第21話

 生徒指導室を後にし、わたしはゆっくりと温室に足を向けた。頭の中ではさっき先生と話したことがぐるぐると渦巻いている。


 なぜか、今温室がちゃんと存在しているか、無性に不安になってきた。すでに解体され、レンガの花壇も崩され、先輩もいなくなっているのではないか。

 明け方に見る怖い夢のように、それは徐々に鮮明になっていく。


 ありえない。だってまだ、園芸部は廃部になっていないし、先輩も卒業してない。解体の日まで、まだまだ時間はある。


「大丈夫……大丈夫だから……」


 普段、ひとり言なんて言わないのに、声が出てしまう。頭の中で暴れる悪い想像は、自分の言葉では歯止めがきかない。

 自分の声を先輩のものだと思いこんで、心を落ち着かせる。


 早足で体育館裏を通り、部室棟の前まで来た。秋も深まり、桜の木は紅葉しはじめていた。足もとの、名前も知らない雑草も、勢いを失って枯れ草色に変わりつつある。

 紅葉を通り抜けてくる木漏れ日は、夏のものよりも淡く、やわらかな気がした。髪やブレザーをほんのりとあたためてくれる。


 部室棟の裏。水色の日差しの中、温室は静かに佇んでいた。

 植物の色が透けて見えるガラスの壁。半開きのドアは、先輩が中にいるというしるし。


 よかった。安堵が胸いっぱいに広がっていく。思わず駆け出していた。消えてしまわないうちに辿り着きたかった。

 もし消えるのなら、わたしも温室の中に入ってから――先輩と温室といっしょになら消えてしまってもいい気がした。


 半開きのドアの隙間から、中をのぞきこむ。外気よりほのかにあたたかい空気が、鼻先をかすめる。

 先輩はいつものように、花壇の縁に座っていた。もうだいぶおやつを食べた後なのだろう。花弁が減った花を指先でくるくると弄んでいる。


 わたしの気配に気づいたのか、先輩は夢の水面から浮かび上がるように、ゆらっと顔を上げた。髪が日向と日陰を行き来するように揺れ、その度に黒、銀、白と色が移ろう。

 そんな儚い印象とは裏腹に、先輩はにやりと意地悪な笑みを浮かべた。


「しずくちゃん」


 先輩の口から、聞き慣れない呼び名が飛び出した。戸惑い、頭が真っ白になってしまう。

 そうだ。あの呼び出しの放送。確か、フルネームで呼ばれたんだった。


「……あぁ、聞いちゃいました?」

「聞いてた。雪野しずく。あれ、やっぱりユキノだったんだ」


 わたしはいつものように先輩のとなりに座り、脚を投げ出した。恥ずかしい秘密を知られたような気持ちで、何だか落ち着かない。


「やだな、今さら名前バレるなんて……」

「別に気にしないけど。あたしの中で、ユキノはユキノだから」


 先輩はあっけらかんとそう言った。それから、からかうように顔をのぞきこんでくる。


「それよりさ、何したの? 生徒指導室に呼び出しなんて」


 先輩にも野次馬精神があったのか。そう思いつつ、頬をかく。

 正直に答えることなんてできない。だって恥ずかしすぎる。名前を知られるよりも恥ずかしい。


「えー……と、別に大したことでは――」

「大したことなかったら生徒指導室になんて呼ばれないでしょ。あ、ピアスでも開けた? ユキノ、不良になっちゃった?」


 そう言いながら、先輩は手を伸ばしてきた。わたしの左の頬に手を添わせ、耳を覆い隠す髪をさらりとかき上げる。

 あらわになった耳たぶに、息がかかるほど近づいて凝視される。先輩の指や吐息の感触に、鳥肌が立ってしまう。


「や……やめてください。開けてないです!」


 先輩の手首を優しく握り、膝の上に押し返す。


「定期券落としちゃって。拾ってくれた人がいたんです。それ受け取りに行っただけです」


 口から出任せで嘘をつく。事実じゃないせいか少しカタコトになってしまうが、先輩は気づいていないらしい。


「なぁんだ。つまんないの」

「先輩はわたしが不良になったらおもしろいんですか」

「ユキノが不良になっても、あたしは気にしないよ」

「ま、不良になんてなりませんけど」


 先輩は「ふふーん」と笑い声なんだか相槌なんだか分からない声を出した。


 そして、しばらく無言の時間が降りてきた。先輩はわたしの真似をするように脚を伸ばした。身長差がある分、わたしの方が長い。

 先輩はなぜか張りあうように、ぴーんと足首まで伸ばし、座る位置をギリギリまで浅くし……やっとわたしのつま先に届いた。ついつい、とローファーでスニーカーをつついてくる。子どもっぽい笑みに、こちらも表情が緩んでしまう。


 先輩が花壇の縁から落ちないように、少し膝を曲げてあげる。手加減……というより、足加減?

