第四話

 彼女のテルテル坊主大量生産のおかげか、雨は降らずにどこかへ流れていった。風も強く吹いていないし、お日様が暖かい光を送ってくれている。

 さわさわと優しい風が桃の花を揺らし、緩やかに流れる透明な川に桃の花びらが浮かんでいる。

 昨日はどうなるかと思ったが、さすがは床一面のテルテル坊主、侮れない。


 川原に沿って咲く桃の花。そのうちの一本の桃の木の下。男と少女がビニールシートを広げて木に背中を預けてお花見をしていた。暖かくなった風に花が揺れ、二人は木の枝の影で手を繋いで足を伸ばして座っている。


「きれいですねー……」

「そうだね……気持ちがいい……」


 繋いだ手からは互いの体温が伝わってくる。少女は男の手を握る左手に少しだけ力を入れる。ずっと傍にいる幸せが逃げてしまわないように。

 あいている右手でシートに載った花びらをつまんでみる。桜の花びらの先端が割れているのに対して、桃の花びらの先は尖っている。ふっと吹くと、花びらはひらひら待って、水面みなもに浮かんだ。


 とても気持ちのいい、お花見日和だ。


 気持ちのいい風と鼻の奥をくすぐる微かな桃の花の香り、繋いだ手から伝わる好きな人の体温。


「お弁当食べようか?」

「そうですね。そろそろおなかも減ってきましたね」


 彼女は座りなおして横に置いてあったバスケットを前に置き、ふたを開けた。中には二人分のサンドイッチが入っていた。レタスサンド、タマゴサンド、ハムサンド。


「じゃあ、いただきます」

「どうぞー」


 男が手を伸ばしたのはレタスサンド。レタスをたっぷりはさんだサンドイッチは塩やこしょう、マヨネーズで味付けされている。

 一口、そして二口目と、ザクッとレタスの音と一緒にレタスサンドをあっという間に食べた。


「どうしたの?」

「あ、いえ……どうかなって思っただけです……」

「もちろんおいしいよ。料理上手だよねー」


 少女の顔がぱっと明るくなる。サンドイッチを作るのは初めてで、うまくできたか不安だったのだ。

 けれど、男は桃の花を見ながらおいしいと言ってくれる。少女もサンドイッチに手を伸ばし、タマゴサンドを一口……うん、おいしくできてる。


 二人はゆっくりとサンドイッチを食べて、再びのんびりお花見。食べ終わると、少女はうとうと……眠くなってきた。

 まぶたは重くなり、春風と桃の香りが眠気を誘う。


 少女は頭を男の肩に預けて眠ってしまった。その間も左手はぎゅっと握ったまま。


◇◆◇◆◇◆


 誰かが呼んでいる…………うん? ちょっと肌寒いかな?


「おーい。もうそろそろ帰るよー」

「う……ん? どうしましたぁ……」

「かーえーるーよー」

「…………はっ!?」


 頬をつねられたところでようやく少女は目を覚ます。西の空がオレンジ色に輝いていて、少し肌寒い。

 夕日が水面に反射してきらきら輝いている。少女は飛び起きて目に飛び込んだオレンジ色の光に顔をしかめた。


「あ、あ……すいません! せっかくのお花見なのにずっと寝てしまって……ごめんなさい!」

「いいよ。僕も一緒に寝ちゃったし、今起きたところなんだ」

「でも、ずっと肩に寄りかかってましたし……」

「お互い様だよ」


 言いながら男はビニールシートをたたんで帰る準備を始める。男も少女に寄りかかっていたのだが、詳しく言うことはなかった。

 少女もバスケットをビニールシートの上からどけてシートをたたむお手伝い。横顔にほんのり赤みがかかっていたのは、夕日だけのせいじゃないだろう。


 歩いて川原まで来たので、帰りも歩かなければならない。車は持っていないし、自転車は一つしかない。二人乗りは危ないという男の判断だ。


「では、暗くならないうちに帰りましょうか?」


 軽くなったバスケットをもって、彼女は歩き出した。

 今日は充実した一日だった。お花見で毎夕の演奏会は無しになったが、それを帳消しにするくらいの楽しい日だった。


「ちょっとまって」


 すると男が帰ろうとする少女を呼び止めた。ビニールシートの入った手提げ袋を地面に下ろして、まっすぐ少女を見ている。


「大事な話……」


 「どうしたのですか?」と少女が言う前に、男は上着のポケットから小さな箱を取り出した。小さな深い青色の箱を開けて、男は静かに言った。


「僕は……君が好きだ。結婚してほしい」


 プロポーズと婚約指輪。


 突然のことだった。少女には男が何を言ったのかをすぐには理解できなかった。

 けれど、だんだんと男の言葉を拾って……うれしくなり、同時に申し訳なくも思った。


 だって……天使だって、嘘ついてたから……。


 うれしかった。このまま頷いて永遠を誓いたいとも思った。けれど……頷けない。首を縦にふれない。

 自分の正体を言わなければならない。明かすことで拒絶されるかもしれない……そう思って今までずっと言えなかった。けれど、もう隠せない。


「君が天使でもいい。僕は君と……ずっと一緒にいたい」

「え……?」

「気付いてたよ。天使だって……」


 気付いてた……ばれてたんだ。


「君が天使なんて小さなことだよ。それでもいい……」


 男はいつもの優しい笑顔でそう言った。少女の好きな柔らかい笑顔で……。

 いつの間にか、少女の頬は濡れていた。視界がぼやけてまっすぐ彼を見れない。止めようと思っても後から後から涙が出てくる。オレンジ色の光が涙に反射している。

 ぐっと涙をぬぐって、精一杯の笑顔で答える。


「私も大好きです。ずっと一緒に居たいです」


 涙が出るのは、うれしさで胸がいっぱいだからこぼれ出ちゃうんだ。

 少女は男に指輪をはめてもらった。目にたまった涙のせいで指輪がぼやけちゃう。


「あの……私からも一つだけお願い……いいですか?」


 一つだけ……一つだけ、私も……。


「うん? いいよ、な……!」


 に、とはいえなかった。言う前に、男の口は少女に塞がれていたから。

 男は最初は目を丸くしたが、事の事態を飲み込んだら、少女の体にそっと腕を回して抱きしめた。

 ……どれくらいそうしていただろう? 二人は顔を互いに真っ赤にさせながら体を離した。


「さ、さあ。帰りましょう! 早くしないと暗くなります! 雨も降りそうですよ、急ぎましょう!」


 少女は頬を赤くしたまま歩き出した。男も微笑んだまま少女の隣を歩く。

 右手で少女の左手を握って歩く。少女も握られた手を握り返す。


 オレンジ色の光に照らされて、手を繋いだ二つの影は家に向かって歩いていく。いつの間にか、雨が降りそうな灰色の空になっていた。

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