第22話 後始末の準備。

 帰りの馬車の中。自らの腕の中で寝息を立て始めた愛しい婚約者の姿に、アルベールはほっと息を吐いた。その身体が倒れてしまわないようにと自分に言い訳をして、抱きしめる腕をそのままに。


 疲れてしまったのだろう。心も、身体も。




「……本当に、情けない」




 彼女を守るために、ただそれだけのために最善を尽くしているはずなのに。予想も出来ない形で彼女を傷付ける全てが、ただただ憎かった。




 君にあんな顔をさせたくなくて、君の傍にいることを願ったはずだというのに……。




 泣きたくても泣けない、泣いてはならない。自らにそう言い聞かせたように、綺麗に取り繕われた、笑み。大丈夫だと呟く彼女の姿を見たのは、これで二度目だ。


 図らずしも、同じような場面で。




 今でも覚えている。……いや、死ぬまで。




 自分は、忘れることなど出来ないだろう。あの日の、彼女の姿を。


 ふと、そういえば、と思った。久方ぶりにあの名前を聞いたな、と。気付かれるかもしれないとは思っていたが、その相手がまさか、彼女の婚約者だった者だとは思わなかった。


 考えて、いや、と脳内で否定する。彼女の家族に次いで、長い時間を彼女と共に過ごしていた人物なのだ。気付いてもおかしくはないだろう。


 あの日の出来事も、どこまでかは知らないが、おそらく聞いているはずだから。


 先代の国王に命じられて行われた、傭兵たちとエルヴィユ子爵家の騎士団の合同訓練。そこに紛れ込んだのは、当時はまだ王太子であったテオフィルの希望であった。


 ウィッグを着用して髪の色を変え、嫌でも目立つ顔を隠すためにうっとうしいほどに長い前髪を作って。酷い火傷があると嘯いて、顔の上半分を目元だけを残して包帯で覆った。流れ者の傭兵、ルーは、そういう姿をしていた。




 傭兵たちでさえも気味悪がって近付いてこなかったというのに、君は気にも留めずに声をかけてくれたな。




 食事や休憩、怪我をした時。団長であるバスチアンの補助として走り回っていたカミーユは、分け隔てなく騎士たちや傭兵たちに接してくれた。


 だからこそ、そんな中で起きたあの出来事が、許せなかった。


 すっぽりと、自らの腕の中に納まったカミーユの、健やかな寝顔を眺めながら、アルベールは思う。本当に、間に合って良かった、と。


 明るく声をかけてくれる彼女に、懸想する者がいることには気付いていた。自分もまた、彼女に惹かれている者の一人であったから。けれど。




 ……彼女をただ『女』としてだけ認識して、無理矢理その身体を暴こうとするとは。




 今思い返しても、不快感にも似た苛立ちが込み上げてくる。


 あの日、彼女の姿がないことに気付いて、本当に良かった。胸騒ぎがして足を運んだ、あまり人も立ち寄らない倉庫となっている小屋の中。引き裂かれるようにして乱れた彼女の服と、逃げようと暴れる彼女を抑え込む、三人の男の姿。


 ぎゅうと、カミーユを抱きしめる腕に力がこもる。


 アルベールの姿を見た彼らは、その顔に下卑た笑みを浮かべていて。あろうことか声をかけて来たのだ。『丁度良いところに来たな』と。


 『今から楽しむところだから、お前も仲間に加わらないか』と。


 その場で、殺してしまいたかった。




 怯えているカミーユに血を見せたくはなかったから、あの場は制圧するに留めたが……。今考えると、よく抑えられたものだな。




 気絶した男たちを縛り上げ、来ていた服の上着をカミーユに渡して。アルベールはカミーユと共にバスチアンの元へ向かおうとしたのだけれど、彼女は男たちを見張ると言って、小屋の前に残ると主張した。気丈にも笑みを浮かべて見せる姿に、強い人なのだと思ったのだ。その時は。


