第十一章 最終決着

「問題は逮捕のタイミングです」

 日付が変わって一月二十三日月曜日午前一時。捜査本部で刑事たちが激論を戦わせていた。

「奴ほどの犯罪者であるなら、おとなしく逮捕される可能性はあまり高くないと見積もった方がいい。従って、周囲に被害が出る状況での逮捕は致命的です。これ以上の犠牲を出すわけにはいかない」

「なら、空港での逮捕は避けるべきだな。周囲に人が山ほどいるし、入国審査官という事は一般人に比べて搭乗口ゲートへ行く事が容易だという事に他ならない。万が一飛行機を乗っ取られでもしたら取り返しがつかない事になってしまう」

 斎藤の助言に、橋本が渋面を作って答える。

「では、自宅で?」

「いや、自宅には奴の家族がいる。家族を人質に立てこもられたら、話がややこしくなる」

「そこまでするでしょうか?」

「最悪の事態まで想定するのが警察の仕事だ。それに、実際の所これだけの事件を起こした奴ならやりかねない」

 橋本はあくまで慎重だった。

「という事は、狙うべきは出勤時、もしくは帰宅時の途中という事になりますね」

「そうなるんだが、問題は奴の通勤手段だ。どうなっている?」

 これに対しては土井が答えた。

「奴は通勤に自家用車を使っています。もちろん、問題の黒の乗用車ではありませんが……」

「となると、その車が止まった瞬間に一気呵成に逮捕するしかないな。タイミングを計る必要があるぞ。確保に失敗すればそのまま逃走してしまう可能性さえある」

 橋本の目が厳しくなった。

「しかも奴は法務省職員で検察への出向歴もある。こちらの手口は読みつくしていると考えるべきだ。我々が先手を取れるのは、奴がまだ自分が容疑者になっている事を知らない今だけだ。勝負は一回きりだぞ」

 橋本の言葉に、刑事たちの緊張度も増す。

「土井警部、奴の自宅から成田空港までの通勤経路は?」

「これです」

 土井が成田市内の地図を広げる。橋本はしばらくそれを見ていたが、不意に隅で控えていた榊原に視線を送った。

「お前も何か策を出せ」

「私の仕事は事件の真相を暴くところまで。この先は警察の仕事のはずだが?」

「固い事を言うな。現場に出ろとまでは言っていないんだ。アドバイザーなら最後まで頭脳を貸せ。かつての警視庁捜査一課のブレーンとしての能力を見せつけろ」

 榊原は小さく肩をすくめると、地図に近づいてざっとその内容を見やった。

「……この通勤路に信号はいくつありますか?」

「五つです」

 中司が即答した。

「いくら相手が凶悪犯とはいえ、これまでの傾向から考えれば銃器を所持している可能性は低い。せいぜい刃物がいいところでしょう。つまり、注意すべきは刃物と自動車、この二つだけです。奴を車の中にとどめた上で、その車を使用不可能にしてしまえば、周囲への危険は最小限に収まるはず」

「でも、どうやって?」

 榊原は黙って一つの信号機を指さす。自宅から三つ目……ちょうど自宅と成田空港の中間に位置し、なおかつ五つの中では一番規模の小さい交差点だ。

「この信号機で勝負を仕掛けるのがいいでしょう。交通量も少ないし、自宅と空港からも適度に離れています。奴が来るのを見計らって意図的に信号を赤にし、停車した瞬間に車の周囲を包囲、逮捕という手順です」

「もし奴が車で逃亡を図ったら?」

「あらかじめ後ろに新庄警部補をつけさせておき、逃亡の様子を見せた瞬間、後部のタイヤ二つを拳銃で撃ち抜く」

 その言葉に全員ギョッとしたような表情を浮かべる。

「それは……」

「私はアドバイスを出せと言われたから出したまで。やるかどうかはそちらの判断です。もっとも、オリンピックの射的に出場経験がある警視庁一の射撃の名手の新庄警部補なら、外す事はまずないでしょうが」

