姉御

詩章

第1話

 大学生としての新生活が始まって2週間が経った頃の話だ。

 実家から離れて初めての一人暮らし。私生活を監視する親はここにはいない。それ故、始められる悪いことを1つずつ新たな友人と絆を深めるようにこなしていった。

 お酒は美味しくて楽しいものだったが、煙草だけはなかなか上手く吸うことができなかった。

 僕はいつものようにバルコニーで煙草に火を着けた。今はまだ、煙を肺に入れることすらできないが、煙草を咥え煙をくゆらせるだと、少しだけ大人になったような気がしていた。煙草を咥え気ままに立ち上る煙をなにも考えずぼーっと眺めていると、カラカラと隣の窓が開く音がした。特に気にもせず空っぽの頭で星を眺めていると、隔て板をコンコンとノックする音がした。僕はその音に酷く驚いてしまい体がビクリと反応する。

「私にも1本くれないかい?」

 知らない女性の声がした。

「は?」

 間抜けな声は僕の口からこぼれたようだ。

「簡単な話だろう? love your neighbor as yourself。隣人は自分のように愛すものさ。ママに教わらなかったかい?」

 英語の発音かなり上手いな……なんだこのかっこいい人は? それとも彼女はキリスト教の宣教師気取りの痛い人かなにかだろうか?

 宗教の匂いがして高校の友達が、別の大学で酷い宗教勧誘を受けた話を思い出した。僕は僅かに警戒した。

「生憎うちは無宗教でして。少々過保護には育ててもらいましたけども」

 話を逸らそうと僕は冗談を混ぜると、吐息にも近い微かな笑い声が聞こえた。

「そいつはママとパパに感謝しないとな。なぁ、そっちを覗いても構わないか?」

「え……まぁ、はい、どうぞ」

 手摺から体を乗り出し隣に住む女性が覗き込んできた。顔を合わせたのは初めてだった。彼女が綺麗な顔立ちであることは疑いようがなく、僕はまたさらに身構えてしまった。

「なんだ若いな、大学生かい?」

 僕の顔を見ると彼女は楽しげに笑った。

「まぁ、はい」

 僕は咥えた煙草を手に取り体に広がる僅かな緊張を悟られぬよう気だるげに対応した。てっきり煙草を咎められると思ったのだが、そうはならなかった。

「赤ラークなんて渋いじゃないか。若いのにいい趣味だ」

 僕がテーブルに置いていた煙草の箱を見て、彼女はこちらに手を伸ばしてきた。「くれ」ということだろう。

「うす」

 どんな反応を返せばいいかわからず妙な返事になってしまう。

 彼女は煙草を受け取ると「悪いね」と軽く感謝を告げ自分のバルコニーへ引っ込み姿が見えなくなってしまう。それでも、立ち上る煙が彼女はまだそこにいるのだと教えてくれる。それが、なんだか嬉しかった。

「少年は、いや青年、夢はあるのかい?」

 その言い直しに意味があるのかよくわからなかったが彼女は会話を希望らしい。僕はそれに応じることにした。

 初対面であることと、互いの姿が見えないこともあり、僕は素直になれたのかもしれない。それに煙草という大人の社交場に立つことで、自分が特別な経験をしているのだと思い込んでしまったのだろう。いつの間にか僕は彼女に心を許していた。

「今はまだ。それを探しに大学へ進んだ感じです。お姉さんは、夢を叶えたんですか?」

 彼女は笑った。

「お姉さんか、まぁいい。青年、夢を叶えても幸せになれるとは限らないんだぜ」

 声色は明るく聞こえるが、彼女はどんな顔をしているのだろうか?

