第9話 幸福な時間と恐怖。

 その扉が開かれた時の気持ちを、誰か想像できるだろうか。

 カミーユは、ただただ驚愕するしかなかった。本当に。


 なぜ、今自分はここにいるのか、と。




「し、シークレットルームって、本当にあったのですね……」




 言葉に出来たのは、それだけだった。


 いや、薄々そうかもしれないとは思ったのだ。オペラハウスに入ってすぐに、客席へと向かうのではなく、今までその存在に気付くことさえもなかった階段の方へと向かう、支配人とやらの姿を見て。


 けれど、さすがにそんなことはないだろうと高を括っていた。もしそうならば、いくらベルクール公爵夫人といえど、チケットを譲ったりするわけがないだろうと。それなのに。


 アルベールはいつも通り柔らかい表情で微笑みながら、「ああ、ちゃんと存在しているようだな」と答えた。




 本当に欲しい答えは、そうじゃないのだけれど。




「この部屋ならば、君も安心してオペラを観劇できるだろう。母には感謝している」




 嬉しそうに言うアルベールに、カミーユは引き攣りそうになる顔を無理矢理笑みの形に変える。「本当に、感謝してもしきれませんわ」と言う声が、少しだけ上擦ってしまった気がした。


 と、支配人が再び扉を叩いて現れ、一人の女性を連れて来た。どうやらオペラハウスの従業員のようで、用聞きのためにシークレットルームの隣の部屋へ待機していてくれるようである。


 今となっては、アルベールの存在にも慣れてきていて。おかしなことをするような人ではないと、共に過ごして分かっていたけれど。

 それでも、男性である彼と二人にきりになるのは少しだけ怖かったので、カミーユにとっては嬉しい配慮だった。


 それにしても、それほど何度もこのオペラハウスを訪れたことがあるわけでもないカミーユであっても、この部屋の価値を知らないはずがない。王家や公爵家、限りない財産を持つ者にしか使えない特別な部屋なのだから。


 この部屋に入るためのチケットの値段など、普段から金銭を使うことに慣れていないカミーユには、恐ろしくて聞くことも出来なかった。




「……本当に、どうすればお礼になるのかしら……」




 ぼそりと、思わず口から零れる。当初考えていたお礼などでは、とても恩を返せそうになかった。そもそも、通常の席のチケットであっても、どうすれば良いかと悩んでいたというのに。


 途方に暮れたような声音に、アルベールは思わずというような苦笑を漏らす。「そう、気負わなくても良い」と、彼は口を開いた。




「君がそう言うかもしれないと思ったから、あらかじめ聞いてみたのだが。……母からの伝言だ。もしどうしても気になるのならば、週末にベルクール公爵邸で開く予定のティーパーティに来てくれ、とのことだ。母の友人や、ブラン家と縁の女性たちにしか呼んでいないようだから、安心して良い」




 部屋の中に設置してある、カミーユに観劇用の一人掛けのソファを薦めながら、彼はそう続ける。

 そんな彼に礼を言って、ソファに腰掛けた後、「ベルクール公爵夫人主催のティーパーティですか」とカミーユは呟いた。


 ベルクール公爵家と、カミーユの属しているエルヴィユ子爵家は、同じ騎士団を持つ家門同士、最低限の交流はあった。本当に、最低限の交流である。

 そもそもが公爵家と子爵家という身分の違いがあるため、それほど親しく言葉を交わす機会もないのが現実なのだ。


 そのため、ベルクール公爵夫人が親しい方のみを集めたティーパーティを開くと言っても、その中にカミーユの知り合いはまずいないだろう。公爵夫人の友人といえば、真っ先に名が挙がるのが現国王の母であり、前王妃だったりするのだから。




 他にも、私がご一緒しているのを見たことがあるのは、侯爵夫人や伯爵夫人が主だもの……。たかが子爵家の娘が、そんなところに行って良いのかしら……。




 女性のみ、というのはとても嬉しい条件だけれど、とそこまで思い、ふるりと頭を振る。チケットを譲る代わりに招待されたのならば、不安であろうと、場違いであろうと、行くしかないのである。


 むしろ、本当にそんなことで良いのだろうかとも思うが、少なくとも行かないという選択肢だけは存在しなかった。


 ぐっと両手を握って、失礼ならないようにしなければと、気合を入れるカミーユに、隣のソファに座ったアルベールがくすくすと笑う。「そう、覚悟を決めた顔をしなくても大丈夫だ」と言いながら。




