第8話 自分であろうと誰であろうと。


 変わらないなと、思った。

 好きな花や、好きな菓子。好きな色に、好きな小説。

 あの頃と、何も変わらない。




「……連れて帰ってしまいたいな」




 可愛くて可愛くて、仕方がない。やっと手が届くところまで近づいた、愛おしい存在。凛として強く、しかしか弱く、その全てを護りたいと思う、唯一の人。

 口の中だけで零れた言葉が、彼女の耳に届かなくて良かったと心底思った。聞こえていたら、怖がらせてしまったかもしれないから。


 ただでさえ、彼女の記憶の中に存在しない自分は、恐怖の対象である『男』という存在でしかないのだから。




「……いっそのこと先に婚約だけでもまとめてもらおうか。屋敷に連れ去って閉じ込めてしまえば、否が応にも私を受け入れるしかないだろうから……」




 誰にも見せず、触らせず。全ての世話を自分が勤めれば、自ずと自分を頼らざるを得なくなるだろうから。

 そんなことを真剣に考えていたら、「おい。人の執務室で犯罪計画を立てるのはやめろ」と、呆れたような、信じられないというような声が聞こえた。


 カミーユとエルヴィユ子爵家の庭で言葉を交わし、オペラを観に行く約束をしたその翌日。アルベールは仕事の一環として、国王であるテオフィルの執務室にいた。


 ベルクール騎士団の団長として、ミュレル伯爵として、報告がてら顔を出せと言われ、面倒ながらも仕方なくこの場を訪れているわけだが。


 相変わらずこの同い年の国王は、アルベールの恋愛事情に興味深い様子である。間違いなく、仕事よりもそちらの話題の方が時間を取っていた。




 休憩がてら、とは言っているが。……そこまでして、俺をこの国に置いておきたいのだろうな。




 柄ではないし興味もないが、英雄と呼ばれる自分は、周辺各国への牽制には丁度良い存在のようだ。だからこそ、早いところ身を固めて欲しいというのがテオフィルの本音だろう。


 騎士という性質上、護りたいものがこの国にあれば、決してこの国を裏切ることはないからだ。


 まあ、アルベールの場合は、早いところ結婚しなければ、年頃の令嬢たちの諦めがつかない、というのもあるらしいが。

 嘘か本当か知らないが、アルベールがカミーユに求婚してから、少しずつ婚約を結ぶ令嬢たちが増えて来たとかなんとか。まあ、アルベールにしてみれば、どうでも良い話なのだけど。


 執務室に備えられた来客用のソファに腰かけ、正面に座るテオフィルをしら、とした目で見ながら考えていたら、視線を感じたらしい彼は、アルベールと同じ色の瞳を眇める。「こう言ってはなんだが……」と、彼は口を開いた。




「何というか、まるで物で釣っているようだな」




 ぼそりと呟かれた言葉。言い難いのか、申し訳なさそうに吐き出されたそれに、アルベールは一つ瞬きをした。

 何を言っているのだろうと、そう思ったのだ。




「まるでも何も、物で釣っているんだが」




 比喩でも何でもなく、間違いなく。

 あくまでも私的な時間のため、口調を繕いもせずに素直にそう口にすれば、テオフィルはその口許を僅かに引きつらせた。「いやまあ、そうなんだろうけれど」と、彼は呟く。


 「それで良いのか?」と。




「物で釣ることが悪いとは言わないけれど……。それでお前の求婚を受けてくれたとして、それで良いのか?」




 テオフィルがそう、少し心配そうな顔で言う。国王として、というよりも、ただの従兄としての言葉だろう。金で気を引いているようなものだから、彼の言いたいことも分かった。


 それでも、今のアルベールには、それしかないのもまた、事実である。

 「良いも悪いもない」と、アルベールは呟いた。




「彼女にとって、今の俺は『見知らぬ男』でしかない。……彼女の恐怖の対象でしかない。物だろうと金だろうと権力だろうと……、まずは、気を引くところから始めなければならない」




 それが、冷静に今の状態を客観視した上での真実である。


 カミーユは男性恐怖症であり、自分は見知らぬ男。だからこそ、まずは気を引くしかないのだ。自分は傍にいても安全な存在だと、そう彼女の意識を塗り替えながら。




 毎日彼女の元を訪れているから、随分と慣れてきてはいるが……。まだ、触れるには至っていないからな。




 同じ空間にいることに違和感はなくなってきているようだが、エスコートを申し出ても、どうしても触れることは出来ないでいるようだった。『知り合いの男性』くらいには格上げできたと思うが。