「ち、ちなみに第二案は?」

 恐る恐る聞いた別の若手の刑事を榊原はじろりと睨み、感情を交えない声で告げる。

「第二案だの甘い事を言っていられる状況ではないんですが……その場合は奴のカーチェイスに付き合うしかないでしょうね。もっとも、そうなってしまったらさすがの私にもその先どうなるかは予測できませんが」

 その若手の刑事が妙な音を立てて息を飲む。ようやく今からやろうとしている事が自分の思っているほど甘い話でない事を自覚したようだった。同時に、この榊原という元刑事や、その話を平然とした表情で聞いている橋本といった面々が、こうした修羅場に慣れている事も。

「一番いいのは奴がおとなしく投降する事ですが……相手は狂気に満ちてはいるが馬鹿ではありません。こちらも念入りに準備した方がいいでしょう」

「よし……みんな、覚悟はいいな?」

 橋本の言葉に、誰もが静かに頷いたのだった。


 夜が明ける。いつものように朝日が昇り、成田の街を明るく照らす。

 二〇〇六年一月二十三日早朝七時。張り込みをしていた新庄、竹村のコンビから捜査本部に連絡が入った。

『奴が自宅を出ました』

「わかった。尾行を続行。気づかれるなよ」

 捜査本部で橋本が応答する。刑事たちはほぼ全員が逮捕のために捜査本部を離れており、ここにいるのは橋本ら上層部と、アドバイザーという名のブレーン役である榊原ら数名である。

「いよいよだな」

「あぁ……」

 榊原の言葉に、橋本が緊張した様子で頷く。全体指揮は橋本が行い、榊原はサポート。県警本部長や刑事部長は真剣な面持ちでそれを見守っている。

「問題の信号までは自宅から車で十五分程度。信号の方は?」

「万事手はず通りだ。奴の車が到着次第赤になるようになっている。交差点付近には刑事も配置してある」

「なら……後は神に祈るまでだ」

 榊原は厳しい表情でそう言った。


 成田市内、幸山町九丁目交差点。それが作戦の行われる交差点の名称だった。住宅街の真ん中にある小さな交差点で、角にはコンビニや倉庫、タクシー会社の営業所などがある。

 そのタクシーの営業所に、タクシーに偽装した何台もの覆面パトカーが控えていた。中には土井や中司と言った千葉県警の刑事たちが控え、標的が交差点にやってくるのを待ち構えている。斎藤率いる警視庁の面々は路上に待機していて、標的がやってきた瞬間に覆面パトカーで車の進路をふさぐ段取りになっている。

『こちら新庄、現在目標を追尾中。標的は白の乗用車。ナンバーは×××。目標地点到達まであと五分』

「了解」

 全員の表情が緊張する。待機する全員がスーツの下に防刃チョッキを着用し、拳銃携帯命令も出ている。厳戒態勢の中での待機だった。

「あと五分……それですべての決着がつくのか」

「つけばいいんだがな。つかなかったら後は悲惨だ」

「万が一カーチェイスにでもなったら?」

「その時は警視庁のコンビが取り押さえる事になっている。新庄警部補の相方の竹村警部補だが、かつては警視庁の交通課の白バイ隊員出身で、カーチェイスには自信があるそうだ」

「そうならない事を祈りたいものだ」

「同感だ。さて、そろそろだな」

 二人は交差点に視線を集中する。その時は、刻一刻と確実に近づいていた。


 午前七時十七分、刑事たちが厳戒態勢を敷く中、羽本の運転する乗用車が幸山町九丁目交差点へとその姿を現した。


『今だ、赤に変えろ!』

 無線から指示が響き、それを聞いた担当職員が信号の色を変える。羽本の車はおとなしく交差点の前でブレーキをかけて停車した。

「よし、行くぞ!」

 次の瞬間、営業所や近くに控えていた多数の覆面パトカーが一斉に飛び出し、信号前で停車する羽本の車を隙間なく取り囲んだ。直後、パトカーから刑事たちが飛び出し、緊張した様子で車を取り囲む。土井が代表して車の運転席に近づくと、その窓をノックした。窓が開き、中からスーツ姿の真面目そうな男が顔を出す。