「誰も、君を取って食おうとは思っていないだろう。それに、当日は私も参加するように言われている。君があまり社交界に出ないと、母も知っているからな。気休めになるかどうかは分からないが、傍にいるつもりだから、安心して欲しい」




 そう言って、アルベールはいつも通り優しく微笑んでくれて。心細く思う気持ちが、少しだけほぐれたような気がして、カミーユもまた微笑み返した。「気休めどころか、とても心強いですわ」と呟きながら。




「お心遣い、ありがとうございます。ぜひ参加させてくださいと、公爵夫人にお伝えくださいませ」




 言えば、アルベールはまたいつかのように一瞬だけ動きを止めて、呻くような声を発した後、何事もなかったように「ああ、伝えておこう」と言って笑った。




「ああ、そろそろ開演の時間のようだ。この場を譲ってくれた母のためにも、楽しんでくれると嬉しい」




 そう言ってこちらを見るアルベールの姿を最後に、周辺の灯りが一気に小さくなり、オペラハウス全体が薄暗くなる。静まり返った空間の先、そこだけ明々と照らされた壇上に、主役であろう一人の美しい女性が現れて。

 カミーユの意識は、一気にそちらへと奪われていった。


 次々に壇上に現れる、登場人物に扮した人々。奏でられる音楽に、耳を震わす歌声。

 優しく、力強く、そして幻想的で。大好きな小説を読み、頭の中で広がっていた世界がそのままこの場に現れたような、そんな舞台であった。


 劇の間に挟まった休憩時間も、カミーユはただぼんやりと壇上を眺める事しか出来なかった。耳や目、頭に残る余韻に浸っている内に、気付けば第二幕へと移り変わっていく。


 そのため、夢見心地に動けずにいる自分を、それはそれは愛おしそうに見つめる視線にも、気付くことはなかった。


 物語も終盤へと差し掛かり、終幕に向けて緊張を強いられる場面と曲調に、カミーユは身を乗り出すようにして壇上を見守った。


 長い旅の末、最後の敵であるドラゴンを倒し、しかし愛する少女がいないと絶望する青年の姿。嘆き悲しむ姿に胸がいたみ、しかし次の瞬間、彼を包み込むようにして咲いていた薔薇の花が、愛しい少女へと姿を変えていって。


 二人の再会のシーンは何とも感動的で、カミーユは知らずその目に涙を溜めて、再び出会えた彼らの幸せを自分の事のように喜んでいた。何度も読み返した小説で、その内容をすでに知っていたにもかかわらず。

 本当に素敵だと、そう思ったから。




「……本当に、ベルクール公爵夫人には、感謝してもしきれないわ……」




 こんなに素敵な舞台を、こんなに素敵な席で見ることが出来るなんて。

 徐々に会場に灯りが戻り、響き渡る拍手の音に自分の声さえも聞こえなくなる中で、カミーユは小さく呟いた。


 ティーパーティには、例え体調を崩したとしても、絶対に出席しようと、そう決意を新たにしながら。


 それからしばらくは拍手の音が鳴り止まず、人々が家路へと着くざわめきへと変わっていったのは、思った以上に時間が経った後だった。


 興奮冷めやらぬ様子で言葉を交わしながら去って行く人々の気配を感じつつ、カミーユもまた、名残惜しくその舞台を眺める。まるで夢のようだったと、本当にそう思った。それほどに、素敵な舞台であった。




「……喜んでもらえたようだな」




 ふと、隣から聞こえた声に、はっとしてそちらを振り返る。アルベールは相変わらず優しく、そしてどこか楽しそうに微笑んでいた。


 それに対して、カミーユはただただ何度も首を縦に振る。この素晴らしい舞台には、どんな気取った感想も相応しくない気がして。「本当に、本当に素晴らしい舞台でした」と、情けないことに、子供のようなことを口にすることしか出来なかった。


 けれど、アルベールはそれで満足したようで。「君が楽しかったのならば、良かった」と言って頷いた。




「君の侍女を乗せた私の馬車は、もう着いているかもしれないが……。観客たちが皆、帰宅してから、私たちも帰ろう。せっかくだから、もう少し余韻に浸ると良い。私は飲み物でも買ってくるから」