 バスチアンの元へ向かおうと踵を返し、歩き出し。やはりどうしてもカミーユを一人にしたくなくて、彼女の元へと戻った時。


 必死に声を殺して涙を流す、彼女の姿を見るまでは。




 守りたいと思った。絶対に。




 これ以上、彼女が傷つかないように。身分や、政治的なしがらみなど全て捨てでも、彼女を守り、共に生きたいと。


 だからこそ、彼女の傍にいられる今が、これ以上ない程に幸せで。それと同時に、彼女を守れなかった自分が、情けなくて仕方がないのだ。




 あの時の傭兵たちは、カルリエ卿が始末したと聞いたが……。今回は少々面倒だな。




 あの時も、今回も。本当ならばすぐにでも、この手でその命を絶ってしまいたかった。カミーユに恐怖を与えた者たちに対する慈悲など、欠片も持っていなかったから。だが、だ。


 今回の場合、背後に誰かがいるかもしれないため、簡単にその命を奪い、その存在を消すことも出来ないのである。


 自分がカミーユの元を離れた隙に、休憩室へと続く廊下の鍵が閉められ、使用人が姿を消した。その中に、カミーユともう一人別の令嬢、そして社交界でも有名な、素行の悪い高位貴族の子息たちを閉じ込める形で。




 カミーユが令嬢を助けた、と言っていたが……。おそらくは、あの令嬢が巻き込まれた方だろう。そうでなければ、控えていたはずの使用人がいなくなったことの説明がつかないからな。




 カミーユの元へと向かう途中に令嬢がいたため、襲ったというだけだろう。彼らはそういう人間だ。もしくは、背後にいる人物に、誰を襲うか、という話を聞いていなかった可能性もある。何にしても、狙いはカミーユだったのだろう。




 ……いや、俺がカミーユを大事にするあまり、見落としていることも多いはず。断定せずに、まずはあの男たちに話を聞いた上で、精査してみなければ。




 あの男たちを殺してしまいたいと思う気持ちに変わりはなかったが、そうすれば全てが有耶無耶になってしまう。カミーユを脅かす全てを把握するまでは、我慢しなければと、アルベールは僅かに溜息を吐いた。


 馬車は何事もなく、エルヴィユ子爵家に到着した。毎日訪れているため勝手知ったるその屋敷の中を、アルベールは眠るカミーユを横抱きにしたまま、進んで行く。使用人たちが恐縮して彼女を預かろうと言ってきたのだが、アルベールが断ったためだ。


 カミーユが男性を怖がるために、彼女の身体を支えようとしたのは二人の侍女だった。二人がかりであっても人一人を抱え上げることは難しく、一時的に彼女に起きてもらう必要があるわけで。疲れ切って眠る彼女を起こすのは忍びなく、アルベールがそのまま運ぶことにしたのである。


 少しでも長くカミーユの傍にいたいという下心が、ないはずもなかったが。


 初めて足を踏み入れた彼女の部屋は、エルヴィユ子爵家の人間らしい、というべきか、飾り気の少ない、落ち着いた雰囲気の部屋だった。最低限必要な家具のみが置かれているようで、そのうちの一つ、ベッドサイドの家具の上に、見覚えのある木箱を見つけて目元を細める。アルベールが渡したその木箱の中に何が入っているのか、忘れるはずもなかった。




「やはり、先に渡しておいて良かった。……これを見る度に、君が俺の事を思い出してくれるならば、これ以上幸せなことはない」




 眠りを妨げることのないように、ゆっくりとカミーユの身体をベッドへと横たえる。ふわりと広がった茶色の髪を掬い上げて、その先に口付けた。どうか、幸せな夢を見られるようにと、願いを込めて。


 エルヴィユ子爵家の侍女たちにその後を任せて、アルベールは屋敷を出た。そのまま、乗って来た馬車に乗り、暗闇の中、王宮へと取って返す。まだ夜会は続いているだろうが、用があるのは別の場所。




「思ったよりも早かったな」




 アルベールの顔を見るなり、そう声をかけて来た国王、テオフィルは、夜会に出た時の格式ばった格好のまま、いつも通り執務室の椅子に座っていた。


 いつもと違うのは、彼の周りにいる人物たちの顔ぶれ。予想通りでもあった二人の姿に、しかし人数が足りないことを僅かに疑問に思う。少なくともあと一人、この場にいると思ったのだけれど。