「いきなり何ですか?」

 男……羽本鉄治郎はこの状況にもかかわらず落ち着いた様子で土井に対して応答した。土井は手に汗を握りながらも、表向きは穏やかな様子で羽本に尋ねる。

「失礼、羽本鉄治郎さんですか?」

「そうです。あなたは?」

「千葉県警の土井と言います。実はあなたに用がありましてね」

「後にしてくれませんか? 何の話かは知りませんが、任意同行なら仕事が終わってからでも応じますから……」

「そんな甘い話じゃないんですよ」

 そう言うと、傍らの中司が逮捕状を突き付け、土井がそれを読み上げた。

「羽本鉄治郎! 井浦鮎奈、及び高畑伊奈子殺害事件に対し逮捕状が出ている! このまま同行してもらうぞ!」

 その言葉に、この期に及んでも羽本はわずかに眉を上げただけで平坦な声で尋ねた。

「逮捕、ですか? なぜ私が? 私が何をしたというんですか?」

「とぼけるな! 事件現場からお前の血痕が見つかっているんだ! それに、井浦鮎奈殺害現場近くではお前の目撃情報も出ている。貴様がどう言い訳しようが、証拠はしっかりそろっているんだ!」

「証拠、ですか……。正直身に覚えのない話ですね。人違いか何かじゃないんですか?」

 二人の攻防を、誰もが固唾を飲んで聞いている。何かあった時のため、全員が拳銃を握りしめた状態だ。

「とにかく、エンジンを切って車から降りてもらおうか。それとも、降りられないわけが何かあるのか?」

「まぁ、降りろと言うなら降りますが……」

 羽本はそう言ってドアに手をかけ……


 次の瞬間、どこに隠し持っていたのか一本のナイフが土井目がけて突き出され、土井の右手の甲から鮮血が迸った。


「あっ!」

 土井が思わず手を引っ込める。と同時に、羽本はアクセルを思いっきり踏み込み、あろうことかそのまま歩道に乗り上げて逃走を図ろうとした。さすがに歩道の上までパトカーのバリケードはない。

「くそっ、待て!」

 中司が反射的に車を追おうとするが、車はタイヤを激しく鳴らしながら今にも歩道を乗り越えて交差点に進入しようとしていた。万事休す、そう中司が思った時だった。


「伏せろ!」

 誰かが叫び、直後二発の銃声と共に、轟音を上げていた羽本の車の後部タイヤが相次いで破裂した。車はそのままバランスを崩し、バリケードを突破して交差点に進入したまでは良かったが、そのまま走り続ける事などできずに信号機の一つに派手に正面からぶつかって停止した。刑事たちが慌てて車の周囲を取り囲む後ろで、煙の出ている拳銃を構えている新庄警部補の姿があった。

「相変わらずの腕だな」

 背後についていた覆面パトカーの運転席で待機していた竹村が口笛を鳴らす。が、その間にも問題の車の運転席からは、頭から血を流しているにもかかわらず表情を全く変えていない羽本が、右手にナイフを持ったまま、まるでこのまま仕事に出かけるような歩調でゆっくりと捜査陣営を見回していた。

「ナイフを捨てろ! 貴様には射殺命令も出ている! もう、このくだらない犯罪は終わりだ!」

 負傷した土井に代わって先頭に立った斎藤が叫んだ。羽本はそれでも一瞬逃げようとするそぶりを見せたが、自分の周囲が完全に武装した刑事たちによって固められているのを見ると一瞬何事か考え、やがて小さく首を振りながら、なぜか軽く微笑んでナイフをその場に捨てた。