 そう言って、アルベールは立ち上がる。そしてそのまま踵を返そうとする彼に驚き、カミーユは目を瞠った。このような素晴らしい舞台に連れて来てもらった上に、使い走りのようなことをさせるわけにはいかない。


 思い、「私も一緒に……」と言えば、彼は困ったように笑った。「いや、その必要はない」と、やんわりと断りの言葉を口にしながら。




「裏口の外にいる、私の部下に頼むつもりだから。従業員の彼女に頼んでも良いが、彼女を部屋から出して、私と二人きりになるのも不安だろう。閉幕した今ならば、部下たちも客ではないからと追い返されはしまい。支配人に話をして、すぐに戻る」




 言うが早いか、アルベールは足早に部屋を出て行った。もちろん、隣の部屋に待機していたオペラハウスの従業員の女性に、「私が戻って来るまで、誰も立ち入らせないように」と告げて。


 さすがにこのシークレットルームにまで入り込もうとするような、常識知らずな人間はいないだろうと思いながら、カミーユはアルベールの言葉に甘えて、先程まで眼下に広がっていた舞台の余韻に浸ることにした。


 今でも、瞼を閉じれば見えてくる気さえする。あの素晴らしい音楽と、演者たちによって作られた、美しい世界。その台詞の一つ一つが、小説のそれと同じだったこともまた、カミーユにとって嬉しい部分であった。


 それから、どれくらい時間が経っただろうか。ぼんやりとしていたカミーユの耳に、「ここを開けてくださらない?」という、聞き慣れない女性の声が聞こえて来た。




「こちらに入られた方の落とし物を拾ったの。高価なものだから、直接お渡ししたくて。顔を見せてくださらないかしら」




 つんと澄ました、それでいて愛らしい女性の声。

 自分に落とし物などないはずだから、アルベールの落とし物だろうかと思うも、彼には部屋に誰も入れるなと言われているから、どうしようかと扉の方を見遣る。


 と、「私が」と言って、従業員の女性が笑みを向けて来た。カミーユの代わりに対応してくれるということだろう。嬉しい申し出に、「ありがとう」と素直に礼を言えば、彼女もまた微笑んで、扉の方へと歩いて行った。


 かちゃりと音を立てて扉を開き、その隙間から身体を部屋の外へと出して、再び部屋の扉が閉まる。

 「使用人の方?」と、先程の客人が言うのが聞こえた。




「わたくしは、この部屋を使っている方に用があるの。そこを退いて」




「こちらのお客様から、部屋の中に誰も入れるなとの言葉を頂いております。落し物は私が責任もってお渡しいたしますので、お引き取りください」




 冷たくはないけれど、決して引く気はないと言った静かな声音。おそらく相手も貴族なのだろうけれど、この国にベルクール公爵家と肩を並べる家格の家門など片手の指程もなく。それでいてもあくまでも肩を並べる程度でしかないわけで。


 その嫡男であるアルベールから受けた言葉に逆らえる者など、王族以外には存在しなかった。

 だからこそ、従業員の女性もまた、こうしてはっきりとした拒絶の意志を見せているのだろう。


 カミーユはそんな彼女の様子にほっとして、再び壇上へと視線を向けようとして。

 「使用人風情が……!」という、吐き出すような声が聞こえた。




「退きなさい。わたくしが用があると言っているでしょう。この者を押さえていて」




「何を……! お、お待ちください……!」




 途端、再び音を立てて扉が開かれる。従業員の女性の必死の声も聞かず、驚きに再度そちらを振り返ったカミーユの目には、貴族らしい華やかなドレスを身に纏った二人の女性と、同じく着飾った貴族の子弟であろう二人の男性の姿が映った。


 四人の中心にいた女性は、興味深そうにシークレットルームの中を眺めていて。その視線がカミーユを捕らえた瞬間、その愛らしい顔に笑みを浮かべた。満面の、しかしどこか黒い物の混じる、笑みを。




「ごきげんよう。アルベール様と一緒に来られたの? 確かお名前は……」




 ふわふわとした長い巻き毛を揺らしながら、「何だったかしら」と、彼女は左右に控える他の三人へと顔を向ける。カミーユの耳に届くほどの声量ではっきりと彼女が言えば、他の三人もまた、カミーユの方を見ながらくすくすと笑った。「あまり有名でもない家門だから、仕方ありませんよ」と、男性の一人が言った。