 無意識に周囲を見渡したアルベールの疑問に気付いたらしいテオフィルは、唐突に、「エルヴィユ子爵ならば、帰ったぞ」と言った。




「お前が令嬢と王宮を出てしばらくして、声をかけられてな。会場であれだけ噂されていれば当然だろうが。分かる範囲で、大まかに事情を説明しておいた。令嬢のことを心配してお帰りになったから、入れ違いになったのだろう」




 告げられた言葉に、「そうですか」と頷いて応える。それでは、もう少し屋敷で待っているべきだったか。彼女を守り切れなかったことに対しての謝罪もしたかったのだけど。


 考えるも、また明日には顔を合わせることになるからと思い直す。今考えるべきは、起きてしまったことに対する謝罪ではない。




「あの男たちへの尋問は行われましたか? まだでしたら、今すぐにでも話を聞きたいのですが」




 話を聞き、彼らの背後にいる人間を探り出して。二度とこんなことをしようとは思えないようにしなければ気が済まない。


 殺気立ったアルベールの問いに、テオフィルは僅かに頬を引き攣らせた後、「もう終わらせたぞ」と応える。「今お前が顔を合わせると、殺してしまいそうだと思ったからな……」と、ぼそりと続いた声には、気付かないふりをした。




「私と、ここにいる二人、……クラルティ伯爵令息と、セーデン伯爵令息と共にな」




 テオフィルの言葉と共に、二人が軽く頭を下げる。クラルティ伯爵家の次男であり、カミーユの元婚約者であるジョエルはおそらくエルヴィユ子爵の名代として残ったのだろう。カミーユの妹と婚約している彼は、次期エルヴィユ子爵で間違いないからだ。


 案の定と言うべきか、彼は静かな表情を浮かべて、「僕も、エルヴィユ子爵家も、協力は惜しまないつもりです」と、エルヴィユ子爵家としての言葉を口にする。「まだ話を聞いたばかりなので、子爵家に事の次第を伝えるのが主になると思いますが」と、彼は続けた。


 そしてもう一人。セーデン伯爵家の三男で、以前オペラハウスでシークレットルームに入って来た面々の一人、ディオン・マイヤールの姿が、そこにはあった。


 実は彼こそが、今回の件での一番の功労者といえよう。休憩室へと繋がる廊下への扉に、使用人が鍵をかけた所を見かけ、アルベールにそれを伝えてくれた人物だからである。過去にカミーユに対して行ったことを完全に許す気はさらさらないが、彼のおかげで最悪の事態を避けられたことに対しては、心底感謝していた。




「あまりそう睨むな、ブラン卿。マイヤール卿は、カミーユ嬢に直接謝罪したくてあの扉の近くにいたそうだ。会場ではお前たちの周りにひっきりなしに人が来るものだから、休憩室へ向かったのを見て追いかけたそうだ。だが、扉の前に使用人がいた上に、お前も会場に戻って来た。再び会場に戻って来た時に謝罪しようと、待っていたらしいぞ」




 「彼女を怯えさせてしまったことを謝り、処分を軽くしてもらったことへの感謝を告げたかったそうだ」と続いたテオフィルの声に、なるほどと一人納得する。やはり皆が皆、バルテ伯爵家の令嬢のように、身の程を知らぬ者ばかりではないということだろう。


 アルベールの視線に怯えるように蒼くなったディオンの顔を見れば、本当に謝罪と感謝以外の意志はなかったのだろうと確信も出来た。そうでなければ、蒼褪めるほど恐ろしいと思っている相手の元に、わざわざ来るはずもないからだ。


 過去のことを水に流す、とまではいかないが、横に置いておくことくらいはすべきであろうと思い、アルベールは一つ息を吐くと、「警戒してしまい、すまない」と素直に謝る。ついで、「本当に助かった」と言って、アルベールは頭を下げた。




「貴殿の進言のおかげで、最悪の事態は免れた。感謝する」




 心の底から、本当に。もし彼が気を回して自分に声をかけることをしなければ、カミーユは。考えると、ぞっとする。


 ディオンはアルベールの態度に恐縮したように、頭を振った。「い、いえ! 僕は当然のことをしただけで……!」と、困ったように言う彼に、思わず笑った。余程怖がらせてしまっていたようだ、と。




