第五話
テルテル坊主効果が切れたのだろうか? 空はどんどん雨雲で覆われていった。けれど、まだ雨は降らない。それでも帰る途中で降ったら大変だ。自然と足が速く進む。
赤信号だ。二人は横断歩道の前で立ち止まって信号が変わるのを待つ。
「帰ったらすぐにご飯作りますね」
「あ、そうだ……一緒に作ろうよ。そのほうが楽しいでしょ?」
「でも、悪いですよ。私だけで大丈夫ですよ」
「自炊はしてたんだ。手伝うことはできるよ?」
想像してみる……台所に二人で立つ姿。それだけで、楽しくなってきた。
「お願いします。楽しみです!」
「うん。一緒にやろう」
信号が変わった。車道の信号が黄色に変わり、赤になる。そして、二人が待っていた歩道の信号と、それに平行な車道の信号が青になる。
男と少女は歩き出した。手はもちろん繋いだまま。
そのとき男の耳が捉えたのは、横からのタイヤが擦れる音。振り向いたときは……、
「危ない!」
男は握る少女の腕を強く引いて歩道へ引き戻す。少女は歩道に投げ出され、握った手が離れた。
しかし、少女が歩道に引き戻された代わりに男の体が車道に取り残された。
男に迫るトラック。
歩道に倒れる少女。
最後に少女が見た男の顔は……少し残念そうに笑っていた。
トラックが横断歩道を過ぎ去った後、流れ出す血。真っ赤に染まった横断歩道の白と黒。変に曲がった手足で地面に倒れ、それでも少女に向けて精一杯に笑う男。
……おかしいな。こんなの嘘。夢……嘘に決まっている。
周囲の人々の足音も車の音も救急車のサイレンの音もどこか遠いものになっている。それでも流れる血と男の精一杯の笑顔は、どこか現実味を帯びていた。
つんっと鼻を刺す血の臭いに
少し先で止まったトラックのフロントは真っ赤に染まり、へこんでいる。点滅し始めた信号の根元は砂と混じった黒い赤色。
どこからやって来た桃の花びらが、真っ赤に染って、雨に流れた。
こんなの……嘘だよね? 君がそこにいるはずないもんね?
地面に倒れる男からはだんだんと笑みが崩れる。
そして、男の目から光が消えた。
男は動かなくなり、真っ赤に染まった横断歩道の前で少女は一人。幸せな気持ちはどこか遠くへ、気持ち悪い鉄の臭いの中に……一人。
◇◆◇◆◇◆
花は散り、緑の葉が生い茂る。
小さな家の中で少女は一人。手入れの行き届いた、ホコリ一つない家で、少女は一人。
二人掛けのソファー。ピアノと、持ち主を失ったバイオリン。庭には枝しかない桃の木。
いつか……いつか、彼は帰ってくるはず。そう思って掃除は毎日してるし、「お帰りなさい」って言う準備もできている。だけど、声も姿もない。彼の部屋を覗いてみても、何も変わっていない。
見るもの全てが色褪せている。大好きだったピアノも、弾く気になれない。何もできず、何も進まない。時間だけがゆっくりと過ぎていく。
いつか時間が心を癒してくれる……そう思ったが、彼女の心には彼の笑顔が離れない。一緒に料理をするという約束も、もう果たすことはできない。日が傾いてオレンジ色の光が照らしても、ピアノの前に座る気も起きない。
彼女はピアノの隣に置かれたバイオリンのケースを開き、持ち主を失った楽器を指先で撫でる。冷たさが指に伝わり、涙が出た。
二度と使われることのないバイオリン。楽しかった日は遠い昔……もう、無い。
同じようにピアノを撫でてはいたが、とても弾く気にはなれなかった。
ソファーに座って、クッションを抱え込んで顔をうずめる。
後から後から涙が出ては、クッションに吸い込まれていく。
外では静かに雨が降っている。あの日の夕方と同じような、静かな雨。
いや……聞きたくない。そんな音……聞きたくない。
雨が、あの日の彼の残念そうに笑った顔をかすめる。
……思い出したくない。
少女の目に映る世界は、とてもさびしく、苦しく、つらいものだった。
この世界には彼はいない。
思いたくない。認めたくない。
いつか、バイオリンを弾きながら「楽しいね」って笑う彼がいるはずなんだ。
そう思って待っていても何も変わらない。何も進まない。何も起こらないこの世界。
流れる時間は彼女の心を癒すどころか、だんだんと削っていった。
お願い、時間を止めて。
そうすれば苦しくなくなるかな?
けれど時間はそれでも流れていく。散々流した涙は枯れる。もう……疲れた。
精一杯にやっていたはずなのに……違ったのかな? どこかで神様が奪ったのだろうか? 私がどこかで間違えたのだろうか? 何で……いなくなったんだろう……。
考えても考えても、答えは出ない。
流れて溜まる、悲しい湖に体は沈んでいくだけ。そこから出る方法なんて思いつかない。私はただ……沈んでいくだけ。
君がいた世界はもっと優しいはずなの。
世界がこんなにもつらいなんて……あるはずがないの。
外の雨はいつの間にか土砂降りになっていた。いつまでも降り続けるようで、晴れないまま。
いつか……全部雨に流されるかな? 楽になれるのかな?
そうだ。忘れてしまえばいいんだ。全部、思い出も、彼のことも、私の想いも……全部。
いっそ、嫌いになってしまえば楽になるかな?
嫌い…………きらい…………キライ…………。
…………きらい。
きら……い……。
いつの間にか、また目に涙が溜まっていた。
無理だよ、できないよ……キライになんて、なれない。
どう思っても頭の中ではあの人が笑っていて、そこに引き寄せられる自分がいる。
忘れられない自分がいる。
君のいない世界はこんなにも、こんなにもつらいよ。苦しいよ。切ないよ。
お願いだよ。時間を戻して。
あの事故前まで、お花見に行くときまで、私があなたに出会うときまで……いや、出会う前まで……。
そしたら、あなたがいない世界はなくなるかな? こんなにも苦しまずにすむかな? こんなにも……あなたを想うことも、なくなるかな?
どれだけ彼女が願っても雨は嘲笑うかのように降り続けるし、時は止まることなく流れ続ける。
こんなに想っても、悲しんでも、願っても、何もおきない。
誰か……嘘だって、言ってくれないかな? こんな世界は全部嘘。夢なんだよって。
目が覚めたら私の頬をつまみながらあの人が笑っているんだよって、言ってくれないかな? たった一言でいいから、「嘘だよ」って。
認めたくないよ、君のいない世界なんて。
君のいない世界なんて……未来なんて……私なんて……いらない。
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