 それに、テオフィルにはすでに伝えているが、アルベールが毎日持参している贈り物も、実際の所、素直に受け取ってもらったことは一度もない。色々と言葉を連ねた上で、ほとんど押し付けるようにして渡していた。そうでもしなければ、気にも留めてもらえそうにないから。


 まあ、最終的に喜んでくれているようなので、救われているわけだが。




 ……それにしても、今回の贈り物は、素直に喜んでくれたようで良かった。




 カミーユが、あのオペラの原作小説を好いていたのは知っていた。しかし、チケットが売り出されたのは、彼女がまだ婚約を解消するよりも前だったため、アルベールもまた購入することが出来なかったのだ。


 こればかりは、本気で母に感謝していた。




「そういえば、オペラに行くとか言ってたけれど。カミーユ嬢は男性恐怖症なのだろう?」




 「大丈夫なのか?」と、テオフィルは心配そうに問いかけてくる。

 本来なら、アルベールもまたその点が不安だったはずだけれど。「おそらくは」と言って頷いた。




「彼女にはまだ伝えていないのだが……。母上が買っていたチケットは、シークレットルームのものだった。少々気を付けさえすれば、男どころか誰にも会わずにオペラを観劇できるはずだ」




 言えば、テオフィルは「それは良い」と頷いていた。


 シークレットルームとは、首都のオペラハウスに一つだけ設けてある、お忍び専用の観劇室の事である。オペラハウスの入場口の上の階にあり、一階からは壇上に登らない限り室内が見えないように作られた部屋だった。


 その価格があまりにも高額なため、使用するのは王族か、アルベールたちのように裕福な最高位貴族が主のようである。もっとも、あまりオペラハウスを訪れないため、そのように聞いた、というだけだが。




「あの部屋ならば、開演ぎりぎりに行けば、本当に誰にも会わずに済むはずだ。扉のない隣の部屋に運営側の侍従も待機しているから、二人きりになる心配もない。カミーユ嬢も安心だろう」




 そんなテオフィルの言葉に、アルベールもまた安心して頷く。伝え聞いただけだったので少し不安が残っていたが、使用したことのある人間が言うのだ。間違いないだろう。


 「では、なるべくぎりぎりに到着するようにしよう」と言えば、テオフィルもまた笑って、「ああ、それが良いと思う」と応えてくれた。




「我が国のためにも、カミーユ嬢には、お前に対してなるべく良い印象を持ってもらわなくては。……そういえば、彼女の屋敷に届いた複数の手紙の送り主たちはどうなったんだ?」




 ふと思い出したようにテオフィルが訊ねてくる。よく覚えていたなと思いながら、アルベールは「処理しておいた」と答えた。




「予想通りと言うべきか、皆、年頃の娘を抱える家ばかりだったからな。それぞれ、手紙の内容を確認した上で、対応しておいた」




 自分との関係を問うような手紙には、現状を伝える手紙を。

 カミーユ、もしくはエルヴィユ子爵家に対する警告まがいの手紙には、ベルクール公爵家とミュレル伯爵の名を使って、警告を。


 脅迫に近いことを書いてきた手紙の送り主には、警告と、それぞれの取引先などを調べて手を打っておいた。自分との婚姻を望む猶予など、なくなるように。




 家門の商会を使い、より良い取引条件を提示すれば、皆喜んで取引先を変えてくれたからな。目端が聞く者であれば、そろそろ気付いているかもしれないが。……おそらく三ヶ月もすれば、出来るだけ早く娘を裕福な男に嫁がせようとするだろう。




 騎士団を率いることで有名なベルクール公爵家だが、先代のベルクール公爵は剣の才能がなく、商いの方にそれが突出していたという。そのため、彼の娘であるアルベールの母の元に、剣に秀でていた前国王の弟である、アルベールの父が婿入りしたのだ。


 ちなみに、商会の方は現在アルベールの弟がその運営を任されていた。先代のベルクール公爵と同じく、剣よりも数字に強い男のため、とても楽しそうに日々を送っている。

 今回はそんな弟に協力を要請したのだった。


 手紙の送り主が警告を真摯に受け取って謝罪でもすれば、手を引くことも考えてはいるが。さて、どうなることだろうか。正直な所アルベールは、カミーユと、彼女の家に害を為す者の未来になど、微塵も興味がなかった。