「なるほど、これは勝ち目がないようです。無駄な抵抗でした。どうやら私の負けのようです。ご自由にどうぞ」

 まるで世間話をするかのような口調でそんな事を言う羽本に対し、斎藤が再び叫ぶ。

「確保ぉ!」

 次の瞬間、刑事たちが一斉に羽本目がけて殺到し、羽本は地面に押し付けられた。刑事の一人が本部に連絡する。

「至急、至急! 被疑者を確保した! 繰り返す、被疑者を確保した!」

 刑事たちが羽本に罵声を浴びせかけながら彼を強引に立たせる。その手にはしっかりと手錠がはめられていた。だが、こんな状況にもかかわらず羽本の表情に一切の変化はない。ただ生真面目そうな表情のまま、自分に罵声を浴びせかける刑事たちの方を不思議そうに眺めているだけである。それどころか、そんな刑事たちに向けてこんなことまで言い放ったのだった。

「これは私の油断でしたね。こんな事なら、こうなる前にもう一人くらい始末しておくべきでしたか」

 虫も殺さぬような真面目そのものの表情でそんな事を言うこの男に対し、刑事たちは勝利の高揚感よりも、この『怪物』に対する寒気のようなものを感じ取っていたのだった……。


 半年に渡って世間を脅かしていた凶悪連続殺人鬼『シリアルストーカー』の逮捕、そしてその驚くべき正体。その事実が棚橋警察庁長官により公表されるに至って、マスコミはハチの巣を突っついたような大騒ぎになった。

 逮捕された羽本の身柄はいったん最寄りの成田署に入った後、すぐに捜査本部の置かれている千葉県警本部へと移送される事となった。県警前は集まったマスコミでいっぱいだったが、護送車はその間をすり抜け、羽本は無事に県警本部の取り調べ室へと入る事となった。

 取り調べを始めると、羽本は逮捕要因となった井浦鮎奈と高畑伊奈子の殺害に関して認めたばかりか、残る三件の殺害に関してもあっさりと自白した。さらに、五年前の埼玉の事案を持ち出すと、さすがにそれに対しては多少なり驚いた様子を見せながらも、どこか感心した様子で紅城殺害に関しても認めてしまったのである。あまりに素直な態度に、取り調べを担当した中司は思わず尋ねた。

「あれだけ抵抗したくせに、嫌に協力的だな」

「私は敗者です。敗者である以上、最期は潔くするのが筋でしょう」

「敗者って……てめぇ、ゲーム気取りのつもりか!」

 中司が一喝すると、羽本は表情を変える事無く、まるでそれこそ入国審査官の質問に答える旅行者のような態度で答えた。

「そんなつもりはありません。私は正しい事をしただけなんです」

「た、正しい事、だと?」

「えぇ。私も殺したくはなかったんですが、罪を犯した人間を野放しにしておく事はできませんからね。だから、私のやった行為は正しい事なんですよ」

「ふ、ふざけるな!」

 中司が激昂する。同席していた斎藤がそれを押しとどめると、静かな口調で尋ねた。

「……事の発端は五年前、野菊薺が殺害されたあの一件だな?」

 これに対し、羽本は素直に頷いた。

「あの件を探り出してきた事には感服します。あの女……紅城妙子が彼女を殺した。だから私は彼女に復讐した。当然の話でしょう」

「だが、野菊薺を殺したのは室生厚のはずだ。お前がやったのはただの無駄な殺人だ」

 しかし、羽本は首を捻ってこんな事を言う。

「何を言っているんですか? 彼女を殺したのは紅城ですよ。室生厚とかいう男は警察が勘違いして逮捕しただけじゃないですか。私は無能な警察に代わって正義を実行しただけです。褒められる事はあっても非難される言われはありません」

 その言葉に、斎藤と中司は顔を見合わせた。はったりやブラフではない。これは本気で言っている。この男は、真犯人が逮捕されている今もなお、本気で自分が殺した紅城妙子が野菊薺を殺したと信じ込んでしまっているのだ。

