ソシオパス

@zeperm

第1話

アリス・チャンドラーは、日本に住んでからというもの、笑顔を忘れてしまったようだ、とからかわれていた。噂とも陰口ともとれるそれを、本人の前で言えるのは、ひとえに彼女が日本語を理解していないようなそぶりをずっと続けているためだった。



生まれも育ちもずっとイングランドだったのだが、父親が歴史、それも、何をとち狂ったのか極東の辺鄙な島国の『サムライ』が跋扈していた時代を専門にしていたせいで、父親はウキヨエの中にダイブするように日本へ引っ越し、アリスはそのあおりを喰らったというわけだ。




アリスを母国語が全く通じない場所へ放り込むにあたって、父親と母親は驚くほど楽観的であった。父はクロサワ映画を見せれば自然と日本語を覚えると思っていたし、母親は習うより慣れろ、という態度そのものであった。



転校当日、彼女を迎えたのは男子と女子の歓声だった。アリスは不貞腐れたまま、自己紹介は父親が取り仕切った。数多くの質問が寄せられ、それを父親が同時通訳する。熱心に聞いてくる連中ばかりだったが、それもあくまで自分の言葉が通じればこそ。




さながらフットボールの試合だ。ボールを手で受け止めるのは父親だけで、後の連中は日本語という凶器をアリス目掛けて躊躇いなく放り込んでくる。アリスの態度は、恐怖の裏返しだった。



室内を見回し、熱い視線が注がれる中、一人だけ、教室の隅にいた男子は、アリスには目もくれず黙々と本を読んでいた。別にクラスメイトらのご機嫌を窺いをするわけでもなかったが、何となく無視されているのが癪に障り、アリスはじっとその男子を睨みつけていた。

やがて、ふと顔を上げたその男子は、髪の毛をぼりぼり書きながら、立ち上がり、口を開いた。




「ミス・チャンドラー。そろそろお箸に慣れなくてはいけませんことよ」

給食の時間、フォークを持参してきたアリスに、一人のひょうきんな男子が話しかける。言葉が通じなくとも(実際のところ、彼女は日本語をある程度理解できるようになっていたのだが)、バカにした態度は十二分に伝わる。アリスはムッとして、その男子を睨みつけようとした。



“He needs to practice, right ? Or he’s words are worthless.”


発言したのは、彼女の隣の席の男、腐れ縁の清水だった。清水の言う通り、その男はいわゆる握り箸で、具を突き刺して食べる、なんとも猟奇的な食べ方をしていた。

口元が緩みそうになるアリスに対し、清水はいつも通りの無表情で、箸を器用に動かしてVサインを作っていた。


“Shut up you idiot!”

アリスは初めて会った時からずっと言い続けてきた言葉で、彼のすねを軽く蹴っ飛ばしてやった。

“I hate you!”



忘れもしない、小学校に転校した当時、父親の通訳なしに話しかけてきたのが、この清水夏二という男だった。

授業にもまともに参加せず、友達もろくに作ろうとしないひねくれた男。それでもクラスの中で一定の立場を保ち続けていられたのは、頭がよかったからだ。



海外の天才少年などとは比べ物にならないが、少なくとも、小学生の時分から、『ハイスクール』程度の学力はあったらしい。


“Ah… I’m glad to see you. And welcome to Japan.

一語一語の間隔は長く、発音もどこかおかしい。Jに至っては『ヤー』と読みかけたほどだ。

そんな怪しげな英語をどこで学んだか知らないが、多少なりともアリスやその父親と、『マイノリティの英語』で渡り合い、父親の喜びはひとしおだった。


言葉がわからなかったからこそ、場の雰囲気は肌の上を滑るように感じ取れる。先ほどまで日本語で質問を喚きたてていた連中の空気が、どこかほっとしたものに――弛緩したものに変わった。


アリスは日本が嫌いだ。日本人のクラスメイトも嫌いだった。

しかし、とりわけこの男が大嫌いだった。


いけ好かない、気取り屋風情で、時折意味の分からない英語を用いて、それで通じているとばかりに自己満足に浸っている。気まぐれに授業内容を英訳し(会話に比べればまだマシだった)、寄越してくる。異様なくらいお節介なのだった。



アリスの口から英語が飛び出してくるのをどこか戦々恐々と待ち構えたクラスメイトは、清水をクラス代表の使者にしようとしたが、清水は不愛想な一瞥を投げかけ、すぐに自分の世界に引きこもる。それを延々繰り返し、結局クラスメイトは、英会話能力を独占していると言いふらすようになっていた。



アリスがどんなに嫌がろうと、教師は彼女の授業の遅れや生活の孤立を不安視し、清水をけしかける。しみずくんおねがいね、という担任の言葉にも、彼は無反応で通した。


学校から帰ると、何度か父親は日本語を教えようとした。アリスはそのたびに自分の部屋に駆け込んだ。ただ一人、クラスの中で英語ができる子がいたんだが、彼をパーティに呼べないものかな、そんなことを抜かす父親に、絶対に嫌だ、と怒鳴った。来日するまでの悪感情が実生活を塗りつぶし、彼女を頑なにさせ、さらには自分の拠り所である英語にすら脚を踏み入れようとする清水に、アリスは形容しがたい感情を、ずっと持て余していた。



一か月が経ったころ、席替えを行い――清水はアリスと隣の席のままだった――いつものように授業を終え、清水がノートを差し出した瞬間、アリスはそれをはたき落とした。その音にクラス中が静まり返り、アリスと清水に眼差しが向けられた。

多くの目に見守られる中、清水はゆっくりと屈みこみ、ノートをとった。軽く表面の埃を払ってから、再びアリスの方へ、黙って差し出す。



やめてよ、とアリスは英語で怒鳴った。

「いい加減にしてくれない!? 何のつもりなのよ!? 人をそうやって見下すのが楽しいの!?」

罵声と憎悪をありったけ叩きつけ、その剣幕に急いで仲裁に入ろうとした教師を軽く視線で押しとどめると、清水は自分の顎を撫でた。そして、ゆっくりと言った。



“I know all of my act makes you angry. But it’s not kind of you to leave this situation.”