「まぁアタシは夢を叶えてすらないがね」

 微かに聞こえる音が想像力を沸き立たせる。吸い込んだ煙を味わいゆっくりと吐いているようだ。そして僅かな間を空けて彼女は続けた。

「なぁ青年。若いってのはそれだけで特なんだぜ。夢を抱ける。どこへでも向かえる。失敗も許される。あらゆることから守られているのに自由さえも与えられている。ただしその価値に本当の意味で気づけるのは社会に出てからなのさ。そして大人になればたくさんの小さな後悔と妥協を繰り返し、灰色の日常をなぞる。アタシなんてあとは枯れていくだけの人生だ。それを人生と呼んでもいいのかは知らんがね。やりたいことがないのなら死ぬ気で探すんだな。でなきゃ4年なんてあっという間だ」

 なんだか詩のような言葉をいただいた。僕は、彼女のことをこれまで出会った誰よりもかっこいいと思った。

 カラカラと窓が開く音がした。

「あの、またなにか話をしてくれませんか?」

 僕は彼女のことをもっと知りたかった。なによりも、彼女の言葉をまだ聞いていたかった。

 しかし、返事はなく窓が閉まる音だけが僕の耳に届いた。

 少し寂しい気分になった数秒後、再び窓が開く。


「今日は気分がいい。青年、少し付き合え」

 そう言って彼女は氷と液体の入ったグラスをこちらに差し出してきた。

「ありがとうございます。ちなみに僕は──」

「野暮な奴だな。君は男でアタシは女。目の前には幸せになれる水が入ったグラスだ。足りないものはなんだ?」

 そう言って彼女は自分の持つグラスをこちらへ軽く傾けた。

「夢を叶えても幸せになれないのに、これを飲めば幸せになれるんですか?」

「幸せなんてそんなものさ。もっと頭を空にするといい。それがうまく生きていくコツさ」

 そう言って彼女はニヤリと笑った。

「それは無理な相談ですね」

 そう言ってはみたが、僕はワクワクしていた。早まる心臓の鼓動に応えるように、僕は渡されたグラスをこちらに傾く彼女のグラスにコツンとぶつけた。

 彼女はグイっとグラスの中身を半分ほど飲むと言葉を投げかけてきた。

「そうか、君の頭は元から空っぽだったか」

 驚くほどに辛辣な言葉だった。それが粋なジョークであることに気づけないほど僕はバカではない。

「あんた失礼だな」

 形式的なツッコミを入れると、彼女は口笛ではやし立てた。

「冗談さ」

 そう言って彼女は悪い笑みを浮かべる。

 それから僕らはとりとめのない話を続けた――。



「青年、残念なお知らせだ」

 唐突に彼女は話の腰を折った。

「え、なんですか?」

「魔法の水がなくなってしまったようだ。盛り上がってきたところではあるが、続きはまたにしようか」

 その言葉がすごく嬉しかった。

 彼女を自分から誘ってもいいものかわからなかったのだ。

「次回は何か自分も用意しておきますね。いつでも声をかけてください。姉御」

 僕は彼女と特別な関係を築きたくて、妙な呼び方をした。

「はは。姉御か、悪くない。私も君の呼び方を考えておくとしようか」

「いや、これからも青年でお願いします!」

 僕の気分の高揚は魔法の水のおかげか、それとも……

「はは。いいだろう。一生ついてこいよ青年」

 それからしばらく話を続けた。


 綺麗な月が僕らを見下ろしていた。



 あれから約4年――。


「おい青年、ネクタイ曲がっているぞ。ちょっとこっちに来い」

 僕は彼女の前に立つ。

「なんだ、曲がってるというかこれは……ネクタイ締めるのくそ下手だな」

「酷いよ姉御。今日卒業式なのに……」

「はいはい」

 彼女はめんどくさそうに僕のネクタイを外して締め直してくれた。

「アタシ今日は仕事休みなんだ。特別に美味いものを作ってやろう。早く帰って来いよ」

「その台詞、もっと可愛く言ってもらえますか」

「バカなこと言ってないでさっさと行け。式が始まるぞ」

 僕のリクエストには応えず、再び布団へと戻る彼女を尻目に僕は部屋を出た。



 月日が経っても、距離感が変わっても、僕らは姉御と青年のまま、呼び名が変わることはなかった。



[おしまい]

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