

恐ろしかった。カメラで撮影する手軽さで人を操ることができるものが存在する事実が恐ろしかった。


当然すぐにアンインストールした。あたりまえだ。こんなもの僕は欲しくない。

それなのに、ふと目を向けるとそこには僕を見つめるおぞましい目のアイコンがある。

僕は半狂乱になりながらなんども繰り返した。いくつか方法を変えてみてもダメだった。

次第にその目がぎょろりと妙に生々しく見えてきて、僕は恐ろしさのあまりそのアプリを非表示にした。

なくなってくれないのならせめて視界から消えてほしかった。見たくもなかった。そしてそれは無事に成功して、アプリは画面から見えなくなった。


全身から嫌な汗が噴き出していた。

おぞましい。どうして僕のもとにこんなものが。持っていたってなにひとついいことなんてないのに。こんなものにうかつに手を出してしまえば、この身を破滅させるに違いなかった。

僕は、少しでも早く忘れられるようにと、もうこのアプリのことを考えるのをやめた。


それからの数日は、奇妙なまでに平穏なものだった。

やはり目に見えないというのは大きい。

本を読みふけっていれば時とともに下らないことを忘れられる。数少ない友人と話していれば邪念など湧かなかった。学業に専念すれば余計なことを考える余地はない。すっかり忘れるというのはまだ難しかったが、思い出す必要があるくらいにはアプリの存在は意識から離れてくれた。

それで十分だった。

僕にそれを使う機会はない。

記憶の引き出しが錆びついて二度と開かなくなるまでこうしていようと思った。


そんな思いが瓦解したのに、たぶん大きなきっかけはなかった。

そもそもそんなものは僕が自分に言い聞かせていただけなんだろう。最初からその欲望は胸の片隅にあったのだ。けれどあまりにも危険なものだったから見ないふりをして遠ざけてしまいこんだ気になっていた。それがささやかなまどろみを楽しむうちにふと胸のうちに浮かんだのだ。

彼女に使ってみるのはどうだろう。


気がつけば僕は催眠アプリの非表示を解除していた。そして使用説明を頼りに彼女へと『暗示』をかけた。

それは妹にしたような強い催眠ではなく、ちょっとした動作を誘発させるようなものだった。

通話機能のように発信された暗示を彼女はあっさりと受け取った。はたから見れば電話に応えただけにしか見えないようなそのなにげない動作のうちに、彼女は放課後に特別教室棟一階端の空き教室へ来ることを意識に刻まれたのだ。


僕は彼女を待ち受けていた。

彼女は不思議そうに首を傾げながらも、暗示に従うまま窓辺に用意されていた椅子に座った。

夕日を受けて燃え上がるカーテンを背に暮れる彼女はカメラ越しにも美しかった。

そこで初めて僕は彼女に催眠アプリを起動した。


そして彼女はモノになった。

それが僕の過ちの始まりだった。

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