 あるいは、五年前に紅城妙子を殺した時点で、この男の心はとっくに壊れていたのかもしれない。真犯人が逮捕されても、あくまで自分が殺した紅城が犯人であると信じる事でしか、自分の殺人行為を正当化できなかったのだろう。なぜなら室生が犯人と認めた瞬間、自分の犯した殺人が何の意味も持たなくなってしまうからだ。

「私は正義を実行しました。野菊薺を殺害したあの女を消す事で、正義を示したつもりなんです。でも、半年ほど前に入国審査をしていたら、消したはずのあの女が目の前に現れたんですよ。よりにもよって、私を挑発するかのように、あの日の服装のままで私の目の前に堂々と。『お前の復讐なんて何の意味もない』と言われた気分でした」

 それが第一の被害者・井浦鮎奈だろう。羽本は事務的に供述を続ける。

「咄嗟にパスポートで住所を確認しました。私はあの女を殺さなければならないと思ったからです。何日間か下見をして、空港に停まっていた車を一台拝借した上で、殺しに行きました。あの女は罪深い存在です。殺したところで何が悪いというのでしょうか?」

「馬鹿野郎! 彼女は何もしていない! お前が勝手な妄想で罪だと判断しただけの善良な女性だ!」

 中司の言葉も、羽本には届かないようだった。

「ですが、あの女を殺して以降も、あの女の亡霊は次々と私の前に現れていったんです。私は正義のためにも、彼女たちを生かしておくわけにはいきませんでした。結局、あの後四人しか始末はできませんでしたが……あなた方が邪魔さえしなければ、私は更なる正義を実現できていたのかもしれないのに、残念です」

「く、狂ってる……」

 もはや、羽本の考えは中司たちには追い付かないところまで行ってしまっていた。ごく普通の真面目な公務員だったはずの羽本をここまで狂気に満ちた怪物に捻じ曲げてしまったもの。その歪みともいうべきものに、刑事たちは押し黙る他なかった。

 ただ一人、斎藤だけはこんな言葉を返す事ができた。

「……詭弁だな。自分の都合の悪い事を正当化して、罪もない女性を殺害するなど、外道以外の何物でもない。お前がやった事は恋人の復讐でも正義でもなんでもない、ただの自分の快楽のための殺人だ。私も色々な犯人を見てきたが……お前ほど同情できない犯人は初めてだ」

 斎藤のその言葉に対し、しかし羽本は小さく肩をすくめただけだったという……。


 同時刻、成田市内にある羽本の自宅では県警による緊急の家宅捜索が実施されていた。こちらには手を負傷した土井を筆頭に、新庄と竹村が参加している。

「土井警部、怪我は大丈夫ですか?」

「心配せずともかすり傷だ。これくらい何ともない」

 土井はそう言って包帯が巻かれた手を振りながら顔をかすかにしかめる。

「それより、どうだ?」

「今、自室を調べていますが、決定的ですね。犯行に使われていたのと同じナイフが何本も引き出しに放り込まれていましたし、それに……」

 新庄はビニール袋に入ったある物を差し出す。それは、被害者から切り取られたと思しき女性の髪だった。

「やっぱり持っていたか」

「えぇ。それに、犯行の際に使用していたと思しきコートもありました。返り血がかなりあるらしくて、ルミノールをかけたら真っ青でした」

「ちなみに、家族は何と?」

 新庄は首を振った。

「全く何も知らなかったようです。遅くなる事があっても、仕事だと思って特に気にしていなかったと。夫が世間で騒がれているシリアルキラーだと知って、精神的にかなりのショックを受けているようですね」

「気の毒に……」

 土井としてはそう言う他なかった。これから先、家族も「殺人鬼の家族」というレッテルを張られる事になってしまうのである。それを考えると、羽本がした事をどうしても許す事は出来なかった。

「それと、他の班からの報告です。問題の黒い盗難車ですが……奴の自供通り成田空港近くの廃工場から見つかったそうです。現在鑑識が調べていますが、トランク部分から八木原美珠の指紋がくっきりと検出できました。これであの車が三件目の戸内由香殺しの際に現場にいた事を証明できそうです」