「そう必要以上に畏まらないで欲しい。良ければ今回の件、貴殿にも協力してもらいたいからな」




 人々の噂により、カミーユが二人の男たちに襲われる令嬢を助けたということだけは、すでに周知の事実となっているけれど。扉の前から使用人が消えたことや、扉に鍵をかけられたことは、誰も知らない。なるべく、必要最低限の人数で、解決したかったから。


 すでに内容を知っている人物がいるのであれば、協力してもらうに越したことはなかった。


 ディオンもすでにそのつもりだったのだろう。その表情を真面目なそれに変えて、「エルヴィユ子爵令嬢に恩を返すためにも、最大限、努力させて頂きます」と、応えてくれた。




「……さて、そろそろいいかな? ここにいる三人で彼らを尋問した結果だが……、依頼人がいることは分かったが、それが誰かは分からないと言っていた。何でも、少し前に行われた仮面舞踏会で見知らぬ令嬢に頼まれたそうだ。『貴方たちが家から勘当されるという話を聞いたが、その後も遊んで暮らせるだけの金を渡すから、最後に一度だけ、とある令嬢を襲ってくれないか』と言ってな」




 「一応、招待客の方も当たってみるが、顔が分からないため、そちらからの特定には時間がかかるだろう」と、テオフィルは続けた。




「実際、会場で噂を聞いたあの二人の家の当主たちは、彼らと縁を切ることを決めたようだ。先程、貴族名簿からの除名を願う手紙が届いた。すでに用意していたのかもしれないな。彼らも、あの二人の蛮行の後始末に嫌気が差していたのだろう。裏でかなりの金額が動いていたようだから。おかげで、囮に使っても誰も気にしないだろう」




 気分の悪い話だとでも言うように、テオフィルは息を吐いた。それに頷き、アルベールは「使用人の方は見つかりましたか」と問いかける。応えたのは、静かに話を聞いていたディオンであった。




「使用人の方は、彼が鍵をかけて会場を出る時に、傍にいた見回りの護衛騎士の方に追ってもらうように伝えておきました。直に連絡が来るかと」




 すらすらと返って来た言葉に内心で驚く。思ったよりも気の利く人間のようだと、そう思った。なぜそのような人物が、王族が利用することもあるオペラハウスのシークレットルームに押し入るような事をしたのだろうか、とも。


 疑問に思うアルベールを余所に、テオフィルは「あの二人を泳がせる件だが」と口を開いた。




「今日の内に放てば、警戒されるだろう。明日、令嬢たちの話を聞いた後に王宮から出すことにする。金を貰う約束だったと言っていたから、彼らの向かう先には、背後にいる人間に関わる者がいるはずだ。まあ、計画が上手くいっていないわけだからな。その場に来なかった時は、再度あの二人に話を聞こう。……顔は見えずとも、相手が誰なのか薄々分かっているはずだ。本当に金を持っているかも分からない見知らぬ人間と、確証の無い約束などしないだろうからな」




 無理矢理話を聞いても、本当のことを口にするとは限らない。その者が捕らえられれば、自分たちが王宮から出た後の保証がないからだ。しかし、その保証さえも最初からないと分かれば、口を割るだろう。余程の忠義者でもない限り、騙されたと分かって進んで罪を被る人間など、いないだろうから。仮面舞踏会などという、相手が誰なのかも分からない状態で依頼をするような相手ならば、尚の事である。


 「それで良いか?」と、口にせずに問いかけてくるテオフィルに、アルベールは一つ頷く。彼の言葉には、素直に同意する。けれど、もし彼の言い分通りに行かず、この国の中を虱潰しに探すことになったとしても、絶対に探し出すつもりだ。そして。




「……俺の婚約者に手を出せばどうなるか、思い知ってもらわなければ」




 低く、知らず零れた言葉。エルヴィユ子爵家の名代として事の始終を見守っていたジョエルが、乾いた笑みと共に「僕は君を尊敬するよ、カミーユ嬢……」と呟いていて。テオフィルとディオンもまた、頬を引き攣らせながら頷いていた。

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