「確か、エルヴィユ子爵家のご令嬢だったかと。名前までは僕も把握していなくて。申し訳ないです、バルテ伯爵令嬢」




 くすくすと、あからさまにこちらを卑下するような視線と共にかけられる声。おそらく、皆伯爵家以上の家門の子女なのだろう。こちらを見下したような態度に怒りを覚えるが、静かにそれを胸の内で沈める。反発すれば、おそらく彼女たちの思うつぼだろうから。


 案の定、バルテ伯爵令嬢と呼ばれた女性は、カミーユの名を伝えた男性に「気にしないで、セーデン伯爵令息」と応えた。




「それだけ分かれば十分ですわ。……初めまして、エルヴィユ子爵令嬢。わたくし、ドリアーヌ・ムーシェと申しますの。バルテ伯爵家の娘ですわ」




 微笑み、そう告げてくるドリアーヌに、カミーユは戸惑うも、立ち上がってソファの横へと進み出、礼の形を取る。「初めまして、バルテ伯爵令嬢。私はカミーユ・カルリエと申します」と、カミーユもまた静かに応えた。




「落とし物を拾って頂いたとのことですが、私には身に覚えがなくて。よろしければ拝見させて頂いても構いませんか?」




 アルベールに誰も部屋に入れるなと言われていた手前、長々と言葉を交わすわけにもいかず。そして部屋の外で取り押さえられているであろう女性のことも気になる。


 カミーユは出来るだけ早く帰ってもらおうと、そう問いかけた。アルベールの落とし物であったならば、待ってもらうしかないだろうかと少しだけ憂鬱に思いながら。


 彼女はカミーユの言葉に数度瞬いた後、「ああ、エルヴィユ子爵令嬢の持ち物ではありませんわ」と言って、再び微笑んで見せた。




「落とし物は、アルベール様の物ですの。この間、夜会でご一緒させて頂いた際に拾ったのですが、お渡しするのを忘れていて。またご一緒しましょうって伝えていたので、急ぐ必要はなかったのですけど、今日は偶然この場にいらっしゃると聞いて、足を運んだのです。わたくしも彼にお会いしたかったもの」




 「きっとアルベール様も、同じ気持ちでいてくださったはずですわ」と言う彼女は、どこか得意げな表情でカミーユを見ていた。まるで睨みつけるような視線で。


 当たり前のようにアルベールを名前で呼ぶところを見ると、彼女はアルベールと随分親しい間柄なのだろう。一緒に夜会に参加していたのなら、なおのこと。

 それならば、自分の一存で追い返すのは良くないかもしれない。バルテ伯爵令嬢のいう通り、アルベールもまた、彼女に会いたいかもしれないから。


 そんなことを考えていると、ふと胸に何かがつかえるような感覚があり、知らず胸元を手で押さえる。何か分からない、不快なその感覚に戸惑っていたカミーユは、自分の傍に歩み寄る人影に気付いていなかった。




「へえ、あの英雄閣下が選んだ方だというから興味があったんだが。……何とも神秘的な瞳をお持ちだな。まるで魅入られるような」




「…………っ!?」




 いつの間にかすぐ傍までやって来ていた、セーデン伯爵令息と呼ばれていた青年は、まじまじとカミーユの顔を覗き込みながら呟く。おそらく、彼に他意はなかったのだろうけれど。


 すぐ近くから聞こえた低い声。好奇の視線。不躾な態度。

 一瞬にして、思い出したくもない過去の記憶が呼び起こされて。


 ざっと、一気に全身の血の気が引いた。




 怖い、怖い、やめて、来ないで……。




 自らの身体を抱くようにして、カミーユの全身が震え出す。

 怖くて怖くて、仕方がなかった。




「お、おい。大丈夫か?」




「急にどうされましたの?」




 数歩、知らずの内に後退れば、明らかにカミーユの様子が異常なことに気付いたのだろう、セーデン伯爵令息とバルテ伯爵令嬢が慌てたように声をかけてくる。加えて、セーデン伯爵令息は、再び足を一歩踏み出そうとして。


 「貴様ら、何をしている」という、鋭く低い声が、室内に響き渡った。

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