「もちろん、俺が口出しをしたせいで、エルヴィユ子爵家が我が公爵家に降ったと思われないように注意はしている。あくまでも、俺の求婚を邪魔するな、と」




 お互いに騎士団を持つことを許された家だとはいえ、それぞれ交流はあっても完全に独立している。貴族として、そして騎士としての体面を傷付けるわけにはいかなかった。


 テオフィルはそんなアルベールの言葉にくつくつと笑う。「もし本当にそんなことになれば、警戒すべきはむしろ私の方だろうな」と言いながら。




「王位継承権を持つお前が、ベルクール騎士団に加えて、エルヴィユ騎士団まで従えるようになれば、まず最初に反逆の可能性を考えなければならないからな。今の段階で、エルヴィユ子爵家に浅はかな手紙を送っているような連中は気に留める必要もないが、頭の回るやつらはそちらの方を勘ぐっているだろう。……私に忠告してくる者、お前に声をかけてくる者。把握しておいて損はないだろうな」




 普段は太陽を思わせる明るい笑みを浮かべるテオフィルの顔には、どこか暗い笑みが浮かんでいる。底意地の悪そうなその表情はしかし、彼の端麗な容貌に、意外にもよく似合って見えた。


 「まさか、違うだろう?」と、冗談のように問いかけてくる彼に、アルベールは鼻で笑って「有り得ん」とだけ返す。すでに予想していた答えだったのだろう、テオフィルは楽しそうに笑って、「だよな」と呟いていた。


 親しい友人であっても、信じ切ることをせずにこうして警戒を怠らないテオフィルのことを、アルベールは気に入っている。それと同時に、自分にはまず国王などという存在は向いていないとも思うのだ。


 盲目的に一人に執着し、命までもを捧げようとする、騎士としての性質が身についた自分は、国民の全てを護ろうなど、考えもしないから。


 それを分かっているからこそ、テオフィルも本当の意味でアルベールが王座を狙っているなどとは考えていないのだと思う。

 王座を狙うどころか、そんな面倒臭いもの頼まれても嫌なのだが。




「カミーユ嬢について少々調べさせてもらったが、彼女は金にも権力にも興味はなく、社交界にもあまり顔を出していないらしいな。まあそれも仕方がないだろう。男性恐怖症になる前は、エルヴィユ騎士団の騎士たちに差し入れをしたり、怪我を治療したり、子爵と共に騎士団の裏方の仕事を色々と行っていたようだが。……全く、惜しい話だ」




 ぶつぶつと呟くテオフィルの言葉は的を射ていて、アルベール自身も、そんな生き生きと騎士たちの間を走り回る彼女の姿を見ていたから、もったいない話だとは思う。

 けれど。


 「男性恐怖症でなければ、騎士団を率いるお前の助けになっただろうに」と続いた彼の言葉には、即座に「いいや」と否定した。




 『騎士団を率いる俺』の助けなんて、必要ない。




「仕事が出来ようと、出来なかろうと、カミーユ嬢はカミーユ嬢だ。何も変わらない。彼女はそのまま、今のまま、俺の傍にいてくれればそれで良い。それだけで良い。……他の男たちの世話なんぞ、必要ない」




 騎士団を率いる存在として立っている自分の周りには、多くの騎士たちが集う。表向きであろうと裏方であろうと、必ず。

 そこに、彼女を、カミーユを連れてくるなんて、有り得ないのだ。


 もしカミーユが男性に恐怖を覚えるようなことがなかったとしても、アルベールは同じことを言っただろう。

 ベルクール騎士団の騎士だろうと、エルヴィユ騎士団の騎士だろうと、誰だろうと。彼女の傍に寄り添い、彼女が視線を向けるのは、自分だけで良いのだから。


 真面目な顔でそう告げれば、テオフィルは引き攣ったような笑みを見せる。「薄々、思ってはいたんだが……」と、彼はぼそりと続けた。




「お前、執着心も強ければ、独占欲も酷すぎるよな。……頼むから、本気で監禁とかするんじゃないぞ。カミーユ嬢のためにもな……!」




 「先程のは冗談なのだろう?」と、軽口のように、それでいて切実な声色で言うテオフィルを鼻で笑い、アルベールは静かに、「彼女が嫌がることはしない」と応えた。


 例えそれが他人であろうと、自分であろうと。

 本心がどうであろうと。

 彼女を脅かすものなど、必要ないのだから。

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