二章


 罗雨京は、心が乱れそうになるのを小さな手を握り締め堪えた。


 きっと天が味方したのだ──これは仇かもしれない阎纪を殺す、またとない機会がやってきたということ。この機会を逃すわけにはいかない。

 阎纪を見極めて、彼の下で力をつけて、殺す。


 阎纪は黙り込んだ罗雨京を見て目を細めると、袖を翻し立ち上がった。


「今日はもう休め。数日後から修練すれば良い」

「は、い。師父、ありがとうございます」


 拱手をして首を垂れると、阎纪は何も言わずに部屋から立ち去り、残されたのは蔡叶と罗雨京の二人だけになる。

 蔡叶は朗らかに笑みを浮かべて、お腹は減った? と首を傾げた。すると返事をする様にぐぅ~と腹が鳴り、罗雨京は瞬時に顔を赤くする。

 蔡叶はくすくすと笑い、扉へ向かった。


「少しは元気になったみたいで良かった。僕はご飯持ってくるね」

「師兄、ありがとうございます」


 罗雨京は蔡叶を見送り、再び横になると丸くなった。


 自分は恵まれていたのだ。

 空腹になれば何かを言う前に祁兰が持ってきてくれていたし、高城でぶつかった男の様に悪意をぶつけられることもなかった。

 全てに甘えていた……だがこれから先、誰かに甘えることは許されない。復讐を誓うというのはそういうことだ。 


 父上、母上、祁兰……罗雨京の瞳からぽろっと溢れた雫が敷布を濡らして、小さく嗚咽する。


 微かに廊下へ漏れ聞こえる泣き声は、扉へ寄り掛かる男の耳にも届いていた。

 蠱惑的な瞳が影を帯びて瞬き、物憂げな仄暗さを纏う。


「あれ、師……」


 粥を運んで来た蔡叶が男──阎纪の存在に気づくと、声を上げかけたがシッと指を口元に立てられて、慌てて口をつぐんだ。


「あれは私のことが好きではない。お前がよく見てやれ」


「あ、はい。それは……でも好きじゃないなんてそんなことわからな──」

「私が間違えることはない。お前もよく知っているだろう」


 蔡叶は返答に困ってしまう。

 師父の言うことが間違っていたことなどなく、彼が黒だと言えば黒で、白だと言えば本当に白なのだ。


「…師父が凄い方なのはわかっていますよ」

「あいつは放っておくと生き急ぐ性根だ。折角拾った命を無駄にされてはかなわない」

「わかりました。師父はどうなさるのですか?」


 阎纪は横目で蔡叶を見て、それから手元に目線を移す。


「……粥が冷める」

「えっ、あっそうだった。師父、失礼します」


 扉を開けて部屋の中へ入っていく蔡叶に、阎纪は小さく息を吐いて彼も闇へと消えて行った。




・・・




 阎纪に拾われて数日後、罗雨京は修練ができる程回復していた。蔡叶が作る粥は、身体の回復を促す薬膳の役割も兼ねていたのだ。


「師兄、ありがとうございます。お陰で回復することができました」

「ううん、元気になって安心したよ」


 人好きのする笑みを浮かべた蔡叶に、罗雨京も釣られて小さく笑う。

 彼とはまだ数日の付き合いだったが、それだけでも蔡叶という少年は心根が優しく、朗らかなことは明白だった。


 今では阿京アージンとまで呼ばれ罗雨京も、師兄、と呼び親しみを持っている。


「今日から修練するの?」

「はい。ただ俺は以前違う門派の弟子だったので、どのようにすれば良いのか……」

「ああ、そうそう。師父が阿京のこと呼んでたって言いに来たの。もしかしたら、そのことかもね。」

「師父が?」


 蔡叶に礼を言って、罗雨京は母屋へ向かった。


 あの日以来、阎纪とは会っていない。

 きっと拾ったはいいものの、俺に興味がないのだろう。阎纪というあの男は、流れている雲の様に掴みどころがなかった。


 罗雨京は溜め息をついて、母屋の一際広い部屋の扉を叩く。


「師父、罗雨京です」

「入れ」


 少しだけ緊張しながら重厚な扉を開けると、脚を組んで椅子に座る阎纪が目に入った。

 彼はしどけない姿で、起きてから時が経っていないのかいつもはキツく結われている髪が下ろされたままだ。

 阎纪が身じろぎすると、艶やかな濡羽色がはらりと落ちる。


「罗雨京、修練にはこれを使え」


 流れる黒髪に目を奪われていた為、突然無造作に投げられた書物を慌てて受け取り目に通した時、罗雨京の声は無意識の内に震えた。


「なぜ……師父がこれを……」


『在光上』

 書物にはこう示されている。これは紛れもなく、在光上の門弟が修練に使うものだ。

 罗雨京は息が止まってしまったかのように苦しくなり、頭の中が滅茶苦茶になる。


 なぜこの男が持っている…?! あの日、あの時、人だけでなく書物全てが焼かれた筈だ!

 否、答えは簡単で、阎纪が在光上を滅したから彼の手元にある。そういうことだ。

 阎纪、阎纪が……


「それは写しだ。原本ではない」

「う、つし…?」


 見透かした様な阎纪の言葉に、罗雨京は狼狽した。


「三百年も生きていれば、どんな門派の修練書でも手に入れることは難しくない」


 三百年…?!

 罗雨京は呆気に取られて、ひゅっと息を呑む。

 修真者も修練を重ねれば寿命を伸ばすことは可能だが、そんなに長く生きているのではあればこの男の強さがどれ程のものか想像に容易い。


「私が知らないことはない」


 その言葉はまさに傲慢不遜で、罗雨京は顔を顰める。


「だがお前に教えられることは何もない」

「それは…俺が使えないということでしょうか」

「違う。お前は……いや、もう行け」


 阎纪は言うだけ言うと興味がなくなった様に椅子から立ち上がり、さっさと居なくなってしまう。


 罗雨京は渡された書物を握り締め、眉を寄せた。


 本当に、わからない。阎纪という男は一体何を考えている…?

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不要逞正义 蠍汁 @sasoriji_ru

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