 と、そこで竹村が二階から顔を出した。

「土井警部、とんでもないものが出てきましたよ」

「どうした?」

「どうやら奴は、すでに次の標的を決めていたようです」

 その言葉に、土井と新庄はギョッとした表情をした。

「確かか?」

「えぇ。引き出しの中に手帳があったんですが、その中に今までの犯行に関する計画がびっしりと書かれていました。被害者の住所や生活習慣、それに実際の犯行を行う際の犯行計画まで。はっきり言って病的ですよ。これだけでも裁判では有力な証拠になるはずです。それで、その最後のページに、次の標的と思われる人物の住所や計画がしっかりと書かれていました」

「つまり……ここで食い止められなかったら、次の犠牲者が出ていたのは間違いないと?」

「そのようですね」

 竹村の言葉に、土井は安堵のため息をついていた。ある意味、この段階で無理をしてでも榊原を捜査に介入させたのが吉と出た形である。

「ちなみに、その次の標的というのは?」

「ええっと、ですねぇ……」

 竹村はその名を読み上げた。


 それから数時間後、千葉県警本部内にある捜査本部では、橋本ら上層部が対応に追われていた。すぐにでも尋問結果を踏まえた上で、橋本らによる記者会見が行われるのだろう。被疑者が逮捕された今、捜査本部の役割も終盤を迎えつつあった。

 そんな中、黙ってその様子を見続けていた榊原は、不意に小さく頭を振ると、そのまま捜査本部の出口へ向かおうとした。

「おい、どこへ行くんだ?」

 それに気づいた橋本が問いかけると、榊原は背を向けたままこう答えた。

「事件は解決した。もう、私にできる事はないし、ここにいる意味もない。探偵としての私の仕事はここまでだ。今度こそ、後はそっちに任せるよ」

「……そうか」

 橋本としてはそう言う他ない。実際、被疑者が逮捕された今、これ以上一般人である榊原に頼るわけにもいかなかった。

「すまなかったな。帰国早々こんな事件に巻き込んで。約束通り、今度また個人的におごってやるよ」

「その時別の依頼が入っていない事を祈る。じゃあ、私はこの辺で」

 そのまま部屋を出ようとする榊原に対し、橋本は最後にこう呼びかけた。

「久々に一緒に捜査ができてよかった。もっとも、こんな事は二度とないだろうがな」

「……同感だ」

 その言葉を最後に、榊原は部屋から出て行った。橋本はしばらくそのままドアの方を見ていたが、やがて静かに無言のまま敬礼をすると、すぐに事件の事後処理へと頭を切り替えた。と、そこへ入れ替わるように土井たちが本部へ帰ってきた。

「あれ? 榊原さんはどうしたんですか?」

「帰ったよ。もう、自分の役割は終わったと言ってな」

「そうですか……」

「それで、家宅捜索の方はどうだった?」

「どうも何も、証拠の山です。あれなら奴の犯罪を立証するのは難しくないでしょう。それどころか、次の標的ももう決めてあったようです」

「本当か?」

 橋本が顔を上げて尋ねる。

「はい。犯行計画が書き込まれた手帳の最後に、第六の標的の住所がすでに書き込まれていました。間一髪だったようです。これがその手帳になります」

 土井がビニールに入れられた手帳を見せる。橋本は手袋をつけると、手帳を袋から取り出して慎重に中身を確認した。ページをめくるごとに、今までの犠牲者の殺害計画が書き込まれているのが嫌でもわかってくる。井浦鮎奈、東中佐代里、戸内由香、高畑伊奈子、森浜涼子……そしてその最後のページに、住所と一緒にその名前はあった。


『宮下亜由美』


 ……かくして、日本全土を震撼させた『シリアルストーカー』事件は、最期の標的への犯行を事前に防ぐ形で、ついに幕を閉じる事となったのである。

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