“If I allow this, I can’t allow myself.”



サッパリ要点を得ない言葉に、何とか意味を咀嚼して、アリスはさらなる苛立ちをぶつける。


「アンタの自己満足に、人を巻き込まないでよ! 正義の味方のつもり!?」



怒鳴るアリスの脳裏には、教室でふざけあう男子の姿があった。トクサツと呼ばれる日本のヒーローだということを、父から聞いて知っていた。正義の味方とやらの振る舞いをしているつもりなら、自分は弱い人間だと思われているのではないか。どこまで自分の神経を逆なでするつもりなのだろう。



清水は両手で持っていたノートを片手で掴み、手持無沙汰のように、それを弄ぶ。

静と動。



衆目の中、主演男優が、くるくるとノートを回転させている動きだけが、却って頼りないものに感じさせる。

この気取った男は、トクサツから西部の保安官にでもなったつもりか。随分と不格好なピースメーカーだ。



やがて、その動きが止まった。

清水がふっと息を吐き出す。その瞬間、体の輪郭がぐにゃりと溶けて、前屈みになった顔に一瞬影がよぎった。口元が苦笑のかたちをとろうとして、ぶるぶると震えた。



“Heroes…have the right stuff ? Aaaand…wanna be like them ? come on …. C’mon.”

清水は髪を搔き上げた。顔を上げ、ノートを自分の机へ滑らせる。




拳を振り下ろす。



机が竦みあがり、跳ねたノートが拳でぺちゃんこになる。誰もが我に返ったように、ぎゅっと体を縮めたが、ただ一人、当の本人は、自分の額をコツコツ叩きながら、やがて言った。



“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”


「なんですって?」

アリスは正しく聞き返した。意味はもちろん分かっている。しかし、今まで聞いてきた清水の言葉の中で、最も正しく、美しく、なおかつ気障なものだ。


引用だからこそ、すらすらと口に出せたのだった。そこまでわかっていてもなお、彼女は問いかけを重ねずにはいられなかった。



予想通り、清水は答えた。ただし、彼女の理解できない言葉で。










「ガキの頃はよくこの言葉に憧れた。その意味の一端も確かめないままに。言葉ってのは、時に人を錯覚させる。自分を……自分以上の人間にしてくれるんじゃないかってな。

ミスター・チャンドラーは見事な文句を作った。そう、この文句を作ったのはお宅と同じ名前の、チャンドラーが書いた作品だ。作品名は? まだ知らないか?

ジャンルはどうだ? ハードボイルド。これなら知ってるか? ハメットが推理小説に持ち込んだのを自分なりの形に仕上げたのがチャンドラーだ。粗悪なペイパーバックから、数多くの名作が生まれたと思うと、つくづく……感慨を覚えるもんだ。

だが人間に置き換えたら? 大勢の人間の、人生は名作か? モノクロームの日々、色褪せた輝き、コピー機で刷り続ける似たり寄ったりの日常。そう、初めは誰もが、自分を名作だと思い込んでる。銀のスプーンを咥えて生まれてるってね。だが大勢のゴミの中からひとかけらの珠、ガラス玉を見つけられたらいい方だ。

それは散々味わった。そのあとの展開も知っている。となれば、後は新しい刺激を探すだけだ。だがそれも、何ら特別なことじゃない。分岐した可能性を辿らずとも味わえたはずだ。失望という奴を」




アリスには理解できなかった。クラスを見回しても、誰も理解できていなかった。

ちょうど、次の始業の鐘が鳴り、クラスメイト達が思い出したように自分の席へと急ぐ。そんな中、清水は無言で教室を出ていった。



以後、清水は何事もなかったかのように、彼女にノートを届け続けた。アリスはあのぞっとするような寂しい笑顔になすすべもなく、ノートを拒絶しなかった。

しばらくして、読みやすく整えられた文面に、ようやく清水のさりげない気配りを感じられるようになった。それでも、アリスの中で、清水は嫌いな奴というよりも、不気味な男へと変わった。




ただ、月日が巡り、ある時彼女がふとその光景を夢の中で思い出した時、あの寂しげな笑みは、違う意味を持って見えた。一度見方が変わると、今度は急に、清水に対する興味が増すようになった。



外国人というレッテルと、ずっとサポートしてきた人間という立ち位置から、周囲には怪しまれない程度に清水に近づけたが、それはあくまでも見かけの上で、アリスは彼と遊んだこともないし、彼が学校以外でどのようにしているのかさえ知ることもできなかった。




そして中学生。ジュニアハイスクールに通う今。

アリスと清水の立場は変わらず、周りからは距離の近さを冷やかされたり、付き合っているのか、と尋ねられる。否定も肯定もしない清水が、時々苦笑いをこぼすとき、アリスの心臓はぎゅっと素手で掴まれたようになる。






あのぞっとするような寂しげな笑み。

観葉植物の水やりのように、アリスに対して行われる、清水のすべての行動が、既に習慣となり、外見だけとなっていて、自分には何の関心も寄せられていないことを、彼女は悟るからだった。

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