 先輩は座り直して、同じ位置にあるふたりのつま先を眺めている。その光景の何が先輩の琴線に触れたのか分からないが、なぜか食べかけのお花をくれた。何これ。


 意味が分からないのに幸せを感じるって……何か変なの。


 外と同じく、温室の植物にも季節の移ろいを感じられる。濃い緑だった葉は色あせ、花びらの彩りも少なくなってきた。


「お花、少なくなってきましたね」

「うん。そういう時期だからね。しょうがないよ」

「温室なのに、育てられないんですか」

「暖房設備がある温室じゃないと無理だよ。この温室は、日差しでちょっと温度を保つことくらいしかできないから……。あ、でも、寒い時期に咲くお花もあるんだよ」


 先輩はきらきらと目を輝かせて見上げてきた。


「パンジー、ビオラ、椿……河津桜も、びっくりするくらい早く咲くしね。この辺にはあんまりないけど」

「河津桜? 普通の桜とは違うんですか?」

「うん。2月に咲くんだよ。普通の桜より鮮やかなピンク色で、開花から満開までゆっくり咲いていくから1ヶ月くらい楽しめるんだよ。有名なとこは静岡かな。いつか行ってみたいんだ」

「食べに?」

「見に!」


 ぷくっとふくれて、先輩は睨みつけてくる。機嫌をとるために、さっきくれた食べかけのお花を口もとに持っていくと、むしゃむしゃと食べた。どうしようもなく顔が緩んでしまう。


 不意に目があい、先輩は少し切なげな顔を見せた。消えてしまいそうな儚げな表情。わたしの心にも、途端に不安の雲が立ちこめる。


「雪野、しずく……か」


 どくん、と胸が大きく鳴る。なぜか先輩に「ユキノ」ではない呼び方をされると、無性にどきどきしてしまう。


「な、何ですか。そんなに意外でした?」


 先輩はしばらく黙りこんでいたが、やがて小さく口を開いた。


「……スノードロップ」

「え……あぁ、あれですか。福島はハッピーアイランド的な」

「あ……まあそうなんだけど……。スノードロップっていうお花があるの。知らない?」


 雪の滴。スノードロップ。

 植物に詳しくはないから、はじめて聞いた。


「スズランみたいに白くて小さいお花でね、雪解けのころに咲くんだよ。うん……ユキノにぴったりの花かも」

「へぇ……」


 スノードロップ。まだ見ぬ花を想像してみる。小さなベルのような花。

 雪と見紛うようなその白い花が、春を告げるように咲く様を――。


 先輩は「あ」と小さくつぶやいた。上目遣いで見つめてくる。

 思い浮かべていた、儚くも可憐なスノードロップが、先輩の姿と重なる。わたしなんかよりも、きっと先輩の方がぴったりなんじゃないかと思う。


「そうだ、買いに行こうか、スノードロップ」

「え? 買いに?」

「うん。ユキノと同じ名前のお花。ユキノに見せてあげたい」

「でも、今は咲いてないんですよね? 雪解けのころって……3月とかでしょう?」

「ユキノが咲かせるんだよ」


 わたしが咲かせる。

 まさか、灰をまけば咲くなんて、簡単な話ではないだろう。


「それって、育てるってことですか? わたし、植物育てたことなんてないんですけど」

「大丈夫。丈夫な植物だから。それに、園芸部員なんだし」

「いや、わたし温室に遊びに来てるだけで、部員じゃないですから」

「あれ? そうだっけ?」


 先輩はそう言ってのんきに笑う。

 部員だったらどれだけよかっただろう。

 部員になれていたら……。


 先輩は立ち上がってスカートを払い、「行こ」とわたしを急かす。名残惜しく思いながら、花壇の縁から腰を上げる。先輩はすでに温室を出て手招きしている。


「……わたしの気も知らないで」


 ついこぼれた言葉。


 温室がなくなるというのに。

 園芸部がなくなるというのに。


 どうして先輩は平気でいられるのだろう。


 先輩にとって、温室はその程度のものなの?

 先輩との思い出はすべてこの温室につまっていると思っているけど、そう思っているのはわたしだけなの?


 そんなどろっとした思いが胸に広がっていく。あふれそうになるのを必死におさえて、温室の扉を静かに閉める。


 先輩のために温室を守りたいわけじゃない。

 わたしはわたしのために行動するだけだ。

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スノードロップが咲くころに 桃本もも @momomomo1001

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