第7話 徳川の出陣


「宇都宮を発ち、信州を抑えよ」


 家康は上杉景勝に対する後詰めとして宇都宮に滞陣中の三男、秀忠ひでただに信州の制圧を命じた。

 景勝の抑えには次男の秀康だけで事足りる――との判断で、信州の三成派の制圧と中山道の確保が秀忠の役目であった。秀忠は24日に宇都宮を発った。

 これが初陣だった秀忠には、大名格の徳川譜代の家臣、本多正信、榊原康政さかきばらやすまさ大久保忠隣おおくぼただちからを補佐に、付けられた兵力は徳川家の主力を含む38,000余。これに信州近辺の大名たちが従った。

 中山道沿いの大名で、西軍に付くと旗幟を鮮明にしていた真田昌幸さなだまさゆきの上田城攻略が第一の任務であった。

 やっと大きな役目を任された、と秀忠は大いに張り切って出陣した。


 9月1日、家康はようやく江戸を出立した。

 想定より早かった岐阜城陥落の知らせを受け、予定を前倒しにしたのである。同時に、中山道を制圧する役目を与えた秀忠にも急遽、『西進して美濃で合流することを急ぐように』――と指令変更の早馬を出して、後を追わせた。

 先鋒の諸大名らには、


「岐阜城開城は見事。なれど、この家康が到着するまで動くな。自重せよ」


と、改めて家康自身の到着まで自制するように指示した。指示を出したはいいが、家康は首を傾げながら、


「せっかちな、あの者らのこと。無駄かのう?」


と、傍の正純に語り掛けた。


「はっ。おそらくは仰せの通りかと」

「だろうの。やれやれじゃわい」


 正純の返答に、家康は溜息を吐いた。


 家康の読みは当たった。やはり、気の短い福島正則などが西軍に対する先制攻撃を主張、家康の指示を無視して三成らの拠る大垣城を40,000余の兵力で包囲、圧力を掛けた。三成方も大垣城に20,000余の兵で籠ったため、両者は膠着。東軍は砦を築き、睨み合いが続いた。

 この状況を打破しようと、三成らは伊勢方面から美濃に進軍中の毛利本隊20,000余に連絡を取り、7日に美濃に入った毛利勢は南宮山の東麓に陣を敷いた。


 これに先立つ2日に大谷吉継は、戸田勝成とだかつしげ平塚為広ひらつかためひろ赤座直保あかざなおやす小川祐忠おがわすけただ朽木元綱くつきもとつな脇坂安治わきざかやすはるを率い、関ヶ原南西の山中村に布陣した。佐和山へと抜ける中山道と北国街道口を抑える為であった。これらは総勢10,000余である。


 その間も家康は西進し、14日には赤坂に到着。岡山という小さな山の山頂に本陣を置いた。そして家康の馬印、金の大扇が掲げられた。


「家康、現る」


 金扇を見た三成ら西軍に衝撃が走った。家康の着陣が予想よりも早かったからである。

 さらに、聞捨てならぬ噂を聞いた。家康らは、大垣城を横切り、手勢の少ない佐和山城を抜いて、一気に大坂城に迫るつもりである――というのだ。


「大坂を護らねば! 家康を易々と通すな!」

「関ケ原ならば、食い止められよう」

「出陣じゃあ!」

「迂闊に動いてはならぬ!」


 三成方の諸将は動揺する者、血気盛んに出陣しようとする者など、喧々諤々の評定の末、


「大垣城を出て、関ケ原で家康を食い止める」


 ――との結論に至った。


「各々方、出陣じゃあ!」

「おおっ!」


 勇ましく声を上げて、諸将は軍議の間を出て行った。関ケ原に布陣するためである。



 少しばかり時は戻って、9月7日に、真田昌幸の籠る上田城の攻略に手を焼いていた秀忠の元に、父、家康から急ぎの書状が届いた。本来であれば、もっと早くに届くはずだった書状は、秋の長雨に道中の河川が荒れた中山道を、急使が思うように進めなかったことによって大いに遅れたのである。


「大殿は何と仰せでございますか?」


 重臣の本多正信が、秀忠に問うた。秀忠は難しい顔をして、言った。


「父上は急ぎ、中山道を関ケ原へ向けて進め――と仰せじゃ」

「急ぎ?」

「うむ。福島正則らが、先月の23日に岐阜城を落としたのじゃ。それ故、予定を早めて西に進め――と言うてきた」

「何と! しかし、9月も7日になって……」

「この書状の日付は、先月末日じゃ。伝令が遅れたのじゃ。ええいっ! 今からで間に合おうか?」

「この大軍でございますからな……、どれほど急げますか……」

「ですが、真田昌幸の動きも気になりまする。我らが退けば、追っ手を差し向けるやも知れず……」


 行軍の速さを正信が鑑みれば、榊原康政は真田昌幸の動向を注意するように、と意見具申した。


「おお……、それよ。どうすればいい?」

「暫し、様子見をすればいかがでございましょうか?」

「そのような暇はないぞ。急ぎ、出立せねば……」


 大久保忠隣の言を正信は否定した。最早、日がないのだ。

 そもそも、ここ上田城にこれほどの日数を割いたのは、真田昌幸の追撃を恐れた康政と忠隣が、先ずは後顧の憂いを排除すべき――と攻城を主張したからであった。正信としては、今が同僚の失態を攻める好機であった。


「そうじゃ。今は儂が徳川主力を預かっておるのじゃ。儂がおらねば、父上も戦えん」

「はっ……」

「ここは、兵を多少失っても致し方ない。急ぎ、出立するぞ」

「ははっ」


 ちなみに、後世の歴史家は、総兵力5,000ほどの真田昌幸の上田城などにかまけず、8,000余を抑えに置いて進軍しておけば、関ヶ原の合戦に間に合ったものを――と語っている。説得力のある意見である。


 それはさておき――。


 秀忠は出立を決意した。今からでも、出来得る限り、関ケ原に向かうことを選択したのである。



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